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国際人権ひろば No.173(2024年01月発行号)

人権の潮流

変わりゆく差別のありようを理解することから『差別する人の研究:部落差別の変容と現代のレイシズム』を執筆して

阿久澤 麻理子(あくざわ まりこ)
大阪公立大学人権問題研究センター教員、ヒューライツ大阪理事

なぜ、差別「する人」研究なのか

 自己「本」紹介をする前に、自己紹介もしておきたい。研究者になって四半世紀、私は「差別する人」研究者である。

 初対面の人に研究テーマをきかれて、「『差別する人』研究です」と答えると、たいていの人は目をそらしたり、身をひいたりする。おそらく自分がどちらかに(差別者か否か)分類されるのではと警戒するからだと思う。

 なぜ「差別する人」研究かと言えば、差別はする側の問題だからである。3つの国際人権条約(人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、障害者権利条約)には差別の定義があるが、わかりやすく要約すれば、「差別とは、人の属性や特性によって、区別・排除を行い、権利の享受や行使を妨害すること」である(1。いうまでもなく、人のことを区別・排除し、権利の行使を妨害するのは、「差別する人」だ。

 ヘイトスピーチや、インターネット上での差別言説・有害情報の拡散が深刻化する中で、日本においても差別を禁止し、差別の被害を救済するための法の必要性が強く意識されるようになった。そして差別禁止法とは、差別「する人」の行為を規制する法律だ。ならば、どのような行為を規制するのか、それを言葉にしなければ、法はできない。「差別する人」研究が必要なのだ。

レイシズム研究を手がかりに

 ところで、タイトルになぜ「レイシズム」の語があるのかと質問を受けることも多い。レイシズムといえば、人種差別、人種主義と訳されるが、部落差別は言うまでもなく、人種や民族のちがいによる差別ではないからだ。

 だが、国際人権基準における人種主義とは、人種や民族、肌の色などばかりでなく「世系」に基づく差別も含む概念だ。「世系」とは、わかりやすく言えば「血筋」や「系譜」のことで、国連の人種差別撤廃委員会では、世系に基づく差別にはカーストによる差別や、日本の部落差別も含まれるとしている(2(但し、日本政府はこの見解を支持していない)。部落差別においても「血筋がちがう」といった言説が、まことしやかに語られ、戸籍を遡って系譜的な身元調査が行われてきたことを考えるなら、部落差別はレイシズムである。

 そして、海外のレイシズム研究は、変容する差別を研究対象としてきた。人権政策が進展すると、あからさまな蔑み・見下しは、社会が受容しなくなるので、対面では表明されなくなる(但し、ネット上や、匿名の環境はあてはまらない)。だが、それは差別がなくなったこととイコールではない。差別は個人の言葉や行動の問題だけではなく、社会システムに組み込まれて構造化されたり、「あからさまな差別には見えない」ように表現されたりするからだ。そして本書がレイシズム研究を手がかりにしたのは、部落差別においても類似の変化が起きているからだ。

社会システムに組み込まれた差別

 例えば、近年、各地の自治体が実施してきた人権意識調査の結果を見ると、結婚において部落出身者(=人)を忌避する意識よりも、住宅の選択において、部落の所在地(=土地)を忌避する意識のほうが高い割合となって現れることが多い(特に都市部では)。「同和対策審議会答申」(1965)には、「結婚差別は最後の越えがたい壁である」と記されていたが、近年の意識調査では、部落の土地への忌避意識が、むしろ強く立ち現れるのだ。

 また、「身内の部落出身者との結婚に反対すること」は差別だと考える人が圧倒的に多いが、「部落の地価が周辺より低いこと」や「住宅を選ぶのに、物件が部落に立地していないかを調べること」が差別だと考える人は、格段に少ないことも、意識調査で明らかになっている。

 これらの変化は、人権施策の進展と共に、差別「する人」が、部落出身者を判定する手がかりを変えることによって起きたものだ。部落差別は封建時代の身分制度に由来し、本来は被差別身分に置かれた人びとに系譜的つながりのある人への差別である。だから、部落出身者かどうかの判定は、明治期以降、しばしば戸籍によって行われてきた。明治政府による初の全国戸籍(壬申戸籍)には、旧身分が判別可能な形で記載されていた場合があり、かつ、戸籍は手数料を払えば誰のものでも見ることができたからだ。あるいは、戸籍に記された地名を、部落だとみなされている地域の情報と突き合わせて、判定した。

