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部落女性として50年、差別をなくす運動にかかわる【部落】×【女性】

【 インタビュー 】

山崎鈴子(やまざき れいこ)さん(部落解放同盟愛知県連合会書記長)のお話を聞きました。

〇部落解放運動に参加した契機
 私は、被差別部落出身ではないんです。東京都内の高校に通っている時に「部落差別」と出会いました。日本史の授業で当時、私の高校で教えていた網野善彦先生に教えていただいたんです。日本にこんなひどい差別があるんだと初めて知りました。私は歴史の本を読むのが好きだったから、多分、水平社の名前は中学で知っていたと思います。ですが、網野先生が高校で部落問題研究会というクラブの顧問をされていて、そこでしっかりと歴史を考える基本を教えていただいたんです。学校の授業でやっているのは、為政者の歴史を覚えることでしかないけれど、日本の歴史を作ってきたのは民衆なんだというのが先生の考えの基本でした。でもその時はまだ部落差別は他人事でした。私は福祉関係の大学に行きたいと思っていて、名古屋にある大学に受かりました。
 1969年に大学入学。大学の部落問題研究会は参加してみたけど、考えが合わずにやめました。でも、関わった以上、しっかりと関わりたいと思い、部落解放同盟中央本部に連絡して、紹介してもらったのが今、私の住んでいる地域で運動をしていた先輩たちです。それが私の部落解放運動の出発です。
 大学の途中で母が病気になり、私は5人きょうだいの長女だったので、母の介護と弟妹たちの世話をすることになりました。今でいうヤングケアラーです。母が亡くなり、大学を辞めるつもりだったのですが、父に「学校だけはちゃんと卒業してほしい」と言われました。父は学校にいけなかったものだから、学校は大切という思いがすごくあった人でした。大学を続けて卒業はしましたが、次は女性差別を経験しました。就職が全然なかったんです。

〇女性差別をまざまざと体験
 学校にくる募集には「男性」と書いてあるものばっかり。だから女性は公務員、教員、保育士になる人が多かったです。その時は教員になりたかったのです。卒業はしましたが、母の介護で単位が足りず、教員免許は無理でした。やむを得ず、知り合いにお願いして、民間会社で10ヶ月働いたんです。そこは女性差別の塊みたいなものでした。営業部長なんかが後ろを通れば胸をスッと触って行ったり、そんなの当たり前。私たちの年代はみんな経験していると思います。また、女性だけが時間外で「お茶汲みの準備片付け、トイレ掃除」は絶対おかしいと思って。女性たち何人かで社長に掛け合って、賃金につけるか他の方を雇用するかなんとかしてほしいと言いました。私がよく喋るものだから、首謀者にされて、コンピュータ室に配置になり、キーパンチャーをやることになりました。
 1972年の年末から地域でも解放運動がだんだん盛り上がってきていました。大学卒業後、地域に住んでいたものだから、支部の運動をやっていたメンバーから、地元の社会福祉法人の保育園に口を利くけどどうかという話があって、そこに就職の面接に行ったら、「大卒の保母はいらん」って言われました。だけどそこは母子寮(現:母子生活支援施設)もあって、逆に大卒でケースワーカーの資格を持ってれば大いに歓迎なものだから、そちらでどうかという話になったんです。私は福祉に携わることができ、しかも地元の保育園のところにある施設だし、二つ返事で決めて働き始めたんです。
 そこには母子寮もあり、母子寮のお母さんたちが働くための授産施設もありました。夫が亡くなられた方と、離婚した方が半々くらいかな。そしてDVで本当に苦労された女性たちがいました。正直、DVって怖いと思いましたよ。23歳の私がやる仕事にしては大変だった。お母さんたちには生意気なことを言って申し訳なかったと思ってます。寄り添うってことができていませんでした。相談というのは寄り添うことが大事だって本当に思います。上から目線は絶対にいけません。母子寮で2年、保育所で3ヶ月働いて、愛知県で解放同盟の組織ができる1975年の頃に事務所で働く人間がいないからこないかっていう声がかかりました。でも福祉の仕事は私としては魅力なんだわね。迷ったけど、声をかけてくれたしと思って、収入も考えずに、いいですよと返事しました。親に電話して、「仕事がかわる、部落解放同盟の事務局の事務員だ」と言ったら、「お前それで食べれるのか」と聞かれて、確かにそうだよねと思いました。父は子どもが何をやろうと責任を持ってやるなら反対はしませんでしたが、食べれるのかどうかだけ聞いてきました。

