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スタディツアーを企画して

藤本伸樹(ヒューライツ大阪)

ツアーまでのいきさつ
 あるときふとフィリピンへのスタディツアーの企画を思いついた。ヒューライツ大阪では、これまでアジア地域における人権教育を推進する事業に力を入れてきているが、それならば一度、具体的に歩いて見るツアーを企画してはどうかと思ったのだ。アジアで人権教育のお手本となる見学先をあげるならば、フィリピンが抜きん出ている。「フィリピンに学ぶ人権教育スタディツアー」。これをキャッチフレーズにしよう。周囲に軽い気持ちで切り出した。すると、たちまちそのアイデアは支持され、話が進んでいった。
 フィリピンといえば、ヒューライツ大阪のアジアにおける人権教育プロジェクトを中心的に担っているジェフさんの出身国である。それに私にとっても関わりの深い国なのである。何しろ1988年から94年までの約6年間、私はケソン・シティをベースにフィリピンで暮らしながら仕事や旅をしていたからである。
 ツアーの企画がぐっと前に進み始めた頃、姫路工業大学の阿久澤麻理子さんが、『人はなぜ「権利」を学ぶのか-フィリピンの人権教育』(解放出版社刊)という本を著した。この本は、フィリピンの人権教育の背景と現状がとてもわかりやすく書かれている。結果として、同書の出現が、ツアーの具体化と参加者の理解を深める上での追い風になった。
 4月5日に「フィリピンの人権教育を知ろう」というテーマで、阿久澤さんを講師に招いた勉強会を開いた。40人近い参加者があった。このときが、ツアー計画のお披露目となったのである。教育者や研究者、学生の参加を意識したため実施は夏休み期間と決めた。
 その翌週の4月7日、ジェフさんと私はマニラに向かった。この出張は、アジアの人権情報センターによるネットワーク強化に向けた準備会合をマニラで開くという目的に加え、スタディツアーの下見と打ち合わせという使命もあった。
 出発前にジェフさんと企画を練り、受け入れを依頼する団体を回った。ちなみに、その際決めた日程や訪問先などのスケジュールは、実際のツアーでほぼ計画通りに実現したのである。
 さて、企画が整ったところで5月から活字媒体や電子媒体で公募を開始した。15人をめどに定員を決めたのだが、集まるだろうかという不安があった。しかし、杞憂に終わった。まるで気付かぬ応援団がいたかのように、これまでいっしょに仕事をしてきた人たちから次々と参加の意思表示が届いたのである。加えて、新たに友人となる人たちからの問い合わせも相次いだ。かくして、締め切りの6月末を待たずして申し込み者は定員を超え、募集を締め切ったのである。

欲張った企画
 企画で一番気にかけたポイントは、フィリピンの多様な姿をできるだけたくさん紹介するということであった。そのため、スタディ(勉強)の企画においても、人権教育をテーマとしながら、政府機関や学校のみならず、異なった分野におけるNGOの取り組みに学ぶことをめざしたのである。
 フィリピンを農業国か工業国かで単純に分類するならば、やはり農業国であろう。その意味で、農村を見ずしてフィリピンの代表的側面を知ることができないのではなかろうかと思った。とはいえ、時間の制約上、大地主が所有する砂糖きび農園(アシエンダ)をはじめとする本格的な農村や漁村に行くことは断念した。その穴埋めとして、あわただしくもアンティポロにある都市近郊農村への訪問を選んだのであった。
 一方、パヤタス地区は、いろんな批判を恐れずに言うならば、一見に値する場所だと思った。フィリピンの、いやそれだけにとどまらず、日本も含めた世界の矛盾が顕著に表出するコミュニティだと考えるからである。しかし、ゴミの山を、住居とし、生活の糧ともしている人々の姿を目の当たりにするといった強烈な「異文化体験」のみを通して、フィリピン社会や人々の印象をひとまとめにして欲しくなかった。
 ならば、マニラ到着後にマカティ地区に少し立ち寄ろう。幸運なことに携帯電話のレンタルとペソへの両替もその一画で済ますことができる。高層ビルやブランド商品が並ぶ大きなショッピング・モールの林立するマカティが最初の見学地となった。ゲートで武装したガードマンが何人も待機する超高級住宅地を文字通り垣間見ることができた。
 市内見学は、それ以外にもジェフさんといくつか候補を検討した。有名なカトリック教会があり、これぞマニラの代表的な下町といえるキアポ地区もそのひとつだった。お祈りにやってくる敬虔なカトリック教徒をあて込み果物や野菜、雑貨品、それに怪しげな漢方薬などを売っている露天商がひしめいたり、ビンゴなどのギャンブル場があるといった、聖地でありながら豊か過ぎるほどの生活臭が漂うわい雑な一帯なのである。またここには、大きな通りを挟んで教会の反対側のちょっと奥まった場所には、フィリピンでは少数派のイスラム教徒のコミュニティやモスクがあるのだ。残念ながら、最後までそこを訪れる時間がなかった。また、フィリピンに関する社会科学書が豊富にある専門書店に行く時間も流れてしまった。

