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国際人権ひろば No.185(2026年01月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

韓国で人形劇の公演芸術に携わる思い

 公演芸術に魅せられて-日本で基盤を積み重ねる

 私は日本から韓国に渡って22年になる。シアターサンサファの代表として人形劇芸術に従事している。サンサファは、ナツズイセン(夏水仙)のことである。しかし、なぜか自分を「人形劇人」であると強く自覚することはあまりないのである。その理由は後から述べる。

 20歳ごろ、日本にいた私は、韓国の民衆文化運動の中で生まれたマダン劇(注に強く感動し、その活動に深く関わることになった。また、在日コリアンの子どもたちのため童謡集の出版や、韓国の「創作と批評社」の児童文庫の翻訳・出版に携わり、日本の学校の巡回公演を通して、その学校で学ぶ在日コリアンの子どもたちが民族的アイデンティティを確立し、堂々と韓国人として生きることができるよう励ます活動を続けてきた。

 その後、縁あって大阪を拠点とする人形劇団に関わることになり、数年間にわたり人形美術や人形遣いの技術を学んだ。30代に入ると、優れた戯曲家兼演出家のもとで、日本のいくつかの劇団に舞台俳優として客演する機会も得た。年間の3分の2は客演の仕事に費やし、残りの三分の一で自ら立ち上げたシアターサンサファの活動に取り組んでいた。

 20代から30代にかけては、専門的な演劇人としての素養を学び、基盤を積み重ねた貴重な時間であった。この経験があったからこそ、韓国に拠点を移した後も、即戦力として公演活動を展開できたと考えている。

 学びの道に終わりはない -広がり続ける人形劇の世界

 さて、話を人形劇に戻そう。

 人形劇とは、幻想の世界で繰り広げられる公演芸術である。人形劇においては、まず何よりも人形の存在が基盤となり、その次に人形を操る人形遣いが続く。もちろん、脚本・音楽・公演企画といった要素も欠かせないが、作品の根幹を成すのはやはり人形と人形遣いである。

 人形劇のジャンルには、主に手遣い、棒遣い、糸操り、影絵があり、それぞれに固有の魅力と得意とする表現形式がある。

 手遣いは幼児のように素朴で愛らしい動きが特徴であり、棒遣いは文楽にも見られるように、繊細で確かな感情表現と力強い動きを併せ持つ。糸操りは天上からの贈り物のように優雅で揺らぎある繊細な動きを生み、影絵はスクリーンに映し出される単純なシルエットの中に、物事の本質が鮮やかに浮かび上がる。

 それぞれの人形には、役割にふさわしい美術が施される。作品のテーマ、人形の素材やデザインが響き合い、相乗効果を生み出すことで、人形美術は作品のこうした魅力と表現形式をいっそう明確に際立たせる重要な要素となる。

 舞台上で生き生きと存在する人形があってこそ、人形劇は成り立つ。人形遣いはその人形に命を吹き込む役割を担い、舞台上に存在しながらも、裏方にも近い立場で作品を支えている。

 ただし、人形劇が生み出す幻想はきわめて繊細である。わずかでも人形の生命感が失われれば、その瞬間にファンタジーは儚く消え去ってしまう。人形遣いは、人形が単なる物体と化してしまわぬよう、常に細心の注意を払いながら演技しなければならない。

 近年では、人形劇は俳優劇、ダンス、マイム、メディアアートとの融合や、オブジェを劇人形として扱う試みなど、表現の幅が広がっている。しかし、その根底には変わることなく、人形が本来持つファンタジーが作品世界を導く中心となっているのである。

 公演形態は日々増え続けているのだから、人形劇は非常に把握しにくい公演芸術である。文頭で「自分は人形劇人であると強く自覚することはあまりない」と書いたのもこのためだ。私はまだ人形劇を知らないのである。学んでも学んでも、尽きることがない。

 しかしながら、この「知らない」という自覚と、「学びたい」という欲求こそが、長い年月にわたり私を演劇の世界へと繋ぎ止めてきたのである。

 私は演劇が好きである。芸術的表現を観ることも、行うことも好きである。だからこそ、さらに深く学びたいのである。ゆえに、私には自分を人形劇人であると強く自覚する感覚があまりない。私は単に、学びの道を歩み続けている者に過ぎないのである。