〇1980年代―片や女性差別、片や部落問題への無理解
当時の先輩の方達はほとんど亡くなっちゃって、寂しいわね。はじめ4人専従がいて、女性は私一人だけ。そして、私もいろいろ勉強していくじゃないですか。そうしていくうちに、だんだん不満を感じるわけです。研修会に行くのは男の人で、私は留守番。お茶を出す、掃除をするのは私。私も吸っていたのでタバコを片付けるのはいいんだけど、他の人の分も私がやる。
 だいぶ経ってから私と同年代の人がきたけれど、やはり男の人だから彼を優遇するわけです。全国研究集会には彼を連れていくし。「狭山裁判再審請求」だけは私が大学生の時からやってたから行ってました。そういう状況に不満をもってくるわけ、なんでなのと思いました。
 一方、1980年代に入り、1985年のナイロビ会議(第3回国連世界女性会議)に行くまでの時代は女性運動をやってる人たちの勉強会みたいなところに参加しましたが、複合差別や部落の話をしても、受け止めてもらえないなあというのを実感として感じました。なんでわかってもらえないんだろうと思わされました。たとえば、部落の高齢女性の中には字を知らない人がいることに全く想像力が及ばない。いるのよって言っても、そんなの嘘でしょ、信じられないっていう感じの反応でした。

〇部落女性たちの行政闘争と生活の実態
 私が住んでいた地域で識字運動を始めたのは、お寺を借りて1973年くらいからでした。地元の運動の中心になっていく人たちがそこに行ってたんです。小学校と中学校の先生もボランティアで来てくれていました。日曜日にやっていたので、なかなか続かない状態でした。でも1975年くらいからは小学校を借りて、識字教室をやるようになりました。字の読み書きができないつらさっていうのは、私もそこで知ることになったわけです。本格的な識字教室は1980年頃からかな。教員を退職した後、隣保館で働いていた先生が、それまで識字教室に通っていたご夫婦に声をかけて、地域の隣保館で始めたんです。そのご夫婦は、妻はおうちも比較的裕福で、中学校を卒業しているので読み書きはできたんですが、夫が全然できなかったんです。お見合いで結婚が決まって彼女が手紙を書いても返事が一回も来なかったんだそうです。この人は本当に結婚する気があるのかと思っていたのですが、結婚してしばらくして机の引き出しを開けたら大事に手紙がしまってあったんだそうです。彼が字が書けないことを初めて彼女は理解した。知り合った頃は、なんて仲のいい夫婦だと私は思っていました。どこ行くにも二人一緒なんです。夫が字が書けない、読めないっていうことで彼は一人で外出することがすごく不安だったわけですね。でも識字教室にくる人たちはほぼ女性でした。もう一人来てほしかった男性がいました。識字教室に参加していた方の夫でしたが、ご夫婦で参加していた方が熱心に誘ってくださいましたが、参加はかないませんでした。彼の思いは私には残念ながらわかりません。こうした部落での識字問題は、選挙活動の難しさにもつながっていました。
 その頃の地域の課題は奨学金と環境改善が2本柱で、行政闘争といえば、奨学金と環境改善の問題でした。名古屋市内で初めて5階建て市営住宅にエレベーターをつけさせたのですが、本当に私がいた地域の女性たちが頑張った。男の人は「まあ、ええやんか」ってなるんです。だけど60歳になった時に、買い物してお米とか持って5階まで上がれる? そんなの無理ってなりますよね。改良住宅への入居は1年遅れるけど、みんなで話しあって、我慢して頑張ろうってことになりました
 ちょうどその頃、卵巣の摘出手術をしました。住んでいたアパートは共同トイレで和式、段差もあり手術したあと、家に帰ってもトイレに行くことは無理でした。支部は違いましたが、あるご夫婦が一か月私の世話をその方の家でしてくださいました。
 その時は地域の人たちの優しさを本当に感じましたね。それによって、産みたくても産めない女性のつらさもわかりました。簡単にみんな「なんで産まないの」っていうけど、そんなこと口が裂けても言えません。産めない方もいるし、産まない選択をする方もいるし、女性ではなく男性に原因があって産めない方もいます。いろんな相談を通して女性差別に私も気づいていきました。

