1970年代にマイクロアグレッションという言葉を提唱した、アフリカ系アメリカ人の精神医学者であるチェスター・M・ピアースは、1950年代~1960年代に公民権運動を経験したアメリカ社会において、「人種主義(レイシズム)は悪い」という価値観は浸透したけれども、人種主義はなくならずその現れ方が露骨なものから分かりにくく隠された形へと変化して続いていることに注目しました。
参照:Locke,D.C. Fatigue: An essay, Ashville(N.C.) African American News, October 1994,30(=2020, デラルド・ウィン・スー著、マイクロアグレッション研究会(訳)『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』, pp.49-50))
ピアースは、アフリカ系アメリカ人が白人との日常的なやり取りのなかで、しばしば無意識的に発せられる言葉や身振り、トーンなどを含む振る舞いから、露骨な差別とは異なって曖昧で捉えがたいけれども人種を理由とする差別的なメッセージを受け取っていることに注目し、これをマイクロアグレッションと名付けました。今日では、悪意の有無にかかわらず、マイノリティグループに属する個人に対して、属性を理由とした排除や見下し、軽視のメッセージを伝える言動として理解されています。「マイクロ(ミクロ)」とは、個々の対人関係のなかで生じることをあらわしており、被害が「小さい」ことを意味するのではありません。
対人関係に注目するマイクロアグレッションに対して、制度的差別のように人種や性別などの属性を理由にマイノリティ全体に対して不平等を押し付けたり、偏見・差別をあおる攻撃は「マクロ」レベルのアグレッションと捉えられています。このような法律や制度、文化、慣習、教育、メディアなどを通して「マクロ」レベルで発せられるマイノリティに対する差別的な扱いやそれを正当化するメッセージに日々さらされることで私たちは気づかないうちにマイノリティに対する偏見や差別意識を内面化してしまいます。つまり、マイクロアグレッションをしてしまうこととその人の善良さは直接には関係なく、「心の問題」ではなく「社会の問題」として捉えることが重要です。