<キリスト教は物心ついたときから>
2022年4月から大阪にある日本基督教団部落解放センターの主事を務め、同教団の牧師でもあります。宮城県仙台市の出身ですが、母親がクリスチャンだったので、物心ついた時から教会に通っていました。洗礼を受けたのは12歳の時です。
中学、高校は公立学校だったので、自分がクリスチャンであることが言いづらい環境でした。また通っていた教会は社会問題には関わらない教会で、ひたすら聖書を読んでそこに書いてることを信じ、そのとおり生きていこうという教えでした。クリスチャンでない人は地獄に落ちると教えられていたので、「みんなは救われないかわいそうな人たち」と思っていました。将来は中学校の先生になってソフトボール部の顧問になりたかったんです。中学・高校とソフトボール部の部員ですごく頑張っていたんですよ。国立大学の教育学部をめざしたのですが、受験に失敗し、地元の私立のキリスト教を専門に学ぶ大学に入りました。その大学では社会科の教員免許が取得できました。しかし、大学で学ぶキリスト教の教義は自分の教会とは違っていました。だから大学の授業では興味を持ってキリスト教を勉強できませんでした。その頃、私にかつて洗礼を授けた牧師が、どの教団にも属しない教会(単立教会)を始めることになり、私の母親とあと二家族だけついていきました。公民館のようなところで礼拝をおこなっていました。
<レズビアンである自覚と就職の挫折―再び教会へ>
「高校までの私は脳みそまで筋肉でした」とか言ってますけど(笑)、その頃はスポーツと勉強とご飯のことだけ考えてましたね。教会ではクリスチャンと結婚しなければならないと言われていたし、誰かと恋愛するなんてありえない...。でも思い起こせば女子高の当時の友だちへの感情は、恋愛感情だったかも。大学に入った頃には何となく自分はもしかしたらレズビアンなのかなあと悩みはじめてました。それで大学の図書館に行ったり、パソコンで検索して情報を集めたり...まだ自覚まではいかないけど。
ソフトボールは高校3年のときに怪我をしてその後は続けられませんでした。ソフトボールはできないわ、志望校に落ちるわで、大学の始まりは暗かったです。そして大学生になってからインターネットで同性愛者と地域や年代毎に知り合える掲示板にたどり着きました。それで地元の同性愛者たちとメールのやりとりをはじめたんです。とはいえ、掲示板ではみんな仮名なのです。ほとんどの場合、お互いの本名を知らなかったです。オフ会では同年代の友だちもできました。東京でレズビアンのための大きなクラブイベントがあって、友だちは仙台から東京に遠征したりして...。私はお酒が飲めないのであまり行かなかったけど。でも、あの頃そういうつながりがなかったら、私はどうなっていたかなと思いますね。
大学を卒業した頃は「就職氷河期」。教員採用試験も難しく、フリーターのような形で何年か働くことになりました。教会からもすっかり離れてしまったある日、大学時代の先生に街なかで偶然出会いました。「今何してるの?」と聞かれて、私はその場で号泣したんです。アルバイトで朝9時から夜9時まで働く日々でした。また自分のセクシュアリティを知っている友だちはできたけど、自分自身がレズビアンであることを受入れられない。先生から尋ねられた時、「一体自分は何をしているんだろう」と感情が一気に噴き出したようです。
その先生は日本基督教団に属しておられ、もう一度教会に戻って牧師を目指したらどうかと言ってくださったんです。
それで、仙台の日本基督教団の教会に行きはじめました。月曜から土曜まで働いて日曜に礼拝にいくのは結構きつかったのですが、その教会の雰囲気が自分に合いました。教会も若い人が来たというのですごく歓迎してくれたんです。その後大学の先生からの勧めもあり、牧師になるための試験を受けるに至りました。
<東日本大震災後の支援活動をのりこえて>
その後、日本基督教団の牧師になるための最初の試験に通ったあと、2011年夏からアメリカの神学校に留学できることになりました。