〇国際社会の議論を知るーナイロビ会議(1985年)のNGOフォーラム
 部落解放運動の中で性別役割分担がはっきりとあって悶々としているし、一方で地域の外へ行くと部落の問題は全然わかってもらえない。そうした悶々とした気持ちをどうやって解決していけるのか先が見えませんでした。組織の中でいろんな大会に行って発言するほど力はないし、出させてもらえないし。そうするうちにケニアのナイロビで第3回国連世界女性会議があるというのを知って、そこに行けばヒントが見つかるのではと思いました。120万円必要なので無理かなと思ったけど、愛知県と名古屋市が費用の半分を負担する派遣団を出すというので応募し、カンパももらい、私は40万円の負担で行けることになりました。名古屋市の方は派遣団に選ばれるクジに外れたけど、作文を提出した愛知県の審査に通りました。そして1984年の部落の生活実態調査の結果から女性を抽出して、部落女性の実態を自分なりに調べました。非識字、学校教育や労働実態の厳しさ、結婚差別の問題が明らかになりました。派遣団の団長さん(大学教員)に部落問題を出すと言ったんです。そしたら「それを出すなら、あなたを派遣団から取り消します」って夜中の12時くらいに電話がかかってきたんです。その頃には私も強くなってるので、取り消すなら取り消せって気持ちで、話し合いを続けました。でも埒が明かない。ナイロビに行く人たちで記者会見をやるっていうので、チャンスだと思った。「私は行きませんけど、記者会見の場で、こういう理由で行きません」って言いますと言ったら慌てちゃって。「わかりました。あなたの責任でやってください」って。当たり前ですよ、自分の責任で話すことは。
 
 ナイロビに行ってみたら、その会議に行くだけでも命がけの女性たちがいたんですよね。英語は喋れないけれども、文章は辞書を見ながらなんとなくわかるので、そういう事実を知ったんです。いろいろ考えさせられました。ナイロビから帰ってきて、私は行政闘争はやってきたけれども、地域に根差してないなと反省をしたんです
 愛知県で、全婦(「部落解放全国婦人集会」の略、現、「全女」)を開催しないかという話がナイロビ会議に行く以前からあったのですが、私はやれるはずがないと思って準備もしてなかったんです。でもナイロビから帰ってこれではいけないと思って、まずは愛知県の解放同盟の女性部(当時の名称は婦人部)を作るところから始めました。識字教室にずっと通っていた女性に声をかけました。ただ、その人を昼間に引っ張り出すのは、日銭の仕事で生活されているのでやるべきではないと思いました。仕事は犠牲にしない、解放同盟の中央本部の仕事や会議には私が出るので、夜や日曜日の会議には部長として出てほしいと説得し、お父さんが不安がらないようにお父さんとお母さんの両方が出てほしいと。それで了承してもらって、1985年10月に女性部を結成し、彼女が部長で、私が事務局長になりました。翌年3月に愛知で「部落解放第31回全国婦人集会」を開催しました。

〇「複合差別」との出会いとマイノリティ女性たちとの協働・連携へ
 次は1995年の北京会議(第4回国連世界女性会議)だってわかっていたから、解放同盟の女性たちとして行こうって私なりに心に決めていました。各地で女性部が結成されてきて、いろんなところで問題意識をもってる女性たちが発言して、こっちも元気になるし、女性たちの力もついてくるわけです。そういうことを背景に、北京では解放同盟としてワークショップをやるって、みんなの気持ちが一致したんだと思います。
 北京会議ではNGOとして、「アジア・太平洋マイノリティ・先住民族女性ワークショップ」を主宰し、部落女性が、アイヌ女性、在日コリアン女性に呼びかけました。国際人権NGOのIMADR(反差別国際運動)が司会で私は受付係だったかな。みなさん元気でした。そこで日本のマイノリティ女性の問題を訴えることになりました。私はアイヌ女性とか在日コリアンの女性のことを知りました。話としては聞いていたけど、初めて一緒に活動をしました。そこにニュージーランドのマオリの先住民族の女性たちも来てくれたりして、国境を越えて女性たちがつながるということを実感しました。
 2000年頃、国際人権NGOのIMADR(反差別国際運動)主催の「複合差別研究会」の勉強会に参加して、はっきりと複合差別という言葉を知りました。それで2003年のCEDAW (国連女性差別撤廃委員会)による日本政府報告審査の際に、部落女性の問題を訴えようとロビー活動をするために行ったのですが、この時は解放同盟の組織としての参加ではなく、私個人で行きました。お金も出ないので、うちの事務所のメンバーがカンパを集めてくれました。温かいんです、部落解放同盟愛知県連の事務所の男性陣は。
 ニューヨークの国連本部から帰ってきて、あちこちで報告をしたり、IMADRで本を出したりし、解放新聞にも載りました。それで「複合差別」のことをだんだんみんな知るようになっていったんじゃないかと思います。
 報告の柱は昔も今も結婚差別と非識字と就労です。だんだん理解者も増えてきました。加えて、CEDAWから、日本政府に対し、マイノリティ女性が結婚・就労・健康・教育等に関し受けている差別について実態を調査し報告しなさいっていう勧告が出たことは大きかったです。あれがきっかけで部落女性の置かれている課題を解決しようとする運動が広がっていきました。

