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フィリピンで感じたこと

初瀬 龍平(京都女子大学教授・ヒューライツ大阪企画運営委員)

 今回のスタディ・ツアーは、スタディの計画は盛りだくさんで、ほとんど息を抜く暇がなかった。訪問先での説明を聴いているうちに、疲れのあまり,ついつい居眠りしたのは、通訳の任に当たっていた藤本さんとジェフさん以外の全員かもしれない。でも、夕刻以降は、フリー時間であったから、参加者はアルコールを入れたりして、リフレッシュされていたようである。

 厳しいスケジュールで、息を抜いている時間は、とても楽しい。到着した日の夕食は、団体さんでSinging Cooks and Waiters というフィリピン料理の店に行った。コックも、ウェイターも、本職のサービス時間をぬって、陽気に歌を歌ってくれる。その歌を聴きながら、私は、1980年代中頃から日本に集中してきたフィリピン・ダンサーのことを考えていた。このように、陽気で、才気のある人々であるからこそ、彼女たちは、日本のショー・ビジネスをどん底で支えることになった。

 フィリピンは、米国の植民地であり、戦後独立後も米国の影響が存続したために、英語教育が徹底している。この結果として、フィリピン人の多くが英語を話せる。そこで、女性は、香港、シンガポール、あるいはイギリス、オランダなどに、メイドとして出て行く。英語は、彼女たちの出稼ぎの道具となっている。出稼ぎの送金が国家の外貨収入を支えている。確実に外貨を本国に落とさせるために、考案されたのが、帰国直前に立ち寄った免税店である。そこでは、テレビ、冷蔵庫、食器など、通常の免税店では、取り扱っていない商品があふれていた。日本人の観光客にとっては、あまり買うもののない免税店であった。しかし、海外出稼ぎから帰国した人たちにとっては、本国帰国後に家族と一緒に行けるショッピング・センターである。

 パヤタスでも、こぎれいな家は、海外出稼ぎの送金で建てたものといわれる。パヤタスでは、30分~1時間程度、バランガイを歩き回っているうちに、父親が日本人であるといわれる男の子と、女の子とに会った。いずれの場合も、父親は死んでいる、との説明を受けたが、それは、父親失踪の別表現である、と私は思った。海外出稼ぎは、フィリピンの基盤社会に深い影響を及ぼしていると思われる。
 私たちの帰国時に空港で隣のゲートは、香港行きであった。関西空港行きは、エアバスA320で150人しか乗れない窮屈な飛行機であったが、香港行きはボーイングのジャンボ機であった。搭乗を待つ人の列には、若い女性の姿が目立っていた。彼女たちの多くは、香港でのメイド(家事労働者)であろう。

 ツアーのなかで出会ったフィリピンの人たちは、楽しい人たちであり、明るく振舞っていた。3日目に訪問した高校で、モデル授業の後に、生徒、先生、それにツアーのメンバーたちで繰り広げた交歓の輪は、いつまでも閉じようとしなかった。皆が笑い、寄り添い、活気あふれる写真が、そのフィナーレを示している。
 今回の訪問先では、人権委員会でジュースとお菓子、教育省で午前11時にヤキソバ、お菓子、飲み物を出してくださり、モデル学校ではティー・パーティを催してくれた。NGOのCO―Multiversityでもコーヒー、紅茶、それにマンゴー、バナナを出してくださった。このような厚遇は、フィリピン人の客のもてなし方であり、またヒューライツ大阪と訪問先の人的関係が出来ていたからであろう。しかし、私としては、どこでも歓迎されただけに、かえって戸惑っている。私がひねくれているから、このような感情をもつだけなのか。それとも、この歓待には、もっと深く考えるべき意味が含まれているのか。

 パヤタスのゴミ処理場では、多くの人が、ゴミ袋を一つ一つ開けながら、再利用可能ゴミを分別回収していた。日本の多くの都市では、ゴミは分別回収であり、燃えるゴミは高温で焼却される。パヤタスでは、未分別のゴミがダンプカーで持ちこまれる。この世界に日本式のゴミ処理方式を導入したら、どうなるであろうか。ゴミの丘は無くなるであろうが、ゴミを分別回収する人たちの仕事も無くなってしまう。この人たちの仕事を保障しながらゴミの分別回収と高温焼却をすすめるには、どうしたらよいのであろうか。
 基本的に言えば、政府の政策で雇用を創出していくことが必要である。そのためには、富める者から税金(それもしっかりした累進課税)を取る必要がある。しかし、政府に、そのような意志と能力があるのであろうか。貧富格差が巨大で、人間について社会的分別の明確な社会でこそ、人権の保障が大切であるが、かえって人権の保障は至難である。
 パヤタスのバランガイの路地を歩きながら、感心したことは、どこの家でも洗濯物が干してあったことである。粗末な家に住んでいても、人々は、清潔な生活を求めている。これは、人間の尊厳を示す一例である。土地なし貧農にせよ、都市貧民にせよ、堤防決壊を恐れるバランガイの人にせよ、人々は立ち上がろうとしている。その相手は、巨大な貧富格差を温存する社会・経済・政治の全面的構造である。生命、生存の保障を求めて立ちあがる人々にとって、人権の理念と法的保障の発展は、不可欠な道具である。このことを今回のツアーで、再確認することになった。

 最後に,帰途の機内でフィリピンの新聞を読んでいると、メトロマニラと周辺でレストラン強盗がはやっており、私たちが滞在した2日目にも、武装強盗がケソン市でドラグ・ストアーを襲い、ついでサン・フアン市でレストランを襲い、客から金品を巻き上げた事件が起こり、犯人には元警官と現役軍人が入っているらしい、という記事が出ていた。この記事の他に、ケソン市での強盗で逮捕された犯人5人のうち3人が警官であり、アロヨ大統領がこの犯人たちを前にして、警察幹部に士気高揚を求める写真が掲載されていた。楽しく美味しかった夕食のレストランで、強盗にも遭わず、無事に帰国できて、ほっとした。

バランガイとは、市や町の下にある行政の最小単位(コミュニティ/集落)のこと。

※ やや硬い所感は、『国際人権ひろば』No.45(2002年9月)所載の拙文「フィリピンで考えたこと」に掲載していただいた。