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「アイヌ民族の人権状況の現在と新しい課題-2020という年」(2020年9月26日開催)の講演要旨を報告します。

 2019年4月の「アイヌ施策推進法」制定と2020年7月の北海道の白老に建設された「民族共生象徴空間」(ウポポイ)のオープンという時機をとらえ、9月26日に、学習会「アイヌ民族の人権状況の現在と新しい課題-2020という年」を開催しました。講師は、恵泉女学園大学教授であり、NGO「市民外交センター」の共同代表として長年、先住民族の権利保障の活動をしている上村英明さんです。

 当日はヒューライツ大阪セミナー室での対面方式とZOOMでのオンライン方式を併用しましたが、ネット環境の不具合のためにZOOM参加の方々には不便をおかけしました。あらためてお詫びするとともに、当日の上村さんの講演内容を下記のとおり報告します。

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はじめに

 2020年7月に白老にオープンした国立の施設の愛称が「ウポポイ」である。ウポポイは「みんなであるいは大勢で踊ろう」という意味だ。コロナ禍の前に作成されたポスターは2020年4月24日開場となっている。ポスターに登場する俳優の宇梶剛士さんはウポポイのPRアドバイサーで、お母さんはアイヌ民族の活動家で、宇梶静江さん。私は、8月12日にウポポイの見学に行ってきた。入口付近には、ゴールデンカムイの映画ポスターもあった。この漫画も2014年から漫画週刊誌で連載が開始され、国際的にも有名で、2018年には「手塚治虫文化賞」を受賞している。ウポポイだけでなく北海道の多くの博物館などにポスターが貼ってあり、いわゆる「アイヌ・ブーム」の火付け役のひとつかもしれない。日本人の男性で元陸軍兵の杉元佐一が主人公で、彼を助けるキャラとして登場するのがアイヌの若い女性アシリパで、日露戦争後の北海道・樺太が舞台である。日本人男性と彼を助けるアイヌの若い女性という人物設定は月並みで感心しないが、アイヌ語の監修は、千葉大学の中川裕さんで、本格的な専門家だ。その他、ウィルタ語・ロシア語の監修もしっかりしており、樺太の先住民族のウィルタ民族なども登場する金塊をめぐるサバイバルバトルらしい。この動きも、今再びアイヌ民族に関心が集まっている背景だろう。

 

「開拓150年」から「改名150年」へ

 2018年は、また「北海道命名150年」という年であったが、実は「北海道開拓」の開始は1869年で一年ずれており、明治維新150年の祝賀年を北海道命名の年に無理やり合わせたようだ。敢えていえば、この150年間に、「アイヌ」の名称がついた法律は2つしかなく、2019年に制定された「アイヌ施策推進法」であり、制定と同時に廃止された1997年制定の「アイヌ文化振興法」である。差別法であった1899年の「北海道旧土人保護法」は「アイヌ文化振興法」の制定と同時に廃止されたので、基本、アイヌ民族には、単一の法律しか存在しなかったことになる。とくに、「アイヌ施策推進法」とともに、「アイヌ文化振興法」がなぜ廃止されたかといえば、2つは同じジャンルの法律、つまり文化法であるからで、その新しい法律の中で文化の体験教育施設としてのウポポイが明記されている。

蝦夷地を北海道に改名して150年目の2018年にはさまざまなイベントが北海道内で開催された。そこに流れた思想は、「これから北海道がまた新しく発展する。本州にはないエネルギーを集中してがんばらなければ」というもので、その前にあった「蝦夷地」とは一体何であったか、どう「北海道」になったのか、そしてそこに存在してきたアイヌ民族がどう扱われたのかにはほとんど触れていない。

「蝦夷地」の意味

 1785年に、林子平の書いた『三国通覧図説』が刊行され、的を射た指摘であったためか、江戸幕府はすぐに発禁にした。林子平は、西欧列強に対する国防の必要性を説いた人物で、日本の周辺に位置する「三国」を干渉地帯として国防に利用すべきだと主張した。その三国とは朝鮮国、琉球国、蝦夷国である。図説に描かれた地図を見ると、彼の日本の領土認識がわかる。「朝鮮国」のある朝鮮半島は日本とは別の色で塗られており、奄美から先も「琉球国」として別の色である。(因みに伝統的な呼称は「琉球国」であり、「琉球王国」という名称は明治以降の呼称である。)そして、北海道は、松前の辺りは日本の領土という認識だが、そこから北方は別の色で、「蝦夷地」ではなく「蝦夷国」である。加えて、近世日本の外交関係には「4つの口」説というものがある。幕藩体制下の国外と国内の使い分けであるが、「口」とは海外につなぐ門(ゲート)を指している。中国とオランダにつなぐのが「長崎口」。「対馬口」の向こうは朝鮮、「薩摩口」の向こうは琉球、そして「松前口」の向こうは蝦夷地である。明治以前は、その鎖国体制の故に「日本」にとって国内と国外の境界は比較的明解であった。因みに「蝦夷地」とは、「野蛮で未開な人」が住んでいる外国であった。「蝦夷(えぞ)」は、平安期には「蝦夷(えみし)」と呼ばれ朝廷に服属しない人びとを指したが、762年に現在の宮城県に建てられた朝廷の国境守備の要塞であった「多賀城碑」には「蝦夷國」の境界まで、120里という文字が読める。また、幕末の「尊王攘夷」という言葉も「天皇を尊び、(西欧列強という)夷を討つ」という意味である。つまり、江戸時代に認識していた「夷人」では、米国人や英国人、アイヌ民族も同じような存在とされた。