〇マイノリティ女性の連帯で実態調査を実施
 2003年のCEDAWの審査に行った時は、まだ自分の感覚でしかものを言えてなかったと思います。CEDAW委員の方々から差別の実態を示す数値は?と言われ続け、数値で示さないと国連では説得力を持たないことがよくわかりました。みんなと相談し、研究者のような専門的な調査はできないにしても、自分たちのことを自分たちで表すことは大事だし、一回やってみてもいいんじゃないかということになりました。自分たちが調査の主体になるということです。実態調査と銘打つには重かったから「アンケート調査」という呼び方にしました。部落女性、アイヌ女性、在日コリアン女性の3者が集まり、自分たちで議論して、共通項目を作り、また各自が独自の調査項目を作りました。それぞれに調査をして、その過程で、すごく力がついたと思います。でも、いろいろ言われましたよ。この調査には社会学的な意味はないとか、統計学的な調査じゃないとか...。なんで応援してくれないのって正直寂しかったです。
 部落女性については、毎年開催している「全国女性集会」の第50回に参加した女性に対して調査をおこないました。そうすると解放運動に参加している女性に限定されることになるので、もっと広げようと思い、愛知県の部落女性の実態調査もしました。でも住民基本台帳からひろうことはできないので、結局、解放同盟の周囲にいる女性たちにも広げました。地域には運動に参加しない女性もいっぱいいたしね。
 
〇国や地元自治体への働きかけで自分たちが成長

 2003年のCEDAWの勧告以降は、それが武器になりました。当時は、松岡徹・前部落解放同盟中央本部書記長が国会議員で、福島みずほさんも私たちの理解者だったので、お二人が省庁との交渉に立ち会ってくださいました。内閣府をはじめ関係省庁が全部出てきたんです。これはすごく大切なことで、今後も力を入れてやっていきたいと思っています。国による実態調査も1回や2回の省庁交渉で実現することではないし、やはり議員の力を借りることは重要です。
 地方自治体については、各自治体が男女共同参画審議会を設置してますよね。その委員になるよう部落女性に呼びかけています。年に1回、委員になった人たちの交流会を解放同盟女性活動者会議でやってるんですよ。結婚や出産に際して、いったん離職するM字型労働構造の女性とキャリア志向の女性という2つの類型の女性に対する政策は実施されていくけれども、マイノリティ女性は働き続けるという選択しかない女性たちが多いし、マイノリティの女性たちの政策はどこの自治体の政策にも入っていませんでした。だから自分たちが声を上げるしかなかったんです。私自身も2002年に名古屋市の男女平等参画審議会に一般公募で応募して就任し、そこで発言をしたんです。たまたま、その審議会には障害女性でいらっしゃる大学の先生が市の推薦で委員になられていて、よく知っている「連合」の方と3人が同じ問題意識を持っていました。それで3人が名古屋市の政策の中にマイノリティ女性に光を当てることが大事だということを発言し、全国で初めてそのことが行政への答申の中に入ったんです。その経験は、わたしにとっても自信になりましたし、障害女性の人を始め、様々なお友達もできました。
 地域女性団体連絡協議会会長として審議会に参加していた女性は、たまたま、わたしが住んでいた地域のすぐ近くの方でした。私が自治会会長になったときに、ご挨拶に行ったら、その方の夫から「あら女性でやれるの?」と言われたんです。彼女と顔を合わせたら、ご近所なので「帰りに送ってくわ」と言ってくださって、「ありがとう。じゃあ甘えるわ」ということになり、ちょっとずつ話をする関係になっていったんですが、そうすると協力関係が築けるようになりました。答申が出た時には、本当に私は嬉しかったです。国連の勧告、名古屋市の答申は、私にとっては大きな励ましになり、力になりました。だから全国の女性たちも、最初は何を言えばいいのかしらとか、そして会議では、みんなえらそうに話してるし、わからないこともあるしという不安を感じているのですが、部落女性のことを語れるのはあなたしかいないのよという背中の押し方をしてきました。何を言ってもいいのよ、言うのはしんどいけど、言わないとわかってもらえないのよということです。自分が政策の中に一番入れてほしい部落の女性のことをまず言えばいいと伝えてきました。

