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「まさに私のことだったー複合差別を学び、運動から得たエンパワメント」 【アイヌ×女性】

【 インタビュー 】

 多原良子さん(「先住民族アイヌの声実現!実行委員会」代表、(一社)メノコモシモシ代表)にお話を聴きました。

-アイヌであることの自覚、思い出すアイヌの伝統料理
 自分がアイヌであるという自覚は、特別に何かがあったわけじゃないのですが、やはりアイヌの家庭ですから。父も母も半分ずつアイヌの血を引いており、親戚もアイヌが多く、近所もアイヌが多いんです。それと母の兄弟や姉妹とか、いろんな人たちがうちに仕事を手伝いに来ていました。仕事が終わって夜になると、アイヌのいろんな話が始まるというか、叔母たちは辛い思いをしたこととかを話すんですね。そういう具合で自分もアイヌだっていうのはもちろんわかっていました。
 家で出てくる料理がアイヌの料理であるか当時は意識していなかったんですが、今、思えばアイヌの料理だったなというのが、発酵したジャガイモを団子にしたものです。収穫されず畑に残った小さなイモが冬の間に自然に発酵したものなんです。ジャガイモは和人が持ち込んだものだと思いますが、アイヌの人たちも栽培するようになりました。町の人たちは質の良い大きなジャガイモを食べたんでしょうけど、アイヌは貧しかったから畑の土の上に残った小さいものを食べるんです。そのイモが冬の寒さで凍ってしまい、日中に太陽が差すと融ける。その繰り返しで発酵するんです。春になるとイモの皮はブヨブヨになって中もぐにゃぐにゃになるんです。その皮を取って水にさらしてお団子にします。グレーとベージュが混ざったような色で、独特の匂いがして、すごく美味しかったです。あまりに美味しいので普通のジャガイモをわざわざ発酵させて作っていました。

-鵡川(現在:むかわ)町での暮らし
 むかわ町は自然豊かなところで山菜もたくさんありましたが、うちはお米も作るし、野菜もいろいろ作っていたから、山菜を取って食べなくても大丈夫でした。
 母は8人子どもを産んだのですが、姉2人は赤ちゃんのときに亡くなり、 残ったのが私の上の兄たち、次に私です。本当は三女ですが、長女のように扱われました。
 鵡川(むかわ)は北海道の真ん中辺りが源流の川です。河口に近いところに村があったので、春にはマスが、秋には鮭が上がってきます。そして、シシャモが上がってきます。当時は水田をみんなで作っていたので、川をダムのようにした堰堤があり、その水を水田に引いていました。父は農家だけでなくいろんな仕事をしていて、その水を管理する仕事もしていました。
 歴史をさかのぼれば旧土人保護法の下で農家をするアイヌに土地を与えたことになっていますが、うちは父方の祖母がアイヌ女性で子どもだったから対象にならなかったと思います。父方の祖父は仙台から来た人で何も持って来なかったと思います。父は河川敷を借りて田んぼや畑を作り、少し手に入れた土地で水田を作るとか、土地改良区の管理をする仕事をするとか、長年、町会議員をやっていたのでその報酬もありました。いろいろな仕事や活動をしていましたね。母は積極的に地域活動とかをする人だったので、家の炊事は子どもが担当するんです。一番上の兄は弟妹の面倒見もよく、とても綺麗好きで料理もできた。2番目の兄はそういうことは苦手。ですが、家畜の世話やストーブの火の焚き付け作りなど外のことは得意でした。兄たちが何年間か炊事をしたら、今度は小学校3、4年生ぐらいの私が担当になりました。家族は父母を入れて8人だし、しょっちゅうお客さんも来ていたので食事の用意や片付けとかとても大変でしたね。
 むかわ町ではアイヌの血を引いた人が、半分とまではいかないけれども意外と多かったんですが、生活は和人化していました。アイヌ語を喋る人はほとんどいなかったです。近所にアイヌのおばあちゃんもいましたし、ちょっと離れた場所に行くと、(アイヌの風習に則って)口を染めたおばあちゃんもいましたけど、いつもアイヌ語を喋るという状態ではなかったですね。ただ、アイヌの家は、どこの家庭でも悪口をいうとか子どもを怒るときはだいたいアイヌ語で言うんですよね(笑い)。そんなときのアイヌ語くらいしか覚えていないので、大人になってからやっぱり覚えなきゃなってテキストや辞書で学んだりしました。アイヌの血を引いているのは嫌だとしか思わなくなっていたので、大人になるまでアイヌ語を学ぼうと思わなかったんです。