「北海道開拓」という名の「植民地化」

 「蝦夷地」を「北海道」と命名したのは、外国であった地域を一方的に「国内」にしようとしたことである。アイヌ民族の権利は何も認められなかったので、「命名」とは帝国の拡張政策であり、「開拓」とは植民地化であった。この地域では、開拓直前からヨーロッパの大国であるロシアとの国境問題があった。江戸幕府が1854年にアメリカと結んだ日米和親条約は、有名だが、内容は単純だ。米国の船が海難トラブルに巻き込まれたら、日本で石炭と水の供給、船の修理と船員の保養をすることを認めるものだ。同時期に結ばれた日英、日仏、日蘭の各条約も同じ内容だが、ロシアだけ違った。ロシアとは国境問題があり、国境画定は難しい。この交渉で、江戸幕府は「我が蝦夷の居住するところは我が領土」、つまりアイヌは日本人なのだから、アイヌのいる所は日本の領土であるという論理を使った。この時、日本政府は、アイヌを「夷人」ではなく「土人」と呼称するようになる。「夷人」には外国人という意味が含まれるので、領土権の主張には適さない。また、当時「土人」は、土地の人あるいは在地の人という意味で、幕府はこれをアイヌ民族にも使ったが、この言葉は国内の文脈では差別用語ではなかった。第一次世界大戦後に日本が太平洋地域に展開すると「南洋の土人」などと地域の先住民族が呼ばれたが、これは本来の「土人」という言葉に、「夷人」の意味が移し替えられた歴史を物語っている。アイヌ民族に対する「土人」呼称から、明治の政府文書などでは「琉球の土人」という言葉も使われている。ともかく、江戸時代末期では、論理が正しいかどうかは別にして、アイヌ民族がいないとロシアに対する領土権が確保できなかった。しかし、「開拓」がはじまると、アイヌ民族は至るところで厳しい状況に追い込まれていった。1869年の天皇の詔勅「蝦夷地開拓方針」にもそのことが述べられている。簡単に紹介すると「日本人の役人がアイヌにものすごく過酷なことをしたが、それに比べるとこの辺りにくる外国人は優しかった。アイヌはどちらというと日本人を恨んでいて、外国人を敬愛している。ヨーロッパ人が、こんな苦しい目にあっているなら日本人を追い出せとアイヌを扇動し、その戦いの火の手が函館まで来るかもしれない」という危惧が示されている。その点、詔勅にはアイヌを指導するとともに、和人(ヤマト民族)をこの地域にたくさん投入して領土として確保しなければいけないとも書かれている。「北海道」に移民を送り込む「正当性」が示されている

 「北海道開拓50年」と「北海道命名150年」

 「北海道開拓50年」にあたる1918年に、『北海道史』というものがこれを記念して刊行されたが、アイヌ民族に対してかなり露骨な表現が登場する。簡単に紹介すると「アイヌは知識がないから、彼らに北海道を任せたら荒れ放題になる。優秀な民族が周辺にいたらその人たちが北海道開発をするのは当たり前で、周辺で優秀な民族は日本人しかおらず、開拓を日本人が担うのは世の道理である」と、述べられている。俗に「開拓史観」と呼ばれるもので、社会進化論を使って、日本人の「優秀さ」を誇るとともに、優勝劣敗の「敗者」としてアイヌ民族を位置づけている。この意識は、さすがに表面には出てこないが、日本人の中に根強く残っている考え方だ。我々がやってあげたという、植民地化をした人たちの頭の中に反省が残らない典型的な事例である。

