特集:「安全」「安心」の名のもとに脅かされる人権
日本の植民地支配からの解放後の朝鮮半島は、1948年に南北分断国家として大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がそれぞれ樹立。南の韓国では長らく軍事政権が続き、民主化を求める運動に対して「北のスパイ」などの容疑をかけ、激しく弾圧した時代があった。
わたしが初めて取材で韓国を訪れたのは、1986年、まだ軍事政権の時代だった。釜山で洛東江を撮影していたら、警察官が来て、尋問を始めた。「風景を撮影するのに何が問題なのか」と問うわたしに、「橋は戦略拠点だから撮影禁止だ」と言う。当時、撮影した映像はすべてソウルに持参し、検閲を受けなければ日本に持ち帰ることができなかった。検閲局で、「駅はダメ、港はダメ、俯瞰ショットはダメ」とズタズタにカットされ、途方に暮れたことを覚えている。
時代は変わっていく。韓流ドラマに夢中になっている人たちの多くは、そんな不自由な時代の出来事を想像できないかもしれない。
1970年代、在日の韓国人青年が母国留学中にスパイ容疑によって次々と捕まった。すでに月刊誌『世界』のT・K生による「韓国からの通信」によって軍事政権の内実が明らかにされていたので、これは危ないなと感じた。何度か救援の集会に参加したが、たいしたことができず、それを悔やむ心がずっと残っていた。その意味で、今回の映画作りは、自分の長年の悔やみを解く行為でもある。死刑囚として、長年にわたって獄中で耐えてきた青年たちは今や老境に達しているが、その声を、その魂のありようを、同じ時代をくぐり抜けてきたものとして、記録したいと思った。
映画は主に、共に死刑の判決を受けた李哲と康宗憲の証言によって構成されている。厳しい拷問を思い出して話すことが、本人にとって辛いことは、撮影しながら実感した。心苦しくはあったが、「思い出したくない」ということを語ってもらった。歴史的な経験をした人たちには、そのことを語ってほしい、そして多くの人たちに知ってもらいたい。そのことは過ちを繰り返すことなく、新しい時代を作っていく礎だからだ。
というものの、証言だけでは、映画として不十分だ。証言を中心にしながらも、映像を収集して、時代と状況を浮かび上がらせなければならない。幸い、在日韓国良心囚同友会などの協力によって、数々の映像が入手できた。
良心囚の康宗憲によると、死刑囚に24時間、手錠をかけることは、日本の植民地時代からの悪弊らしい。日本では敗戦によって廃止されたが、韓国では、民主化の時代まで残った。つまり日本の戦前の監獄制度が、韓国ではその後も、およそ40年間続き、解放後も囚人を苦しめたわけだ。
日本と韓国の刑務所では共通していることが多い。例えば死刑囚の執行は、執行の当日まで本人に知らせない。この制度によって、死刑囚はいつ執行されるかわからない不安なときを過ごさねばならなかった。李哲は、自分の首が縄にかけられる夢をしばしば見て、汗びっしょりになって目が覚めたと述懐する。「領置」とか「接見」とかの日本語がいまだに韓国の刑務所では使われているのは奇妙な話だ。刑務所で配食などの労役を担う囚人のことを「掃除」と呼ぶ。それも「チョンソ」という朝鮮語ではなく、「ソウジ」と言っているということだ。
李哲元良心囚がかつて収監されていた
ソウル拘置所(現西大門刑務所歴史館)を訪れる
映画では凄惨な拷問の様子が体験者によって語られる。素っ裸にして殴る蹴る、強力捜査という名の水拷問、性器拷問など、思い出すのも嫌な体験を良心囚たちは語ってくれた。そして、昼か夜かもわからず、意識朦朧となり、死の恐怖の中で自暴自棄になり、当局の筋書きに沿った「自白」を始めることになる。だが、さらに重要なのは、良心囚たちは、一旦は屈服して虚偽の自白をしたことを後悔し、そこから立ち直り、人間としての自己を取り戻していくことだ。そして「自白」を撤回し、「祖国に学びに来た自分たちが、なぜこんな目に合わなければならないのか」と反撃に出る。
