法政大学人間環境学部 准教授 櫻井洋介
学際的研究としての意義
「ビジネスと人権」を扱う書籍は、近年、数多く刊行されているが、その多くは「国連ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、指導原則)への対応手順や人権デューディリジェンスの実施方法を解説するものであり、やや実務に寄りすぎるきらいがあった。そうした中で本書は、国際法・国内法・国際政治学の研究者と実務家13名が、この主題に正面から学術的にアプローチし、規範の形成から実施に至る多様な論点を学際的な視点からまとめ上げている。本書の刊行は、実務が先行してきた日本の「ビジネスと人権」の議論を学術研究として深める試みであり、まずはその点を高く評価したい。
問題意識と全体構成
本書は、国際人権基準から導かれる企業の行為規範は「明確」なのか、そして法的拘束力のない指導原則は「実効性」を有するのかという問いに対し、国際人権基準の実効的保障という観点から向き合うことを企図している。本書は四部構成となっており、指導原則の形成と課題や日本における規範の内面化を論じる第Ⅰ部、条約交渉、ILO基準の展開、「ビジネスと平和」を扱う第Ⅱ部、立憲主義、競争法、フランス人権デューディリジェンス法、労働政策の各国比較、日本の行動計画(NAP)を検証する第Ⅲ部、そして女性・LGBTI・子ども・障害者・先住民族の各当事者の問題を国際人権法の視点から提起する第Ⅳ部である。第一義的には国家の義務として構成されてきた国際人権基準が、企業の自己拘束、各国の法制化、労使の国際協定等、様々な形で企業を律する規範となる過程が全章から読み取れる。
競争法からみる企業の人権尊重
特に注目したのは、競争法の視点から人権尊重の企業行動を検討した章である。評者が実務において接する企業の中には、競争法・取引適正化法制上のリスクや偽装請負等を懸念し、取引先への影響力行使を躊躇する例もみられる。同章は、「独禁法が人権問題解決の障害となることはあってはならない」という問題意識のもとで、人権侵害を理由とする取引停止等が競争法と交錯する場面を検討する。さらに労働者への人権侵害行為そのものに対する独禁法適用の可能性にも踏み込んでおり、日本における人権と競争政策の本格的な検討の端緒となろう。
本書の到達点と残された課題
一方で、本書の価値を認めるからこそ、二点を付言したい。第一に、最新動向については読者自身で補う必要がある。フランス人権デューディリジェンス法の判例分析は2023年初頭までにとどまり、その後の本案判決を含む司法運用の展開まで及んでいない。また、EUオムニバス提案の記述は暫定合意までであり、日本の改定版NAPへの言及も限られる。執筆時期と本領域における議論の進展の速さを考えれば致し方ないが、読者は各章の執筆時点を意識して読み進めたい。
第二に、行為規範の明確性・実効性の検討はなお道半ばである。各章の検討は法的分析が中心でやや抽象度が高い。射程の広さの反面、評価尺度は章間で統一されず、終章による総括もないため、規範がどのように権利保障や救済に結びつくのかは、各章を横断して読者自らが読み解くほかない。指導原則の第三の柱である「救済」を全体の分析軸とする余地もあったように思われる。もっとも、国際人権基準を企業の具体的な行為規範へ落とし込む作業は「ビジネスと人権」の中核に位置する難題でもあり、その第一歩を踏み出した本書の学術的貢献は依然として大きい。
最後に
実務では開示基準に関する議論や手続論が先行する中で、本書は「ビジネスと人権」に関する規範の根拠と実効性という本質的な問いへと読者を立ち返らせる。手軽な入門書ではないが、既存の規範を批判的に検討するための文献として、実務家はもとより研究者や政策担当者にも本書を広く薦めたい。
<書籍情報>
『ビジネスと人権----国際人権からみた規範の形成・実施のダイナミズム』
<参考>
(2026年08月03日 掲載)