-アイヌであることへの葛藤、諦めた陸上部
 親戚のおばさんたちがね、アイヌだということで差別されて嫌だったという話をするし、父からはしっかり教育を受けて日本人に負けないようになりなさいって言われていたから、だんだんとアイヌというのは本当に社会からみて嫌なものなのだなと。私はその家庭に生まれ、その村にいて、そういった血が流れている...。思春期になるにつれて、アイヌはもう嫌だなと思いましたね。
 私が生まれたところは本当に田舎だったんですよ。もうちょっと大きい集落までは4~5キロあって学校もそこまで通っていました。村には小学校高学年まで電気も通っていませんでした。自然と共に育ちました。アイヌの人口が割と多かったのと、祖母の妹が嫁いだところがアイヌで億万長者と言われるぐらいの有力者だったんです。この方は和人にもアイヌにもお金貸しをやっていて、自分はお酒も飲まない、きちんとした堅い生活をしていて村をまとめていた人だったから、私の地域では、そんなに露骨なアイヌ差別とかはなかったです。よく聞く話で他の村では、やはりアイヌは貧乏であることや諸々の差別が随分と多かったようです。

 私は走るのが速かったんです。兄が先に自転車を買ってもらったので、数キロ離れた小学校に行くときはみんなのランドセルをハンドルにかけて、私たちはその自転車の後を走っていたんです。高校に入って何ヶ月かしたときに「10キロ走」があって、友達と1~2キロぐらいおしゃべりしながらだらだらと走っていたんですが、こんなことしてもつまんないなあと思って、ダーっと走り始めたらなんか早くて、どんどんみんなを抜いて10位以内に入っちゃって。私ってこんなに走るのが速かったんだとビックリしました。すると、いろんな運動クラブから誘いがきて、ぜひ陸上部にと言われたんです。入りたいと思ったんですが、一瞬頭をよぎったのは、陸上部に入ったら短パンを履いたり、腕を出したりするのが嫌だなあということ。私は体毛を気にして陸上部に入ることをやめたんです。もしあのとき陸上部に入っていたら、私は長距離走で活躍できただろうし、高体連なんかでも活躍できただろうなあと思うと、すごく残念です。
 大人になって、いろんなアイヌの人たちに聞くと、やっぱり同じような思いをしています。身体検査のときに服を脱がなきゃならない、パンツ一丁になるのが嫌で休んだとか、運動会のときに具合悪いと言って休んだとか。みんなやっぱり体毛を気にして、自分の夢や才能があっても発揮できずに、諦めてしまったのかなって。好きな服を着て、体操着もいろんな選択肢があればもっと違うことができたなあと。
 私たちが取り組んでいるアイヌの活動で、いろんな差別の経験の話が出てきますが、女性だけでなく男性も体毛を気にして銭湯に行けなかった、海水浴に行けなかったという話があります。