康宗憲は語る。
「個人が、圧倒的な力を持っている国家権力を相手に何ができるか、非力なもんですよ。でもね、いかに非力であっても、蟷螂の斧であっても、振るうべき、一矢を報いるべきです。そして同じ心情の人が必ずいるんです、周囲に」
獄中の良心囚を支えたのは、家族と同窓会を軸にする日本の救援運動だった。これらがなければ、死刑判決を受けた政治犯たちが全員釈放されることはなかったかも知れない。これまであまり触れられることがなかったが、同窓生のほか、学生運動に関わった活動家や、労働組合員など、救援運動に人生を賭けてきた人たちがいる。定期的に面会に渡航し、差し入れを続けた彼らのことを忘れてはならない。
しかし、なにより良心囚の心を支えたのは、家族、恋人との深い愛情だった。
李哲は面会のとき、金網越しに婚約者の指を離さなかったと語る。康宗憲の母は息子の手錠姿を見て、ハラハラと涙をこぼす。父親は、ある時はプロ野球の近鉄の話だけを語った。康宗憲は後になって、あれは「元気に戻って、また家族揃って野球を見に行こう」というメッセージだったと悟る。
良心囚たちの獄中闘争と連動した韓国の民主化の過程で、政治犯たちは、次々と減刑され、釈放され、再審でも無罪を勝ちとっていく。特筆すべきは、在日政治犯たちは、誰一人死刑を執行されず、生きて還ってきたということだ。しかし、過酷な取り調べや獄中生活での暴力によって精神を病み、釈放されたのちも引きこもり状態のまま亡くなった人もいる。また96歳になる詩人の金時鐘は、かつて韓国で逮捕された経験を持ち、青年たちの逮捕を我が身と重ね合わせる。逮捕の間、「どうしたら自殺できるか、それだけを考えていた」と詩人は振り返る。考えると「胃のなかに棘のついた棒を突っ込まれるような」気分になると言う。
わたしは、撮影中はなるべく冷静さを保つことにしている。感情によってカメラが不安定になると困るからだ。だけど、老詩人の述懐と、慟哭を撮影しながら涙が溢れるのを止めることができなかった。一緒に撮影していた西村秀樹さんに「撮影中に泣くのを初めて見た」と言われてしまった。
「スパイ」という言葉はある力をはらんでいる。日本でも戦時中、スパイ、間諜に注意しようという標語が巷にあふれた。
「スパイに警戒せよ」「赤心防諜揺るがぬ日本」「一億一心挙って防諜」「スパイ笑ふか、一億泣くか」。
多くの人が逮捕され、特高による拷問を受けた。沖縄ではスパイという疑いで、県民が日本軍によって殺された歴史を抱えている。映画の中で、元ハンギョレ新聞東京特派員の金孝淳が言うように、当時の韓国では、スパイとされた人を救援することはできなかった。スパイ容疑者を救援することは、スパイとして扱われる時代だったのである。
ある友人は言った。「もう済んだ話ではないか」、「今上映することに意味はあるのか」。確かに事件か起きたのは半世紀前のことだ。多くの人は忘れているだろう。しかし、スパイ事件は今のわたしたちに課題を投げかける。
日本では、政府やいくつかの野党が「スパイ防止法」の早期制定を目指している。「スパイ防止法」に反対するものを「反日的」だという声さえ、SNS上で飛び交っている。1985年の自民党による案文では、最高刑は死刑であり、自民党内部からも反対者が出た。内部告発者やジャーナリストがスパイとされる危険性がある。この国の言論の自由は誠に危うい。スパイを必要とする国は戦争する国なのだ。
「スパイ」という言葉によって命を失いそうになった人たちの言葉に真摯に耳を傾けてほしい。
| 映画「絞首台からの生還」は、2026年2月以降に大阪・九条のシネ・ヌーヴォほかで公開されます。 自主上映などの呼びかけに応えるつもりですので、希望の方は連絡してください。 <連絡先> 「絞首台からの生還」製作委員会 19751122movie[a]gmail.com ([a]を@にかえてください) |