短期間で把握することの難しさ
 マニラ首都圏の7~8月は雨季真っ盛りという季節柄、スコールが降った後にしばしば起きる道路の「水没」による交通大渋滞を心配していた。あれもこれもと欲張って立てたプログラムが飛んでしまうかもしれないからである。しかし、これも杞憂に終わった。洪水で立ち往生することなく、目的地に到着することができた。
 だが、この幸運が、結果として今回のツアーの反省点ともなった。というのは、スムースにことが運んだことによって、過密なスケジュールをたどらなければならなかったからだ。「それぞれの訪問先での学習内容をじっくりと振り返る余裕もなく、次の訪問先へと連れて行かれた」。参加者の方々は、そんな印象も頭をよぎっているに違いない。ふだん日本で馴染みのないような事態に関して、事前の説明会や少しの参考資料ていどではなかなか理解が深まらない。
 その最たる訪問先が、パキサマ(全国農民組合連盟)ではなかろうか。話が微に入りすぎていたために参加者は理解に苦しまれたようだ。私は、通訳者という使命感と緊張感から、多くが午後のまどろみに誘われていることにうかつにも気付かずにいた。やさしく報告してほしいという要望をもっと明確に伝えておけばよかった。打ち合わせでの詰めが甘かった、と後になって反省する。
 パキサマのイベット・ロペスさんの話は、ひとことでいえばこうではなかろうか。「アキノ政権となったとき包括的農地改革法ができ、小作農や農業労働者など実際の耕作者に土地が分与されることになったのだが、地主の抵抗と政府の意思欠如により、実施は遅々として進んでいない。それどころか、農地改革を逃れるために地主は農地を宅地や工業用地へと転換しようとしており、農民が耕作地から次々と追われている。それに対して、農民組合は、サリガン(オルターナティブ法律支援センター)などのNGOと協力して、農民が自分たちで対処することができるよう法的エンパワメントを図っている」。
 翌日訪れたサンバ(アンティポロ山地小農連盟)は、農地をめぐる権利擁護の闘いの現場だった。それぞれの闘いには、固有の背景やそこに関わる人々の熱い思い、苦闘の歴史がある。それを一時の訪問で知ろうとしたのはやはり無理があった。

日本との関係
 日本の政府開発援助(ODA)の一環として計画が進んでいる「メトロマニラ西マンガハン地区洪水制御事業」の問題に取り組むNGO、CO Multiversityで聞いた話も、確かにややこしかった。その話をまとめるとこうなろう。「マニラ首都圏の洪水対策のひとつとしてラグナ湖岸のタギグ地区に堤防を築いたり、ポンプ場を建設する事業が現在進行形である。これによって、住民の立ち退き、漁業へのアクセス、湖の水質変化、湖岸農地の喪失、移転する場合の補償、洪水対策の効果、などについて住民の不安は募っている。にもかかわらず、政府は住民やNGOと十分な対話をせず情報も公開していない」。
 日本はこれまでODAを通して、フィリピンの経済や社会開発に貢献してきたかもしれない。だが同時に、日本の融資による発電所の建設や港湾開発などの大型プロジェクトで、環境への悪影響や強制立ち退きなどを引き起こしてきた事例も多くある。この洪水対策事業では、負の要素がまた再生産されようとしているようだ。
 巨額に及ぶ日本のODA事業のなかで、日本企業がプロジェクトの計画作成や進行管理のコンサルタント業務、そして本体工事を請請け負っている場合が少なくない。たとえば、私たちが川からボートでポンプ場の建設現場に上陸したとき、やってきたのは日本の建設会社のヘルメットをかぶった技術者だった。
 確かに、このようなインフラ整備のための公共事業を通してフィリピン経済も前向きの刺激を受けるに違いない。しかし、建設される堤防が、本来の役目を果たさず、それどころか地域住民の生活破壊につながるならば、誰のための「援助」なのか、誰が喜ぶ「開発」なのか、と改めて疑問がわいてくる。あとに残るのは、日本政府に対する多額の債務である。そのツケは、債務返済のために、教育や厚生に投入されるべき政府予算が削られたり、結局はフィリピン国民に税金として重くのしかかってくるのである。