しかし、留学準備に入る予定だった時期の2011年3月11日に、東日本大震災にあいました。私が働いていた仙台のキリスト教関係の団体は震災直後から宮城県沿岸地域の被災者支援の拠点になりました。世界中のキリスト教関係団体からの支援が届きました。団体の拠点は仙台市の中心部にあったのですが、そこから沿岸部の津波の被害を受けた地域へ、私はハイエースを運転してボランティアさんを送迎したり、自転車でみんなを先導したりしました。中高時代の部活で鍛えた筋肉が役立ったかもしれません(笑)。でも津波被災地域での瓦礫や泥そうじの作業は肉体的にも精神的にも相当きつかったです。自分もいろんな意味で被災していました。自動車(ハイエース)が使えるようになるまでは、ほぼ毎日休みなく自転車で往復25キロほどの沿岸と街中を行き来していました。拠点から自宅の往復は徒歩でした。食べてはいたのですが、気が付けば10キロやせて体重は40キロを切りそうでした。この活動の中で心身ともに疲れはてたんだと思います。でも全国から来てくれたクリスチャンではないボランティアの仲間たちが励ましてくれて、アメリカ留学に送り出してくれました。この仲間たちがいなかったら、アメリカに行くことができていなかったかもしれません。
私は今も、その頃働いた津波被災地には一度も戻ることができていません。また、2011年3月11日以前の記憶があいまいです。震災以前に自分が何をしていたか、どんな感情を持っていたか、あまり思い出せないのです。もう10年以上前の話ですが、私にとってはまだ思い出すこと、触れることの難しい出来事が東日本大震災です。
<アメリカの大学院での日々は人生の宝物>
留学先はアメリカ中西部の神学校でした。その地域は黒人と白人の比率が半々くらいで、アジア系住民は数パーセントしかいません。でも、アメリカで、クリスチャンであることがマジョリティになったんです。この経験は本当に新鮮で...。日本では隠し続けたり、勇気を出して友だちに言ってみたりという経験しかないんです。さらに、大学院にはLGBTQの仲間がいました。学生にも先生にもいて、それが当然という空気がありました。私はここで初めてレズビアンの教授に出会ったんです。
この3年間は私の人生の宝物になりました。が、いきなり英語だけの授業は壁が高かったです。1年目はほとんどしゃべれないから、友だちもできないし、カミングアウトもできない(笑)。大学院に入学する際の志望動機には自分のセクシュアリティについて書いたのですが、先生同士がその情報を共有しているかどうかわからなかったし、誰が私のことを知ってるのかもわからない。
ちょうどオバマ政権下で同性婚を国レベルで合憲とするか議論していた時期でした。ほぼすべての授業で先生がLGBTQについてふれるので、はじめはみんな同性愛者なのかと思いました(笑)。その頃学校の授業でも活用されていたfacebookでわたしがちょこっと「自分のことをなかなか言えない」みたいな書き込みをしたら、それを見た友だちが「もしかしたら同性愛者なの?」と話かけてくれたんです。そのおかげで、1年ほど経ってからやっと友だちに少しずつ伝えていったという感じです。
授業ではキリスト教についてだけではなく、多様な学びがありました。黒人差別の存在はもちろんのこと、パワーバランスの話もいろんなところで出てきました。「今ここで集まった人たちの中で誰がパワーを持ち、どんな影響があるのかを認識しない牧師は、大変なハラスメントをおこしてしまう。そして牧師が間違った力を行使してしまう」と何度も言われましたね。セルフ・アウェアネスー自分が周囲の人たちにどれくらいの力を持っている人間なのかを常に把握してくださいという言葉とともに。あなたの文脈や誰かの文脈をわからずに話をしてはいけないと。私は日本に帰ったらレズビアンであることをカミングアウトした牧師になろうと心に決めました。
<キリスト教と同性愛について>
キリスト教と同性愛についての私の考えですが、クリスチャンの中で二極化していると思います。いわゆる福音派と言われるグループは「同性愛は罪である」とはっきり言っています。もちろん福音派の中にも同性愛者を否定しない人たちもいますが、多くは否定的です。韓国ではこうした保守的なキリスト教会が、差別の事由の一つとして性的指向を入れた包括的差別禁止法の制定に大反対しました。