―神奈川県での社会人生活、「やっぱりね」に込められた差別意識
 高校も家から不便で結局体力が続きませんでした。中退して、神奈川県川崎市の電気機器の組み立て工場に働きにいきました。流れ作業みたいな仕事でしたが、私の性に合わず、同郷の人が零細企業ですが横浜でトヨタの下請けで板金会社に働いていたので、当時中卒の金の卵を集めていたので、そこを頼って移りました。
 その頃は自分がアイヌであることをそんなに意識していませんでした。たまに、ノースリーブを着るとかストッキングを履くときになると、やっぱり気になりますけど、誰かから指摘されたわけでもないし、自分が気になるだけだと思っていました。
 横浜の会社には事務員として入りましたが、そこは女性は少ない。何年か先輩の北海道出身のお姉さんと私より2つくらい年下で、中学を卒業して、お手伝いさんとして入った白老(しらおい)出身の女の子と私くらいでした。男性はたくさんいて寮があったんですが、私たち女性は社長宅で寝起きしていました。私は白老に叔母がいるんですが、当時から白老にはアイヌの人口も多く、ポロトコタン(アイヌ民族博物館)は有名な観光地でした。なので、白老と言えばアイヌというイメージがあるんですが、お手伝いとして入ってきた年下の彼女は、私から見たらまったくアイヌの風貌をしていなかったから、和人だなと思っていました。15、6歳の女の子が毎日、年配のお手伝いさんとご飯を炊いて、私たちを出迎えたりや掃除をするのは、私たちが会社に行くのに比べて楽しくなかったんだと思います。彼女にとっては私が一番歳も近いし、妬みの対象となってきたんです。彼女は白老にいた女の子だから、私の出身やら顔を見れば、アイヌだなって絶対見分けるんですよ。家庭のお風呂には社長、奥さん、お手伝いさん、そこの娘さんもいるから、順番を決めて入らなくてはならなくて、ずっと私は一人で入っていたんですが、時間がない時には、彼女が私と入りたがる雰囲気だったんです。きっと私がアイヌであると確認したいんだなと思いました。あるとき一緒に入ることになり、お風呂から上がってしばらく経ったときに「あんた、やっぱりね」って勝ち誇ったように言われました。
 普段はアイヌであるっていうことはそんなに意識しなかったけど、こんなふうに他人から言われることはやっぱり非常につらいですよね。そのことで優劣をつけようとすることに対してはね。そのことが原因かどうかわからないけどもホームシックみたいになりました。父親の体調が悪くなり、一緒に関東に行っていた兄が実家に帰ることになり、私も一年くらいたってから帰ってきました。

―札幌での生活、夫から言われた「お前もアイヌだよな」
 一番上の兄が札幌で働いていたので、そちらを頼って札幌に出ました。20歳くらいで結婚しましたが、夫はサラリーマンの仕事をしている普通の家庭でした。子どもも生まれて淡々と生活をしていたんですが、私の実家にはお盆やお正月には絶対に帰ります。その時には仏壇にお参りするのが当たり前なのですが、その仏壇にうちの父方の祖母の写真が飾ってあるんですよ。写真の祖母はアイヌの正装をガッツリしているんですね。アイヌ衣装を着て頭にマタンプㇱ(鉢巻)して、耳にもニンカリ(耳飾り)して、口染めて(入れ墨)レクトゥンペ(首飾り)して、びっくりするぐらいアイヌの正装なんです。そんな写真をここに飾るのはいくらなんでもと思っても、親には言えなくてそのままでいました。実家に帰ったら夫と一緒にお菓子を仏壇に供えて、鈴を鳴らしてお参りするんですが、北海道の人は誰でもアイヌの衣装だって分かるし、口をこんなに染めていたら誰でも変だなって分かるから、夫から「お前のばあさんアイヌか」って言われるかと思いいつもビクビクして、本当にそこに1分1秒もいたくないという感じでした。でも夫は何も言いませんでした。
 ある日、知り合いの夫婦のところへ昼食に招かれて、私と夫と子どもとで行ったんです。そこでお昼を食べていたときに、テレビのニュースかなんかでアイヌの儀式をやっていて、夫が突然私の方を見て「お前もアイヌだよな」って言うんです。「えっ!?」。その瞬間、私は頭の中が真っ白になりました。向かいに座っていた和人の夫婦の驚きで何とも言えない、戸惑いというか、言いようもないっていう目が焼きついて。本当に忘れられません。何で突然、他人の前で私がアイヌであるってことをばらすんだろうという感覚しかありませんでした。「ばらされた」という感じです。2歳と3歳の年子の子どもがいるのに、何も持たないで一人でその招かれた家を飛び出してしまいました。  
 最初はボロボロ泣きながら走りました。そのうちどこに行こうかと思ったときに一番上の兄が札幌にいるから、兄の所へ行こうと。そこまで何キロもあったけど、とぼとぼと歩き始めたんですね。一時間以上歩いたときに考えました。兄に、夫からそういうふうに他人の前でアイヌって言われたんだって言って泣いたら兄も本当につらいだろうと。どうしようと思っていると、夫もびっくりして必死で探していたのか、車で探しに来てくれました。「悪かった。悪かった、ごめんな。お前がそんなに気にしているってこと、まったく考えてもいなかった。申し訳なかった」って言われて。そのときはそのまま、その車に乗って帰ったんです。
 それから特にその出来事について夫と話したことはないけど、もうアイヌだとばれたんだからっていう気持ちがあって、自然にアイヌのことを話したりできるようになったんですね。彼はアイヌに対して偏見も何も無くて、無いゆえにそういうふうにばらしてしまったんでしょうけど、私としては絶対に人に知られたくないことでした。でもそのことがきっかけで、どうしてこんなに怯えなきゃならないんだろうって、なんでバラされるとか思うのか、なんでこんなに恥ずかしいんだろうってことをずっと考えるようになったんです。ただ、アイヌに生まれただけなのに。