変わっていること・変わらないこと
 今回の旅を通じての感想だが、私がフィリピンに初めて行き、しばらく住んでみようと決めた14~15年前と比べて、マニラの景色はだいぶ変わってきた。アキノ政権に移行した直後の「民主空間」で、労働者が組合の承認や労働条件の向上を求めて、至る所でピケを張ったり泊り込みでストライキをしていた。そうした商店や工場がいまでは大資本の経営するショッピング・モールなどに様変わりしている。空き地が多かったマカティ地区では、高層ビルが見違えるほど増えている。新たなビジネス・センターも出現している。
 だが、変わらない現実も多い。消費文化が拡大した分、それを支えるべくして、海外への出稼ぎ者志向は相変わらず強い。しかも、その数は増加を辿っている。海外労働者数は、かつて350万人だと記憶していたが、今回400万人だと聞いた。奇しくも、私たちがマニラ空港で帰国便を待っていたとき、香港に向かうフライトの列はフィリピン人女性でいっぱいだった。香港の家庭で家事労働に従事するためであろう。香港の日曜日の公園で見た、家事労働から解放されて三々五々くつろぐ数千人におよぶフィリピン女性たちの光景が重なった。
 変わらない現実といえば、もうひとつ残念なことを聞いた。市内を移動中のバスの中で、ガイドのトモコさんに、日本からどんなツーリストが来るかと尋ねてみると、いまだになんと買春ツアーが多いというのだ。フィリピンに進出している日本企業による顧客接待でも暗黙のうちにそういうコースをたどる場合があるという。1970年代、露骨な買春ツアーを繰り広げる日本の旅行会社や日本男性は、とりわけ東南アジアの女性グループから強い批判を受けた。近年は目立たなくなっていただけなのだろうか、実際には買春ツアーはしぶとく続き、深く定着しているようである。

フィリピンの魅力
 このツアーを通して、私たちは農民や都市貧困層などフィリピンの民衆が直面している現実の一端を見聞した。
 一方、学校では人権教育が法律によって制度化され、権利について学習が行われていることや、憲法を根拠に人権委員会が組織され、人権保障システムが整備されていることをその中心にいる人たちから直接聞くことができた。
 もちろん、法律や制度は実施や活用しなければ意味がない。
 1991年、カビテ輸出加工区という政府系の工業団地の開発に伴い、マニラ首都圏の南側に隣接するカビテ州の農地に、農民の必死の抵抗にもかかわらずブルドーザーが押し入った。スイカが生産されていた肥沃な農地一帯が、みるみるフェンスで囲われ、コンクリートで塗り固められてしまったのである。ほどなく、その場所には日本を始めとする外国資本の工場が建てられ、操業を始めたのである。これは、日本のODA事業のひとつだった。
 政府機関による強引で力づくの土地接収に対して、農民たちは人権委員会に救済を求めた。しかし、市民的権利や政治的権利など自由権の扱いを専らとする人権委員会の存在は、土地に対する権利といった社会権の問題解決には無力であった。結局、生活手段を失った農民たちは、マニラで日雇いの仕事を探したり、外国に出稼ぎに行かざるを得なくなったのである。
 今回も、農地や住宅地、雇用などをめぐって10年以上前と同じように普通に生きる人たちの権利が侵害されているという話を聞いた。それぞれの現実は厳しい。それに対して、草の根で粘り強く闘っている人々がいる。背景を聞くとそれほど確固たる展望があるわけでもない。それでも明るいのである。困難にいきいきと立ち向かう人々がいるフィリピン。
 実は、私はそんな人たちに惹かれて、フィリピンで生活していたともいえる。そのあいだ私は、人々や社会から、優しく激励されたこともあれば、厳しい現実も突きつけられた。私を鍛えてくれたフィリピン。これからも関わり続けたい。
 今回の私たちのツアーを受け入れていただいり企画に協力していただいた団体や人々と、熱心に参加いただいた皆さんに感謝いたします。