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スタディツアー随行スタッフの任務とスキル

朴 君愛(ヒューライツ大阪)

 今回は職場の事業遂行のスタッフとして同行した。私が指示された任務は、主として現地経費の管理と主担の藤本さんのアシストをすることであった。ついでながら録音テープを可能な限り回し、気がつけば、藤本さんが持ってきたカメラ(当たり前だが、彼は通訳も進行もしながらなので写真がとれない)で写真を撮る役割も回ってきた。
 トータルとしての任務は、数あるスタディツアーの中からヒューライツ大阪の企画に参加いただいたみなさんが、より安全で実りあるものを感じとっていただけるよう配慮することに尽きるだろう。
 メインのプログラムについては、参加者にお任せすることにし、私は、任務に関わっての印象と反省を述べて、参加者みなさんのツアー中における事務局への協力と寛容の心に対し感謝を申しあげることとしたい。

ウエストの思い出
 ホテルでは部屋の金庫がこわれていて、結局まとまったお金を腹巻にまいて持ち歩く羽目になった。初めの二日間は、ウエストがふた周り大きくなって苦しいわ、お金の事故が気になるわで、そこに神経が集中し、参加者への配慮ができていなかったようだ。この後、日毎にお金は減っていったがフィリピンでの食事が大いに進んでしまい、ウエストの苦しさからは解放されなかった。
 →セーフティボックス使用不能がままあるという覚悟。

食事のボリューム反省あれこれ
 日本以外は9カ国の訪問だが、今のところ日本の食堂の一人前の量が一番少ない。今回もマニラのファーストフード店のハンバーガーがあんなにビッグサイズとは。別の店のビザも分厚く大きかったし。日本人の平均的胃袋が小さいのか、お腹がすくような重労働をしている人が私の周りにほとんどいないからなのか。でもフィリピン教育省ネリサさんがアレンジしてくれた店のおかずの量は異常だった。同席した同省のザイダさんもあまりの量に驚き怒っていた。やりとりの行き違いか計算間違いだろう。それともあと2週間で赤ちゃんを生むネリサさんの食欲がそういう注文にさせたのか?
 勝手知らぬ土地で、まとまった人数の食事を適量注文するのは難しい。しかも生活を切り詰めて暮らしている人びとに出会ったので、飽食の思い出は結構苦い。
 →日本の食堂の量と他国の1人分の量を同じものだと思うべからず。

領収書をめぐる人生勉強
 アンティポロの山上レストランは夜景が素敵で、おしゃれだった。しかしその翌日の学校訪問を突如私がとりやめたので、参加者には心配をかけることになった。実は、そのレストランと領収書をめぐるトラブルが発生していた。というのもメモで請求された金額と最終的にもらった領収書の総額が違っていたのだ。
 「納得できない」という悔しい思いと、日本よりタクシー代は俄然安いはず、という判断でレストランに「乗り込んで」いくことにした。ツアーガイドのともこさんは学校訪問を抜けるわけにはいかないと言い、やむなくアシスタントのジスと二人で山の上をめざす。レストラン支配人とのすったもんだの1時間。結局、払った金額の領収書をくれたのでそれなりに解決はした。タクシーでのドライブは片道約1時間半あまり、メーターは220ペソ(約580円)を指していた。
 問題はウェイターだったのか?レジ担当なのか?レストラン支配人は旅行社のスタッフが問題だと言い張った。誰が悪いのか真相は藪の中である。よき人生勉強をした。
 →教訓:お金は二人以上が数えて会計担当者が直接ウェイターに。すべての疑義はお金を渡す前に解決を。だます人はどこの国にもいる、だまされるワキの甘い人もどこの国にもいる。

水代
 パヤタスでのゴミ廃棄場の現場の帰り、保育所で貸してもらった長靴はどろどろだった。あらゆる!ゴミの上を歩き、コミュニティへ続く道はジュクジュクのぬかるみになっていたからだ。その出入り口あたりに公的機関が建てたコミュニティセンターがあり、そこで洗い場とトイレを借りた。コミュニティに水道が引かれたのが今年の1月。水の確保に苦しんできた人々が、長い間市当局に要求してやっと実現したのだ。それも1日わずか数時間しか給水されない。そこから少し離れた高級住宅街では水はふんだんに使えるというのに。ここでは水は貴重品だ。バケツに貯めた水をひしゃくですくい、20人分の靴を洗う。使用料は55ペソ。その日の宿泊先であるマニラホテルでは、水は勢いよく出てきた。
 →貧しい人たちのところには安全な水がない。飲み水以外の水代もスタディツアーの費用に。

ガイドのともこさん
 日本で旅行手配を頼んだ旅行社に「一般的な観光旅行ではないので、現地の旅行社の案内ガイドは要らない、お土産屋さんも1箇所」というリクエストを繰り返ししていたが、この道20年、フィリピン滞在26年の日本人のともこさんが、案内・通訳ガイドとして私たちのツアーに配属された。加えてアシスタントに、写真撮影係(もちろん頼んでいないが彼は雑用を引き受けつつ、お客さんを写して買ってもらい収入をえている。ちなみに四つ切サイズ1枚1000円)も最後まで同行。
 →国によって旅行業界のシステムは違い、いかんともしがたい。

これも人生、それも人生(ガイドさんとのおつきあい)
 ところで、ガイドベテランのともこさんはとまどいと勉強の連続だったらしい。通訳の必要はない、バスが入らない道まで行かされる、自分よりケソンシティーを詳しい客の藤本さん。植林や戦没者の慰霊などの日本人ツアーには添乗の経験があるが、人権ツアーは初体験だと言っていた。ようやくお互いの呼吸がわかってきた5日目、ともこさんと個人的なことを話す機会があった。その昔、ダイビングをしていた彼女は、南の島でフィリピン人と恋に落ちた。彼との結婚を考えた彼女は、当初日本で暮らすつもりだった。自分は一人っ子だったし、日本の方が経済的に生活しやすいと考えたのだ。しかし当時の法務省はアジア出身の男性との国際結婚に対し今よりはるかに冷淡であった。日本で一緒に暮らせるよう入国管理局にビザの相談に行ったところ、山と積まれた書類を見せられてこういわれたという。「同様のケースでビザを待っている人たちのものです。何年もお互いの国でわかれてくらし、ビザの許可を待っています。日本人女性であるあなたがどうしても外国人と結婚したいのなら日本を出るしかない」。そうして親たちの反対をおしきり、彼女は今日までフィリピンに住み続けることとなった。

 スケジュールを円滑に進めようとして、とも子さんとしばしば緊張したやり取りをした。とはいえ緊張したのは私だけで、ド根性でフィリピンと旅行業界を生きてきた彼女にとって、私は、理屈は言うが「ワキの甘い人間」であったかもしれない。