―なんでアイヌだと「断ら」なければならないの?―アイヌ協会で活動を始める
 アイヌの女性たちだけで集まって、なんでもいいから話しましょうっていう場をもったときに、やっぱり差別の話はたくさん出てきますね。結婚するときにアイヌだということを「断りを入れる」かどうかという話がある。(アイヌと)「断った」上で相手がいいって言ったから結婚したという話や、(アイヌであると)言えなかったとか、いろんな話が出てきます。「宣言する」ならいいけど、なんでアイヌだからって「断ら」なきゃなんないのって...。後からばれてなにかあったら困るから「断った」と言う人もいるし、そんなこと言う必要ないと言う人もいる。しかし、なんで交際をするのにいちいち「いや、実は私はアイヌなんだけど」って言わなければならないのか。その情けなさというか...。私たちはそんな価値のない人間なの?私もね、アイヌが恥ずかしいんだろうか、隠さなきゃなんないんだろうか、こんなこと一生続けていていいんだろうかと思って。
 それでアイヌ協会の組織に入って、アイヌの人たちと一緒に活動しようと思うようになりました。きちんとアイヌのことを勉強して、毛深ければ毛深いって差別したり、毛がなければないってそれも差別したりと、結局誰かが作った差別によって、私たちは苦しめられていると思いました。そんな世の中であってはいけないと、そのためには自分から積極的に活動して変えていくしかないって決心しました。子どもが小さかったから、ある程度大きくなって、少し自由がきくようになったらアイヌの活動をしようと決めました。
 子どもの教育費のためと思って、資格を取って一般の会社で経理事務の仕事をしていたんですが、私が40歳ぐらいの時、子どもは2人とも大学に行きました。ちょうどその頃に札幌アイヌ協会の事務局から、行政交渉や事業の計画をすすめる仕事を多原さんにお願いしたいって言われました。安定した仕事をしていましたが、いずれアイヌのための仕事をしようと思っていたので、これがチャンスかもしれないと思いました。それでも事務局に入ればどうしても私が表に出なければならないこともあるので、夫と子どもに「お母さん、こういうことしたいと思うんだけどいい?」って聞きました。まあ、夫は変わった人なのかな?「もちろん良い」と。娘も息子も良いよって言ってくれたので、私はアイヌ協会に入って活動するようになりました。
 事務局に入るまでは、札幌アイヌ協会の役員として、みんなといっしょに勉強会をしたり事業を一緒にやるぐらいでしたけど、やっぱり事務局ともなると、時々、外で発言もしなきゃならなくなってきました。

