特集:性と生殖に関する健康と権利(SRHR)をめぐる課題
性教育をしたい、と考えている「あなた」。
「あなた」が、どんな職種の方であっても、子ども・若者たちに、
-そのような学び(『包括的性教育』)を経験してほしいと願っているとする。
本稿は、そんな願いを持った「あなた」に向けて、何をどうすればそれが実現できるのかを考え、提案するものである。
出発点はあなたの「性教育をしたい」という願いである。この願いは常に立ち戻る原点であり、絶えず問い直され、更新されていく。
この願いを、「あなた」一人から、「誰か」と分かち合うのが「ステップ1」だ。
「一人だけで考える」ことと「誰かと相談する」ことはかなり違う。一人だけでは始まらないのだ。
「誰か」には多くの可能性が考えられる。学校の同僚や先輩、管理職、養護教諭、保健体育科の教員、健康教育や人権教育担当をしている教員などかもしれない。
ある職種では、学校に出前授業で行った経験のある同僚や先輩かもしれない。
PTA役員会の中で、ぶっちゃけた話のできる人かもしれない。自治体の男女共同参画・健康増進などの担当者かもしれない。
相棒でも、何らかのポストの頼りになるキーパーソンでも、どちらでもいいし、両方ならもっといい。
大事なのは、その「誰か」と情報交換し、問題意識を共有することだ。
そして、その「誰か」と一緒に、学校で包括的性教育を実践するための「とっかかり」「手がかり・足がかり」「突破口」になりそうなものを検討していく。
包括的性教育に関するさまざまな解説・著作を読むと、とても自分のところではできない、と暗い気持ちになることがある。
しかし、包括的性教育は、いつでも十全な形を取るとは限らない。そのことに改めて着目するのが「ステップ2」だ。
子ども・若者とあなたとのふれあいや関わりを見つめ直してみると、そこに包括的性教育につながる実践があることが分かる。包括的性教育はいわば「もうやってる」、「わたしにもできる」ことでもあるのだ。
いくつか例を挙げよう。
もっとあるだろう。
これらの場面では、性が人権だという認識、からだに関する正確な知識、自分の環境をよりよいものにつくり変えていくことの意味など、包括的性教育の重要な中身を踏まえた対応が求められる。
ほんの短い時間のやりとりであっても、「直接自分に向けて語りかけられた」言葉は、時に強く心に刻まれる。日常におけるふれあいや関わりは決して軽視できない。
わが国の学校における性教育の実施状況は貧弱極まりない。中学校での性教育の授業数は、平均して3年間で8.62時間に過ぎない(1。
この惨状は性教育に対する文科省の消極性によるものだが、その背景には包括的性教育を拒否する日本政府の姿勢がある。
政府は、国際的な場(2で寄せられた「包括的性教育を学校の内外で実施する(べき)」などの意見に対して、「受け入れません」と回答し、「一般的な用語としての包括的な性教育(CSE)も、ユネスコのガイダンスで提唱されているCSEも、政府には受け入れられません」と結論付けている。
これが、性と人権を切り離し、性の問題を道徳の問題として設定し、道徳的性教育のみを求める右派勢力の見解を反映していることは間違いない。
こうした状況下、包括的性教育を実践していく活路はどこにあるのだろうか。
第1に挙げられるのは「生命の安全教育」である。文科省が全国すべての公立学校で実施する方針を明らかにしているこのプログラムは、わが国の公教育史上初めて本格的に「性暴力と安全確保」の内容に踏み込んだ、重要な意義を持つものである。
ただ、文科省作成の教材や実施要項は、性暴力を理解する上で不可欠な「人間にとっての性行動の意味」や、「性的接触とは何か」という知識を避けているために、結局は「道徳的行動規制」を呼びかけるだけのものになっており、「性教育なき性の安全教育」という根本的な問題を解決できないでいる。
しかし、「すべての公立学校」での実施が推奨されているのであり、これを活かさない手はない。文科省作成教材も使いながら、独自の「加除修正」(文科省は認めている)を行うことで、包括的性教育の内容に近づけていくことが可能である。
性教協の「『生命の安全教育』をからだの権利教育へプロジェクト」が作った指導案と教材案(『季刊セクシュアリティ』115号に掲載)は必ず役に立つだろう。
第2は「人権教育」である。人権教育は「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」という根拠法に基づいている。同法第三条には、「国及び地方公共団体が行う人権教育及び人権啓発は、学校、地域、家庭、職域その他の様々な場を通じて」行われなければならないと定められている。そして具体的な実施内容を定めた最新の「人権教育・啓発に関する第二次基本計画」が、今年6月に閣議決定されている。
その 「第5章2 各人権課題に対する取組」には、「女性、こども、障害者、感染症の患者等、性的マイノリティの人々」などが挙げられている。いずれも包括的性教育の学びの対象となる課題である。人権教育の実施が包括的性教育実践の舞台となり得るのである。
第3は、「プレコンセプションケア」である。「少子化対策」に出発点を持つこの取り組みは、若者を結婚と出産という方向に誘導していく色彩を拭い去ることが難しいが、今年5月にこども家庭庁の検討会がまとめた「プレコンセプションケア推進5か年計画」には次のような注目すべき記述がある。
「ジェンダーの平等、多様な性、身体の尊重等についても、知識を得るだけでなく、実生活の上でも十分な配慮ができるよう、適切なタイミングでの情報提供が求められる」、「人権的アプローチを段階的に学んでいくカリキュラムを充実させる」、「包括的性教育の仕組みを参考とする」(『推進5か年計画』第Ⅱ章 第1節)
わが国の公文書に「包括的性教育」が肯定的に記述されるのは稀である。この「期待」に応えて、プレコンを包括的性教育実践の舞台にしてはどうだろうか。
第4は、さまざまな「協働」によるステージづくりである。
愛媛県宇和島市では、養護教諭主催の研究会に参加していた中学校校長の「市の校長会が主体となって市内すべての中学校全学年で性教育講座をします」という発言から、「宇和島こころまじわうプロジェクト」が始まった。養護教諭たちの長く粘り強い学びと実践が、理解ある管理職と出会うことで生まれた取り組みである。予算獲得、保護者向けのリーフレットや授業案の「パッケージ」作成などが、現場と管理職と自治体の協働で進められている。
埼玉県富士見特別支援学校では、高等部の性教育実践からスタートし、小・中・高の各学部で性教育が実施されるまでになった。その取り組みが学校の管理職から市教委に伝わり、市教委が「包括的セクシュアリティ教育」プロジェクトチームを立ち上げ、小中学校、特別支援学校の管理職、道徳・人権担当、養護教諭などの代表が集まり、協議するに至っている。
いくつかの取り組み例を挙げた。それでも、なかなか性教育実践の場が作れないとお思いの方もおられることと思う。
宮沢賢治の詩集『農民芸術概論綱要』の中に「求道すでに道である」という一節がある。
私はこの言葉を、「学ぶことは実践である」と読み換えて理解している。学びはすべての性教育実践の基盤であると同時に、それ自体がかけがえのない性教育実践なのである。
<脚注>
1)
全国の一定規模以上の中学校724校を対象にした調査(橋本紀子、茂木輝順ら:2017年)による
2)
国連人権理事会の「普遍的・定期的レビューの第4回日本政府審査」(2023年)
れ自体がかけがえのない性教育実践なのである。
<参考>
子ども家庭庁 プレコンセプションケアの提供のあり方に関する検討会 ~性と健康に関する正しい知識の普及に向けて~
https://www.cfa.go.jp/councils/preconception-care
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