 そして黙々と韓国文化の情緒と美しさを人形劇芸術として再創造する作品創りに励んでいる。


no185_p12-13_img1.jpg鶴の舞(2025年7月に開催されたチョンソン人形劇祭で)



 韓国人として認められないやるせなさ-在外同胞排除の政策に抗して

 そんな日常の中、私は2025年4月半ば、韓国の芸術人福祉法に基づいて設立された「韓国芸術人福祉財団」から新型コロナ感染拡大の時期に受け取った創作支援金の返還と、5年間の財団事業制限措置を受けることとなった。まさに青天の霹靂であった。その理由は私が在外国民、すなわち韓国国民でありながら海外の永住権を有している者であり、創作支援金の支援対象者ではないというものであった。しかし、当時の公告文や施行指針には「在外国民は除外する」との記載は一切なかった。私がその点を指摘しても、財団側は補助金法を根拠に「在外国民はもともと支援対象外であり、誤って受給したのだから返還せよ」と主張するばかりであった。私はこの差別的な行政処分に対し、すぐに異議申立てを行った。

 私は韓国在住22年であり、各種税金も納めている。国内に生まれ育った人々と同じく住民としての義務を果たしている。憲法裁判所は2018年、在外国民を社会福祉の恩恵から一律に排除することは平等権の侵害であり、違憲であるとの決定を下している。

 私はこの理不尽な"事件"を新聞に取り上げてもらい、SNSを通しても積極的に訴え、財団を相手に訴訟を提起した。

 私の訴えが韓国社会で大きな反響を呼び、注目を集めると、財団側は行政処分を撤回する旨の異議答弁書を送付してきた。また、私と全く同じ状況で苦しんでいた、韓国で活動する在日同胞芸術家たちも行政処分撤回を受けることができた。しかし、財団は今回の訴訟費用については争うとの意思を裁判所に提出しており、すべてが終了したわけではない。

 今回の件を通して、在外国民、特に韓国内に居住する在日同胞の権益を守る法律が極めて限られていることを知った。韓国社会の中でも在日同胞に対する無知と無理解が依然として蔓延している。よく耳にする質問のひとつに「日本人ですか?」というものがある。悪意はないものの、マイクロアグレッションの典型である。

 日本社会で生まれ育ち、民族的アイデンティティを守りながら生きてきた。そのうえで韓国に定住してもなお、韓国人として認められないというやるせなさは、言葉にできないほど苦しい。自分の国であるにもかかわらず、である。まして、自分が韓国人であることを立証しなければならない状況は、これ以上ないほど辛い体験である。

 私は極度のアイデンティティ・クライシスに陥り、いまだ完全には立ち直れていない。それでも生きていかなければならないので、次作のイメージをぼんやりと見つめている。

 アイデンティティ・クライシスの経験を 再生へのメッセージに-私の次の仕事

 アイデンティティ・クライシスとは実に恐ろしいものである。人間の内側を根本から崩壊させてしまう。考えてみれば、シェイクスピアの四大悲劇の主人公―ハムレット、オセロー、マクベス、リア王―も皆、アイデンティティの危機に陥り、悲劇的な結末に至っている。そう思うと、次作のテーマをアイデンティティ・クライシスとするのも悪くないと思えてくる。私自身が経験していることであるから、より実感を込めた作品が創れるような気がする。

 グロテスクな人形を用いて表現するのも面白いだろう。グロテスクな造形は、人形劇の持つファンタジー性を一層際立たせるはずである。ファンタジーとは、私たちの想像力を刺激し、思考の枠を超えて新しい世界を描く力を与えてくれるものだからだ。なかでも、人形がもたらすファンタジーには特別な魔力がある。人形の表情は固定されている。しかし、一度観客が人形劇の世界に身を置けば、その変わらない顔がまるで生きているかのように、豊かで多彩な表情を見せるのである。

 台詞を抑え、主人公の心理描写を伝統打楽器に託すのもよいだろう。台詞に頼らないイメージ中心の舞台では、観客が自ら想像力を働かせ、物語を受け取りながら自身の内面世界を旅することになる。

 人形劇のファンタジーを通して人間の内なる弱さを浮かび上がらせ、悲劇で終わらず再生へのメッセージを観客とともに模索する―それが私の次の仕事である。



<脚注>
注)
マダン劇は韓国民主化闘争の中で生まれた伝統演戯を現代化した演劇運動。