―複合差別との出会い、「まさに私が当事者です」
 私は小さいときから活発な子だったんです。家でも村でも、自分を出せる時は好き放題にふるまっていました。それでも「父親は絶対」でした。兄たちにも逆らっちゃだめだったし、学校もどこも男性社会であることにずっと不満を持っていました。仕事を始めるときも夫は「俺の給料で食べられないのか」とか、「そのくらいの給料しかもらえないのになぜ働くのか」と言うんです。どんなに給料が少なくても、私は責任をもってそこで仕事をしている。社会が女性をきちんと評価しないために同じ時間を働いてもこれくらいしかもらえないけど責任はあるんだよって話すんですが。女性を取り巻く社会状況が今どきこんなのでは情けないなとも思いました。でも一般の女性運動には、どうしてもいろんなことからなじまないなと感じていて、女性運動に参加したくてもしょうがないのかなと思っていました。2002年に国際人権NGOであるIMADR(反差別国際運動)からマイノリティ女性たちの複合差別研究会をするので、地域で活動しているそれぞれのリーダーの人たちに出てほしいという連絡をいただきました。参加して初めて複合差別の概念の話を聞きました。
 話全体はさっぱり難しい。それまでアイヌのことはいろいろ勉強して、人権全体のことも気になってはいたけど、それほど理解してはいなかったです。でも、複合差別の概念は、あの国連人種差別撤廃委員会の専門家でさえ、差別というのは同じマイノリティグループの中でも一様ではないんだっていうことを初めて分かったっていうんだから、私たちが分かるわけもないとは思ったけど、それを聞いたときに、本当にまさにこれだって、私が求めていたのはこれだと思いました。まさに私がアイヌ女性の当事者です、そういう思いで苦しんできたんだから、この複合差別という概念を使って、アイヌ女性の差別撤廃に頑張ろうってそのとき決心したんです。

―女性差別撤廃委員会の日本審査に参加して
 2003年、女性差別撤廃委員会の日本審査の際にニューヨークに行きました。「なんで私が? IMADRの人が行けばいいでしょう」と言ったら、女性差別撤廃条約の農村に住む女性が直面する問題について等の条文が私たちの状況に当てはまるので、当事者が行くことが大事ですよと言われて。私も素直なところがあるから行かなきゃならないかなって。私と部落解放同盟の山崎鈴子さん、IMADRの人と行きました。行く前にIMADRの人が女性差別撤廃委員会にNGOレポートを出してくれて、委員へのロビイングの仕方やブリーフィングの仕方を教えてくれました。あの時は日本政府がほとんどアイヌのことを報告しないので、委員にとっては今どきアイヌがいるかどうかも分かるはずもないから、アイヌの衣装を着て、委員に対し私はアイヌ女性ですと言いました。ロビイングで委員にいろいろお話ししました。会議が始まると日本政府が自分たちのやってきたことを説明するんですが、その次は委員が日本政府に対して私たちが伝えたことを質問するんです。初めて「アイヌ」という言葉や「マイノリティ」という言葉がたくさん聞こえてきて、その様子を聞いているだけで、本当にぼろぼろと涙がこぼれました。
 初めて、こうやって国連で私たちが言ったことを取り上げてくれていることに、この活動の大切さがわかりましたね。その後に委員会からの勧告も出していただき、やればできるんだって感じました。