 ただし、ヨーロッパ列強の影響もあって、「福祉」という考え方が広がり、日本政府もそれを少しは考えるようになる。同じ国民と言いながら、植民地支配の結果、アイヌ民族には極端な貧困、差別や格差が押し付けられたからだ。「同じ国民」としての指標は戸籍でわかる。植民地「朝鮮」「台湾」では、日本国籍はあったが、戸籍は内地戸籍とは別に編成された。この別戸籍を利用して、いろんな差別制度が展開された。その点、アイヌは内地戸籍に編入されていたが、「旧土人」という特別表記があるので、実態的に別戸籍が編成されたとみなされるべきで、これを土台に差別政策が打ち出された。

 まず、アイヌ民族の土地・資源が奪われ、生業が否定された。日本政府は、米国に倣って、日本各地から移民を送りこみ、新しい農業を展開して、安上がりの植民地経営を考えた。移民たちによって森の木が切られて、農地が広がり、漁民に漁業権が与えられると、アイヌ民族は鹿猟ができなくなり、川での鮭の捕獲を禁止された。狩猟や漁労で成立していたアイヌ民族の生産システムが解体された。さらに、日本文化への強制同化政策が行われた。江戸幕府末期も、一定の同化政策は取られたが、入れ墨、耳輪などアイヌの風習が禁止され、アイヌ語も基本的に使えなくなった。やがて、先述した貧困を救済する「保護」という考え方も出てきて、「北海道旧土人保護法」が1899年に制定された。この法律は1997年まで続いたが、「保護」と言いながら、法律の問題点は24時間語っても語りつくせない。例えば、ヤマト民族の移民であれば、一人当たり10万坪の土地が分け与えられた。(1897年の北海道国有未開地処分法では、150万坪が一人に付与された。)しかし、アイヌに与えられる土地は一家族あたり1万五千坪であった。また、ヤマト民族の移民と違い、土地の付与は農民化が条件とされたので、15年後には「成功検査」と呼ばれるものが実施され、農業をやっていないとみなされたアイヌの給与地は政府に没収された。現在でも、アイヌの農業者の経営基盤は不安定だが、それはこうした土地政策の結果でもある。「北海道命名150年」で振り返るべき150年を考えると、少なくても「北海道(ヤウンモシリ)」を日本に併合した功罪、あるいは植民地支配の反省が正面から語られるべきである。

アイヌ新法制定運動と二風谷ダム訴訟

 1984年にはアイヌの当事者団体(北海道ウタリ協会<現北海道アイヌ協会>)からアイヌ新法を求める動きが現れた。「北海道旧土人保護法」は先述したように差別法であり、これを廃止して、あらたにアイヌ民族の権利を保障する法律がほしいという声の表面化である。この「アイヌ新法制定運動」は、1987年から、アイヌ民族の国連人権機関を使った運動に発展し、1992年には、ウタリ協会理事長野村義一さんの国連総会での演説が実現する。その頃に二風谷ダム訴訟という有名な裁判が提起された。アイヌ民族の聖地がある二風谷という地にダムが建設されることになり、その周辺の土地が収用されることになったが、アイヌ住民である萱野茂さんと貝澤正さんが、先住民族の権利の侵害として訴えを起こした。萱野さんは、この時の裁判で、日本の制度は「多数決」を使った先住・少数民族への抑圧だと述べている。その後、萱野さんは、1994年に日本社会党の比例区で、アイヌ民族最初の国会議員に当選し、その後1997年の二風谷ダム判決では、札幌地裁によって行政の土地収用の違法性とアイヌ民族が先住民族であることが認められた。また、同年、「北海道旧土人保護法」が廃止され、初めてのアイヌ立法である「アイヌ文化振興法」が制定された。

ウポポイに行ってみよう! いい点もあるが違和感がたくさん!

 ウポポイにはいろんな問題があると考えるアイヌがいる。つまり問題もあるが、とにかく一度行ってみるのがいいと思う。私自身もいい点もあるが、違和感もたくさん感じた。みなさんそれぞれに何を受け止めるかが大事である。白老町に、2020年7月に開業した「民族共生象徴空間」(愛称ウポポイ)は国立のアイヌ文化を学ぶ体験型学習施設であり、国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設などが併設されている。関西でいえば、万博記念公園にある国立民族学博物館と同じレベルの施設である。ともかく大きいなという印象を持つが、目玉である、国立アイヌ民族博物館は、アイヌの伝統的な建築である「プ」と呼ばれる倉庫をイメージしたものらしい。1階は風通しをよくして、ミュージアムショップなどがあり、2階に常設展と企画展の展示スペースがある。2階の入口前のサンルーフから見たポロト湖の風景も素晴らしい。展示も、説明文の主語が「わたしたち」となっており、アイヌ民族の目線が生かされていることも否定しない。しかし、そこでイメージされている「アイヌ文化」あるいは「アイヌ民族」の多くは、それでもヤマト民族制作あるいはヤマト民族の研究者制作のイメージであることを感じることが一番残念なことだ。