私がアメリカで通った神学大学院と教会は、アメリカ合同教会に属します。そこの神学は、聖書の一字一句を「絶対的な事実」としては読まないわけです。一方、わたしが所属している日本基督教団はたくさんの教派が合同している教団です。私たちの教団でゲイやレズビアンが牧師になり始めたのが1990年代後半だと思います。韓国のように牧師になれないということはないのです。かと言って、すべての教会がウェルカムというわけではない。どこに行ったら安全なのかがわからないんですよね。教団としてLGBTQの牧師がいる事実を追認して意見を表明できればいいのにと思います。
<荊の道は再び続く>
日本に戻る前、自分のセクシュアリティをカミングアウトして牧師として働けるところを探していたのですが、なかなか見つからず、やっとたどり着いたのが岩手県の田舎にある小さな教会でした。前任の牧師さんがすでに教会でLGBTQの話をよくされていたようです。セクシュアリティをオープンにしている牧師である私を迎えるかどうかの話し合いで、年配の女性の信徒さんが「それはいいことだ」と言ったそうです。「マイノリティの痛みがわかる人が来てくれる」と。その教会では最初から楽しくすばらしい時をすごしました。
しかし、教会で働き始めて1年目につらい出来事が起こりました。教団・教派の垣根を越えて活動しようと集まったグループ(教会ではエキュメニカルと言うのですが)があり、最初はわたしを「歓迎します~」と言って迎えてくれました。クリスマス礼拝を一緒にする計画をしていたのですが、グループの一人が私のセクシュアリティをインターネットで発見し、「一緒に礼拝できない」とリーダーに伝えたそうです。そのリーダーは、「自分はLGBTQのアライだ」と言っていたし、わたしはアメリカで学んだally(アライ)を想像していて、何があっても必ずマイノリティの側につくのがアライであるというイメージがあったのです。でもその人はそうではなかったんです。リーダーは私の教会を会場として予定されていた会議が突然キャンセルになったと伝えてきました。ずいぶん後になってから、実はわたし抜きで他の場所でみんなで会議をしていたことを知りました。会議がキャンセルになった当初は、わたしには「あなたと一緒にできないという人がいますけど、どう思います?」と聞いてきたのです。「どう思います」って、アライなんだから、「それは差別です」と言うべき...と思ったんですけど、きっとそれが差別であるという判断ができなかったんでしょうね。差別であるとわかってほしいし、謝ってほしいと言い続けたら、わたしがハラスメントしていると言われました。途中で被害者と加害者が逆転したんです。大阪や東京のようにいっぱいLGBTQの課題で活動している人がいるわけでもなく、味方になってくれる人は少なかったです。
東北のある教会でLGBTQのテーマで講演をしたときに、あるだいぶ年配の男性の信徒さんから「いやあ、あんたのこと、こわい人だと思ってた」と言われたこともありました。それからその人とは仲良くなったんですけど、要するにレズビアンの牧師だというと、こわい活動家みたいなイメージを持たれていたみたいです。新型コロナウイルス感染症が感染拡大し始めた頃に、岩手から大阪に引っ越してきました。大阪に来た理由は他にもありますが、あの時の差別経験とその後の対応が影響し体調をくずしたというのが主な理由の一つでもあります。
<海外ともつながり、部落問題にも向き合う日々>
大阪に来て、また、部落解放センターで働き始めたおかげで、海外の教会と出会う機会がたくさんできました。2024年に行ったドイツの教会関係の国際会議では、レズビアンの牧師と出会うことができました。同じく2024年11月は個人で自主的に行ったのですが、韓国でアジアのクリスチャンの女性たちの集まりがありました。2025年2月にはネパールに行き、8月にはカナダに行く機会をいただきました。やっぱり、大阪は関空があるから、海外が近いです。北東北の田舎にいたら、まず東京に行って成田空港なので、フットワークが全然違うなあと思います。それから、大阪教区は女性が活躍しています。女性の主任牧師も多いですし、教区の役職のうち、今は議長は男性ですが、副議長と書記を女性が担っています。こういう教区は少ないです。大阪に来て社会運動に関わっている人とのつながりがすごく広がりました。