 だが、人権擁護の視点から、壬申戸籍は封印され、戸籍の閲覧制度も1976年に廃止されると、代わって身元調査は、住所・本籍地・出生地を(本人ばかりでなく、その人の親や祖父母のものなども)部落の地名と照合し、部落出身者かどうかを属地的に判定する方法に依拠するようになっていった。

 これは、封建時代、身分統制による区別が厳しくなるにつれ、被差別身分に置かれた人びとが集落を形成して暮らし(それゆえに、差別は人と同時にコミュニティに対しても一体的に向けられた)、その集落が、今日の部落と相当重なるからである。だから、部落の土地との関りが以前にあれば、部落出身者だと判定してしまうのだ。身元調査が、系譜から属地的基準へとシフトしたことは、1970年代半ばに、戸籍の閲覧制度の廃止とほぼ同時期に、「部落地名総鑑」事件(1975)が起きたことからもうかがえる。

 そして、身元調査が属地的な判定に依拠するようになると、今度は、「自分も部落に住めば、部落出身とまちがわれるのではないか」と考え、部落やその周辺に住むことを避けようとする意識が強化される。「みなされる差別」(奥田2003)(3の回避である。

 このような「部落の土地を避けたい」という意識は、不動産市場にも影響し、部落の地価を押し下げてきた。こうして部落差別は、社会システムの中に構造的に組み込まれている。

 だが、このような、社会構造に組み込まれた差別に対して、多くの人びとは「自分が直接、差別的なことを言ったり、したりしたわけではない」のだから、自分には責任はないと感じてしまう。そしてこのような問題は、「自分一人の意識や態度を変えるだけでは解決できない」と、あきらめてしまう。さらに、「不動産価値が低く、値上がりが期待できない物件を買って、損をしたくない」という理由で、部落の土地への忌避意識が、正当化されてしまうのだ。

 ネット空間に部落の所在地(地名)情報や、動画が投稿されることは、現代社会において部落の地名がこのような「機能」を持たされているからこそ、問題にしなければならない。


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『差別する人の研究-変容する部落差別と現代のレイシズム』
(旬報社、2023年9月)


人権教育の「これから」を考えるために

 社会システムに組み込まれた差別に対し、「自分には責任がない」と感じてしまうのは、多分に日本の人権教育にも責任がある。構造化された差別をなくしていくには、法や制度の確立など、社会システムの構築が必要となるが、これまでの人権教育は、社会的弱者に対して、「おもいやり」「やさしさ」「いたわり」を持ちなさいと教えるばかりで、人権問題とは私的な人間関係の中で、「心の持ちよう」で解決するものだという「隠れたメッセージ」を学習者に刷り込んできたからだ。これでは、社会システムへの関心が育たない。人権教育も、個人志向・心がけ志向から、社会志向へと変わらねばなない。

 そして、法や制度が一人では作れないように、社会システムの構築には、他者との対話と合意形成が不可欠だ。にもかかわらず、差別に対して声をあげ、差別をなくそう、法をつくろうと呼びかけると、「差別を利用し、特別扱いや特権を要求している」と非難の声があがることも、現代の差別の特徴である。なぜ、差別をなくそうという訴えが、特権の要求に読み替えられ非難されるのか、そのような心理を強化する要因は何なのか...この続きはぜひ、本書を読んでいただければと思う。


<脚注>

1)障害者権利条約の「差別」の定義には、「合理的配慮の否定」も加わる。人権は普遍的(誰もが有する)権利なのに、障害を理由に、区別され、権利の行使ができないならば、それは差別である。ゆえに、権利の行使ができるよう、必要かつ適切な調整を行い、社会の障壁を取り除かねばならない。障害のある個人が、そしてあらゆるマイノリティが、社会の多数派に合わせて努力しなければ、差別がなくなるというような思想は、国際人権基準にはない。

2)「世系に基づく差別に関する一般的な性格を有する勧告 29」人種差別撤廃委員会第61会期、2002年8月22日採択(CERD/C/61/Misc.29/rev.1)。

3)奥田均(2003)『土地差別問題の研究』解放出版社