―女性たち自らが調査員として参加したマイノリティ女性実態調査
 ニューヨークでそういう経験を積んで帰ってきて、周りのアイヌ女性たちにその話をしました。聞くだけで実感がわかないとしても、「すごいね、本当にそんなことしてきたの」と共感してくれて、その後のマイノリティ女性の実態調査のときもたくさん協力してもらいました。
 アイヌ女性によるアイヌ女性への実態調査は初めてのことでした。アンケートの設問はアイヌ女性、部落女性、在日朝鮮人女性についての共通の設問とそれぞれの設問を三者で作りました。調査のために(40数か所のアイヌ協会がある中の)12カ所の地域に行くことになりまして、そこで私はニューヨークの経験を話しました。でも、みんなチンプンカンプンっていう感じで分からなさそうでしたから、それじゃダメだと思って、それならこの人たちに実際に調査に行ってもらおうと思いました。設問をもって出向いて、お願いしてアンケートを書いてもらって持って帰ってくるということですね。アンケートのまとめは専門家にお願いしましたけど、今までアイヌ女性ってそういうことをしたことがなかったんです。自分が調査員になって、相手に説明して書いてもらう。分からないことは勉強して、ここはこういうことなんだよって説明できるようになる。それがものすごく彼女たちのエンパワメントになって、自分たちはこんなことに取り組んでいるんだ、調査員もできるんだという喜びの声がみんなからあがりました。だからそういう経験をすることがとても重要だなと思いましたね。
 実態調査のあとに『ウコパㇻルイ』(アイヌ語で「喋りあう」)という本を出しました。この本には、どうして実態調査を行ったのかということと、アイヌ女性の歴史、調査に関わった人たちの座談会などを収めています。座談会では本当にいろんな意見があったし、一人ずつ書いてくれたコメントに、それぞれの経験が描かれていてすごく大切です。

―ヘイトスピーチに屈しない
 ヘイトスピーチのことなんですけどね。まさに2016年の女性差別撤廃委員会に参加したときに、私たちを隠し撮りする変な人がいるなと思っていたら、そのあとすぐ1日か2日後に隠し取りされた画像が出てきたからわかりました 。
 事件があって以降、5年も6年もこんなのにかまっていてもしょうがないって思っていましたが、アイヌ新法も5年ごとに見直しがあり、来年2024年に見直しがあるので、私たちは政府とチャランケ(交渉)を行い、差別についてきちんと実態調査し、実効力のある差別禁止法を作るように政府と交渉もしてきました。アイヌ新法見直しのために2022年10月ぐらいから、その交渉を始めていましたが、2022年11月30日に立憲民主党の塩村文夏議員がこのこと、現、自民党国会議員の杉田水脈氏による差別扇動行為について質問してくれたんですね。私は新聞記者から「今日の国会の質問にあった2016年の女性差別撤廃条約のときの話って多原さんたちのことですよね」、「このことについて多原さんはどんなふうに考えますか?」と訊かれました。どんなことが書いてあったんですかって訊き返したら、30代くらいの記者なんですが、「いや、僕から言えないんです。僕から言えないんです」って本当に涙声になって。だから、大体想像ついたんです。私は違うところからも、ネットでもいつもそういうことを書かれたりもしてましたけど、もっとひどいんだろうなと思いました。もうこんな人たちにいつまでも差別されてなんかいられない、闘わなきゃだめだと思って、私は「こんなことは許されない、すぐ議員をやめてほしい」というふうに記者にコメントしたと思います。次の日にはそのコメントが新聞記事に出ました。それから1週間で私に対して次から次へとひどいヘイトが658件ありました。私は負けてられないって思って、私の関わっているすべての団体に電話をかけました。国会でこんなことがあって、今これを闘わなかったら私は何のためにいままで活動してきたか分からない、いろんな組織でできることをやってくださいと言ってね。総理大臣や法務大臣に対して、もちろん杉田議員に対しても、直接に抗議文を出すことや署名活動のためにマイノリティ女性のグループや個人にも電話しました。
 この問題が起こった2022年12月22日の政府交渉でもこのことについて尋ねましたが、まったくひどい対応でした。私はとにかく法律を作ってやめさせてほしいということについても、いろいろ働きかけました。

