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国際人権ひろば No.148(2019年11月発行号)

特集:国際人権規約批准40年目の日本社会

「表現の自由」って何だろう?

金子 匡良(かねこ まさよし)
法政大学教授

表現の自由の意義と価値

 誰かがこう言ったとしよう。「私は何も表現したいとは思わない。だから、私には表現の自由は必要ない。」

 実はこの言葉はそれ自体が矛盾している。なぜならば、「何も表現したいとは思わない」ということ自体がひとつの表現であり、したがって何も表現したいとは思わない人にとっても、表現の自由は必要だからである。このことが示すように、およそ表現の自由に関係のない人など存在せず、生きていることそのものがひとつの表現だとさえいうことができる。それゆえ、表現の自由は個人の人生の根幹を支える自由であるとされ、これを表現の自由の「自己実現の価値」という。

 他方、表現の自由は個人の人生だけではなく、組織や社会の運営にも大きく関わっている。それは、組織や社会を運営するためには、人と人とが表現を通じてコミュニケーションを行い、共通の関心事について合意しなければならないからである。これを国家レベルで行うシステムが民主主義であり、表現の自由のないところでは、民主主義は絶対に実現できない。これを表現の自由の「自己統治の価値」という。

誰のための表現の自由か?

 民主主義は表現の自由がなくては成り立たないが、その一方、民主主義が表現の自由を抑圧することもある。民主主義は、話し合いによって合意を見出すというシステムであるが、どうしても合意に至らない場合は、最終的には多数決で物事を決定することになる。ところが、合意を見出すという本来の民主主義のプロセスをなおざりにして、数にものをいわせて少数意見を排除するという事態が「民主主義」の名の下に生じることがある。民主主義はそれを乱用すれば、少数意見を唱える者たちの表現の自由を容易に抑圧することができるのである。それゆえ、真の民主主義を求める者たちは、少数意見や反対意見を唱えることの自由を尊重してきた。「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利はあくまで擁護する」というフランスの哲学者ヴォルテールの言葉や、「我々と同じ意見をいう自由ではなく、我々が忌み嫌う意見に自由を認めることが、何より重要なのである」というアメリカ最高裁判事ホームズの言葉は、健全な民主主義にとって重要なのは、少数者や反対者の表現の自由であるということを端的に言い表している。

民主主義はあるか?

 翻って現在の世界を、そして日本の現状を見ると、果たして真の民主主義を追求するための表現の自由が保障されているといえるだろうか?民主主義が結局は“多数決主義”だとしても、多数決に至るプロセスの中で、少数者が反対意見を述べる機会が十分に与えられなければならない。野党議員が長時間の演説を行い、議事を故意に長引かせるというフィリバスターも、かつては少数者が異議を表明する手法として尊重されてきた。あるいは「牛歩戦術」が認められてきたのも、それが少数者の表現の自由の行使だとみなされていたからであろう。

 しかし、最近では、こうした行為は民主主義を阻害する行為として嫌悪される傾向がある。それゆえ、野党議員もこれを躊躇せざるをえない。その背景にあるのは、民主主義にとって重要なことは、対話や討議ではなく、「決定」であるという考え方である。この考え方は、「決められない政治」という非難の言葉に如実に表されている。たが、対話や討議を疎かにすれば、民主主義は瓦解する。民主主義が瓦解したところに現れるのは、多数者が少数者を“民主主義的に支配する”という逆説的な抑圧構造でしかない。こうした構造の下では、ヴォルテールやホームズの精神を受け継ぐ政治家ではなく、都合の悪い事実をすべて「フェイクだ」と切り捨てる政治家や、論点をすり替えて議論を拒否しようとする政治家が支持を集めることになる。

「自由」の条件-放任と支援

 ところで、自由はいかなる条件のもとで実現するのであろうか?一般的に自由とは「束縛のない状態」であると理解されており、ゆえに干渉や介入をせずに放っておくことが自由の実現であると考えられてきた。表現の自由についても同じであり、何かを表現しようとしている者に対して、一切干渉することなく、本人のしたいように表現させることが表現の自由の保障になると捉えられてきた。

 しかし、表現は多くの人の目や耳にそれが届くことによって、はじめてコミュニケーション行為としての効果を発揮する。そうであるならば、表現行為を行おうとする者にとって、それを行うのに適した場所や効果的な手段を確保することが重要になる。それがないところで単に表現を行う自由だけが認められても、表現の自由の意義である「自己実現の価値」と「自己統治の価値」を充足することはできない。そこで、表現の自由を十分に保障するには、それを行う「場」や「手段」の確保が必要となり、とりわけ少数者や反対者に対して、多数者が「場」や「手段」を提供することが求められるのである。日本では、慣例的に与党議員よりも野党議員に長い質問時間が与えられてきたが、これもそうした「場」の確保という意味を持つものといえる。

 この問題に関連して違和感を抱かざるをえないのが、「表現の不自由展」をめぐる一連の騒動である。作品の是非はともかく、世間からは少数意見、あるいは異端の意見と思われがちな考えや思想を体現した芸術作品に対して、「表現するのは勝手だが、場所は貸さないし、支援もしない」という態度をとることは、結局、表現を封殺する効果をもたらすことになる。「我々と同じ意見をいう自由ではなく、我々が忌み嫌う意見に自由を認めることが、何より重要なのである」という言葉の持つ重みを背負う気概のない者が政治権力を握ったとき、表現の自由は、「我々と同じ意見をいう自由」のみに矮小化されてしまうのである。

ヘイトスピーチの自由?

 では、特定の人びとを執拗に侮辱し、攻撃し、排除を煽るような言論、すなわちヘイトスピーチと称される言論も「我々が忌み嫌う意見」として自由を認めなければならないのであろうか?日本やアメリカでは、どんなに劣悪な表現にも自由を認めなければならないという考え方も有力であるが、国際社会ではヘイトスピーチに自由はないという考え方が定着している。

 その手がかりは世界人権宣言や国際人権規約の中にある。世界人権宣言と自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)は、ともに第19条で表現の自由を保障しているが、他方で「権利及び自由の破壊を目的とする活動」に自由は認めないことも明記している(世界人権宣言第30条、自由権規約第5条)。その理由は、そもそも「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」(世界人権宣言第1条)からである。ヘイトスピーチのような攻撃や排除は、理性的なものでもなければ、良心的なものでもない。また、「同胞の精神」に基づいたものともいえず、むしろ排除や攻撃を煽り立てることによって、特定の人びとの「権利及び自由の破壊を目的とする活動」であるといえる。このように、国際人権法は、自由や平等を否定する行為には自由を認めないという態度をとっており、それゆえヘイトスピーチも否定されるのである。

表現の自由を守るために

 表現の自由を守るためには、「我々が忌み嫌う意見」を許容するという寛容さが必要であるとともに、他者の「権利及び自由の破壊を目的とする活動」を峻拒するという厳格さが求められる。この両者は時として矛盾したり、対立したりすることがあるため、そのバランスをとることは非常に困難である。しかし、その困難に立ち向かうことを放棄し、易きに流れる世情に身を委ねてしまえば、表現の自由はいとも簡単に消失してしまうであろう。

 「自由は、国民が政府に関心を示すところにおいてのみ存在する」という第28代アメリカ大統領ウィルソンの言葉を借りるならば、「表現の自由は、私たちが表現の自由に関心を示すところにおいてのみ存在する」のである。


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