〇今、部落女性として訴えたいこと
 複合差別があるっていうことを何よりわかってほしいです。そういう差別がある、差別を受けている人がいるということです。そこの理解がマジョリティの人たち、そして部落のなかでもなかなか進みません。他のマイノリティ女性たちとアンケート調査について議論をした際に、みんなで話したのは、差別されているグループの男性たちほど、そのグループ内での女性差別意識は強いということです。口では「女性差別はだめ」と言うのですが、本音のところではそうではない。さらに、部落女性が部落の外に向かってこのことを言うのは簡単ではないという事情もありました。複合差別の具体的な事例を話すと、外からの部落差別がよりきつくなるんじゃないかと思ってしまう。一回言ってしまうと楽になるのですが、なかなか簡単ではなかったです。
 結婚差別というのは根が深い問題です。私の実感で言うと、部落外の女性が部落の男性と結婚すると、ムラ(部落)の人たちは女性を大事にする傾向が強いです。でも、部落の女性が部落外の男性と結婚して外に出るとかなりきつい経験をする可能性が高いです。
 結婚差別は、なかなか表に出てきません。本人がカミングアウトしている際は、私から結婚差別の話を出すことができますが、それは氷山の一角でしかありません。結婚差別を受けるときの思いは部落外でも部落内でも、そして男でも女でも一緒ですし強いと思います。
 部落の男性と結婚したある女性は、未だに親との行き来ができません。二人で本当に努力しています。部落外の女性と恋愛した部落の男性は、女性の親の反対で女性が自殺するという事態に追い込まれました。彼は時々電話をかけてきます。私は彼の話を聞くことしかできません。結婚差別はみんなが犠牲になります。本当に根深いです。
 親は、結婚式当日に相手が来るか来ないかという悩みで前日は寝られないといいます。だから部落同士で結婚するのが一番ほっとするっていうことになるわけです。そして結婚はしても差別はそう簡単にはなくなりません。結婚を反対されて結婚したカップルのDVは根深いっていうこともあるんです。わたしは地域に親戚がいないので、誰かに喋るっていう心配がないから話してくれる、相談してくれるというのもあると思います。

〇差別とむきあった自分史をもう一度ふりかえる

 もともと部落のルーツではありませんでしたが、今の地域に50年住み運動してきた私は、実際に差別も受けてきました。
 大学を卒業してすぐに勤めた民間会社では、私が住んでいる地域をみんな避けるんです。私の住所がみんなに伝わった際、私と同じ地域に住んでいた社員から「お前、俺のこと絶対言うなよ」って言われたんです。こっちは言いません。当時、名古屋市営のバスは頻繁にストをやっていたんですが、会社のルールで、ストの時は営業の男性社員が女性の事務員を迎えに行くことになっていたんです。私と家が近いから本当は彼が迎えにくればいいでしょ? ですが、彼は来なくて課長が来ました。運転を担当していた19歳の社員からは、〇〇町だから迎えにいかないって言われました。部落差別は露骨でした。
 保育園でも、主任保育士さんが「あんた、なんで〇〇町なの?」って。「ここの保育園は、〇〇町の人は代々とったことはない」って。こっちはまだ保育園に入ったばっかりで、何も言えませんでした。
 女性差別に関しても話しておきたいことがあります。「愛知部落解放・人権研究所」という団体があり、そこが主催する「人権大学」の講座でわたしは助言者を務めています。そこの人権ワークショップに参加するようになって初めて、わたしはストーカー被害を話せるようになりました。それまではしゃべることができなかったんです。わたしは一人で暮らしていますが、わたしが自宅に帰ると、毎日玄関の前に男性が座り込んでいたことがあったんです。目の前のアパートの男性だったんですが、気持ち悪くてねえ。ストーカー規制法ができる前のことでした。警察に電話しても「あなた、体には傷がついてないでしょ」って言われました。でも、私の心には傷がついていたんですよ。みんなも心配してくれて、いろんなアドバイスをしてくれました。そして見回りもしてくれたんですが、結局、最後はその人が焼身自殺されました。私はそれで数年心を病んだんです。桶川ストーカー事件がきっかけになり、ストーカーの話も取り上げられるようになりました。でも私にはつらい経験で、しばらくその場所には行けませんでしたし、長い間、しゃべれなかったです。
 私は生まれ持っての赤アザがあったので「見た目差別」もありました。治療したから少し薄くなったけれど、小さい頃はそれでいじめも受けました。手術して治療するんだけど、そうすると絆創膏して首に包帯を巻くのですが、事情を知ってるのに「どうしたの」って聞いてきた女性がいたんです。「あんた知ってるでしょう」って思いながら、「うん、借金でね、首が回らないのよ」って言いました(笑)。
(2022.8.8 インタビュー)