「アイヌ施策推進法」施行後の今

 私個人の見解は、ウポポイの問題点は、ウポポイそのものではなく、その明確な根拠法として、2019年に制定された「アイヌ施策推進法」である。「アイヌ施策推進法」では、ウポポイの次に大切な施策が「アイヌ施策推進地域計画」である。地域のアイヌの団体と自治体、さらに民間が共同で推進プランを国に提出して認められると予算がつく。それは何千万円という規模である。この認定地域計画の中で、アイヌの森林資源の利用、鮭などの採捕の手続きが簡素化され、またアイヌブランドの登録に補助金が交付される。しかし、手続きがなくなるわけではない。例えば、「開拓政策」が進む中で、河川でアイヌはサケを取ってはいけないとなったが、80年代になって伝統的行事の時は道知事の許可があれば、特別採捕として、一定数の漁が可能になった。さらに、今回の法律で特別採捕の手続きが簡単になった。しかし、紋別アイヌ協会会長の畠山敏さんは、もともと道知事の許可なくサケを取りたいと長年主張していた。アイヌ民族が本来の民族の土地で、儀式用に鮭を採捕するのに、ヤマト民族の行政官の許可など必要ないからで、彼は、これをアイヌ民族の「自己決定権」の一部と主張した。そして、新しい法律の制定で道知事の許可なく取れるようになるはずだと期待したが、そうならなかった。2019年9月、彼は道知事に無許可で鮭を取り、北海道知事から道警に告発された。最終的には不起訴になったが、相変わらず、こういうことをやると警察の取り調べを受けることになる。2020年8月、十勝のラポロアイヌネイション(旧・浦幌アイヌ協会)が川でのサケの漁業権を求めて、北海道庁と国を相手どって提訴した。かなり本格的な裁判になると思う。畠山さんの場合、鮭の採捕は文化権の一部であるが、ラポロアイヌネイションは、自分たちの生業としてサケを取りたい、サケを売って生活が成り立つ漁業権があってしかるべきという主張である。この点、逆にいえば、森林資源の利用にしても、ブランド化にしても、この法律で、鮭の採捕と同じように、国の制度にアイヌ民族が絡めとられる危険性が少なくない。

 加えて、慰霊施設の問題は、アイヌ民族の遺骨返還の問題として聞かれた方もあるだろう。例えば、北海道大学医学部教授であった児玉作左衛門はアイヌの遺骨や副葬品のコレクターとして有名であった。こうした研究者に集められたあるいは墓から盗掘された遺骨や副葬品が、北海道大学をはじめ多くの大学に保管されていることが明らかになった。2008年には、アイヌ有志を中心に「北大開示文書研究会」が発足し、保管されているものに関する文書の開示を大学側に要求してきた。2016年からコタンへの遺骨の返還と再埋葬が裁判を通して行われるようになった。一部返還も含め、札幌医大(2019年)や東京大(2020年)などからも返還が実現している。しかし、日本政府は、アイヌからの請求がない遺骨は、ウポポイの中にある慰霊施設に収容する方針で、自ら盗掘の経緯や保管のあり方の問題にメスを入れようとはしていない。そして、人類学者などの研究者は、この慰霊施設での研究継続を依然として希望している。

真の先住民族の権利保障を!

 他方、ウポポイ開業後にウポポイに対するヘイトスピーチが起きている。ヘイトスピーチの内容は、ウポポイでやっていることはホンモノのアイヌではない、アイヌ文化の捏造やニセアイヌという嫌がらせである。私自身はウポポイのあり方に関しては批判を持っているが、それはアイヌ民族の主体の尊重ということに関して、再考したほうがいいという批判である。純粋なアイヌはいないとか、文化を勝手に捏造することは許せないといったヘイトスピーチが、実際に働いている人たちをターゲットにおこなわれていることは遺憾なことだ。日本中で、人権に関わってあちこちでヘイトスピーチが行われている状況を深刻に受け止め、共通の運動を進めていかなければならない。 アイヌ民族は、国連の人権機関の水準に合わせた権利保障を要求している。具体的には植民地主義に対する謝罪、補償とアイヌ民族の主権・自己決定権の確認などである。しかし、「アイヌ施策推進法」は、アイヌ民族が誇りをもって生活できる社会の建設には、アイヌ文化や伝統の復興が土台であり、またそのためにはヤマト民族(広範な「国民」)の理解が不可欠だという認識に立っている。この認識は、大きな問題だ。たとえば、女性の権利を議論するには、男性の理解が必要だという認識があれば、人権の発想としては間違いである。私たちは、今一度、先住民族の権利とは何かをきちんと学ぶべきだろう。日本には先住民族であるアイヌ民族がいることを政府はきちんと認めているのだから。

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