―メノコモシモシ、アイヌ女性が見つけた自分たちの声
 アイヌ女性の活動は、組織でやっていかなかったら長く続かないと思いました。例えば何かの集会に出て、個人としてアピールして、それっきりだったらダメだと思うので、札幌アイヌ協会でずっと複合差別についても活動させてもらってきたんです。だけど、やっぱり男性中心の組織なので、私たちのことを尋ねられても男性が代弁するとか、私たちの考えが伝わらないということがありました。やっぱり女性自身の組織が必要だということで、思いきって2017年にメノコモシモシ(メノコ(女性)・モシモシ(目覚める))という、女性団体を作ったんです。複合差別を撤廃して、いろいろなアイヌの伝統について発信するためにです。メンバーたちは文化の発信についてはみんな何でもできる人たちばかりで素晴らしいんですけど、政治や人権の話になると「難しいわ、多原さんにお任せするわ」という感じだったんです。
 私はみんなにまず杉田水脈氏の発言を読んでもらって、「あなたたちね、アイヌ刺繍もやっているよね。それなのに今回アイヌ刺繍についてコスプレって揶揄された、いや、揶揄どころじゃなくて本当に民族を否定されているんだよ、それでも黙っているの?」って言ったら、みんな「そうではない、私も怒っている」と。じゃあ、そのことをみんなも声に出して言いましょう、ヘイトスピーチに対して他の支援者の方も協力してくれているけど、当事者が言わなかったらダメでしょって言いました。それで今年2023年の3月に集会をすることにしたんです。
 それまでも私はあちこちに行って複合差別について喋ってきましたが、仲間が聞かない、あんまり興味ないっていう感じでした。「多原さんはニューヨークとかジュネーブに行って何かしたよね」というだけで、そこで何をしたのかという興味もあまりなかったんです。でも、この集会をやるとなったときに「多原さんのこれまでの活動のことを聞きたい」と言ってくれたんです。それで私は「じゃあ、あなたたちは自分の言葉でこのことに対して発言して欲しい」と応じました。みんな「ええー!?」とかって言いましたけど、それをしなかったらもうダメって言ったらみんな分かってくれました。それで、みんな自分の言葉で杉田水脈氏の発言に対して発信するために書くんだけど、たくさんの人たちの前で言えるだろうかって心配になって、集会への移動中の車の中で一生懸命に暗記してみたりしてね(笑い)。
 本当にみんなすごく良い言葉を発信してくれました。
みんなメンバーが自分で考えたんです。それを聴衆の前で、みんな心臓が口から飛び出しそうだっていうぐらい緊張しながら、ひとりずつ次から次へと発表してくれたんですね。そして、もっと学んでこんなときに返す言葉を持ちたいと何人かが言うようになったんですね。だからこういう差別に対しても自分たちが頑張れば違う方向に転換していけるんだなって思いました。

―運動の継承
 若い世代への継承は難しいですね。歴史を学ぶことが一番なんだけど。今、表面上はね、アイヌへの差別はないと思っているかもしれない。直接、面と向かって「アイヌ!」と言われたり、石をぶつけられるとか、そんなことはなくなった。とは言え、経済格差であったり、権利が保障されなかったりというところが残っているということを若い人―特に大学に行って勉強している人なら、なおさらわかってほしいです。こんな時代になれば地球環境の問題も含めて、いろんなことについて、こんなのでいいだろうかって考えるときに、やっぱり耳を傾けるだろうとも思います。
先祖や出自をバカにされたり貶められるっていうことは、自分自身がバカにされたり貶められることですし、アイヌに対しておこなってきた過去をないことにするのはできないと思いますしね。私もよく高校や中学に話をしに行く機会があります。分かってくれるのかなと不安になることもありますけど、きちんと受け止めてくれる生徒たちもたくさんいます。当事者グループの人たちが分からないわけがないと思うから話していこうと思います。十人に伝えて十人が一気に育つなんていうことはないだろうけど、一人でもわかって立ち上がろうとする人がいるはずですから。

(2023.8.22 インタビュー)
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杉田水脈氏による無断撮影および差別行為、およびそれに対する法務省の人権侵犯申立については下記サイトを参照
https://www.hurights.or.jp/archives/newsinbrief-ja/section4/2023/02/27-210.html
https://www.hurights.or.jp/archives/newsinbrief-ja/section1/2023/11/post-67.html