韓国での集まりの後、韓国のクリスチャンのアライの活動を知って、羨ましいなあと思いました。もちろん韓国の教会では、LGBTQを否定するクリスチャンのほうがマジョリティで、差別が厳しいのですが、LGBTQのためにアライたちがネットワークを作って活動しておられるんですね。
2025年5月末に、タイのバンコクにおいて、アジアでLGBTQのために活動しているクリスチャンの会合(ICAC - Inclusive Church Asia Connection 2025)が初めて開催され、参加しました。会合に参加したみんなでその時に開催が予定されていたバンコクでのプライド・パレードにも参加しました。プライド・パレードを挟んで3日間のぎゅっと詰まった日程でしたが、香港、台湾、韓国、中国、タイ、シンガポール、フィリピン、マレーシアでのLGBTQの経験を聞くことができました。本当に楽しかったです。
東北地方にいた頃は、研修で部落差別問題について学ぶ機会はなかったです。私の前任者である、部落解放センターで主事として働いていた方は、東日本大震災の後、支援に来てくださったときに知り合いました。その方は、私がアメリカに住んでいた時、部落解放センターのニュースレターや部落差別を含めた人権問題に関するさまざまな資料を送ってくださいました。
日本基督教団で行っている7月2週目の日曜日の「部落解放祈りの日」には、岩手で奉仕していた教会で毎年、「部落解放祈りの日」礼拝を捧げていました(必ずしも全ての教会がこの日を覚えて礼拝しているわけではないことを、大阪で働くようになってから知りましたが)。その礼拝の準備のために私自身は独学で部落差別問題について勉強していました。キリスト教にゆかりのある人たちもまた部落差別をしてしまっていたことを省みる必要があることや、東北にはそういうことはない、と言ってしまうことの危うさを説教の中で話したりしました。
<私が変わる、関係性が変わる>
アメリカ留学前と後では私個人はだいぶ変りましたね。留学前のわたしは猫背で、背筋を伸ばして歩くのが苦手でしたし、いつも小さくなっている自分を感じていたんですね。人生のロールモデルになる人が日本にはいなかった。でも、アメリカでたくさん食べて身体が大きくなって声も大きく出せるようになって、自信がついたんですね。自分の身体が変わるとともに神学大学院での深い学びと、たくさんのLGBTQ当事者とアライのクリスチャンたちとの出会いを通して自分が自分を受けとめていけるようになり、内面も変わっていったと思います。神様を信じているというコアなところは変っていません。お祈りをしたり礼拝をしたり、神様と向き合うことは自分が小さい時からやってきた大切なことであり、どんなに教会が同性愛は罪だとかいろいろ言っても、わたしの信仰を無くすものにはならなかった。
岩手の教会で働いていた頃、仙台で、LGBTQがプロの写真家にポートレートを撮ってもらうという「アウトインジャパン」のイベントに参加しました。当時、私は差別を受け落ち込んでいたのですが、参加してよかったです。撮影に同行してくれた友人の牧師のほうがわたしよりも、「これを着たほうがいいよ」「あの帽子がいいよ」とか衣装を借りることができたので盛り上がってました。その友人がイベントの後、こんな言葉をつぶやきました。「いやあ、ゲイやレズビアンがいっぱいいてさ、玲奈さんの苦しさとか寂しさが少しわかったような気がする。あの場所で、わたしは異性愛者として初めて一人ぼっちだった」と。写真撮影もよかったんですけど、一緒にいてくれてありがとうと言いたかったですね。岩手の教会の信徒さんはみんな私を本当に支えてくれました。そして、教会があった町の人たちとも、さまざまな活動を通して仲良くなることができました。今でも一年に一度は「里帰り」しています。
あえてセクシュアリティをオープンにして牧師を続けることは、とても重要なことだと考えています。なぜなら、北東北でも、関西でも、どこに行っても必ず、カミングアウトしていない当事者の方々やご家族などがお声がけくださり、励まされるとおっしゃってくださるからです。北東北にいた頃、オープンなレズビアンの牧師は私一人でした。今、関西ではLGBTQの牧師が何人かいますが、今のところ大阪地域では主任牧師として働いているオープンなLGBTQの牧師は一人もいません。日本の教会はまだまだ、男性・異性愛者・シスジェンダー(※出生時に割り当てられた性と、性自認が一致している人)の牧師を優先的に求めているからです。典型的な間接差別が存在する状況があると思います。そのような中でオープンにし続けることで、見えにくい不利益は確実にあります。しかし、これからもできる限りオープンにして働いていきたいと思います(もちろん、時と場合によってはわざわざこちらから言わないこともありますが)。もっと厳しい状況にいる他のアジアのLGBTQとアライのクリスチャンたち、そして、部落解放センターでの活動を通して出会わせていただいているマイノリティ女性たちー在日コリアン、部落、沖縄、アイヌの女性の方々―の姿に、日々、励まされています。
交差性差別や複合差別という言葉を聞かれたことはありますか?
人はそれぞれ、性、出身、国籍、人種・民族、性的指向、障害の有無など、さまざまな違いがあり、さまざまなアイデンティティを持って生きています。アイデンティティの中には、社会的に少数派であったり、差別を被るなど不利な立場に置かれがちなマイノリティ性を有するものがあります。
そして、一人の人が、複数のマイノリティ性を生きる場合もあります。民族的マイノリティの女性、性的マイノリティの子ども、障害のある被差別部落出身者などがそれにあたります。
たとえば、在日コリアン女性は、ヘイトスピーチの被害を受けたり、賃貸住宅を借りにくいという民族に基づく差別に遭うだけではなく、家庭では仕事の有無にかかわらず、女性の役割だからと言われ、家事・育児・介護を過重に担うことになったり、また職場や地域社会では女性であることで軽んじられ、意見を聞いてもらえなかったりします。在日コリアン女性に対する差別は、「在日コリアンであることによる差別」と「女性であることによる差別」の両方が掛け算のように複雑に絡み合っていて、その被害もより複雑で深刻になります。このような状況を交差性・複合差別といいます。
しかし、これまで性、国籍、人種、民族、障害の有無などそれぞれの差別は別々に考えられ、取り組まれてきたため、複数のアイデンティティが重なり合うことによる差別や不平等を受ける人びとの困難がなかなか理解されませんでした。国連では、1990年代以降、性差別の問題を人権保障のメインストリームに位置づけようとする取り組みが進みましたが、この流れの中で、複数のアイデンティティが交差することによる差別や不平等の問題が当事者を中心に提起されるようになりました。そして、交差性・複合差別を考慮することなしにはジェンダー課題の解決はありえないということが共通の理解となりました。近年の人種差別、障害者、ジェンダーなどにかかわる国際的な文書では、交差性・複合差別の問題が必ずと言っていいほど言及されるようになっています。社会にある差別を別々に切り分けて理解し分析しようとする視点からは、複合的に存在する社会の障壁と、それらの複雑な影響や不平等をなくすことも不可能だからです。
交差性差別と複合差別について、学術的に厳密な定義と使い分けがされることもありますが、このサイトでは特に必要がある場合を除いて両者の使い分けはしません。
日本でも部落、在日コリアン、アイヌ、沖縄、障害女性たちなど当事者によって交差性・複合差別に関する問題が提起されてきました。ヒューライツ大阪の「交差性・複合差別」サイトでは、この問題に関する当事者の声、ヒューライツ大阪の事業、そして国際社会の動きなどを紹介し、人権課題の解決には交差性・複合差別の理解が必要不可欠であることを伝えていきたいと思います。