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国際人権ひろば No.148(2019年11月発行号)

人権教育ナウ

「対話」の時間、出会い/なおしの時間 -「対話を通して人権教育に出会いなおす」の進行役が感じること

金 和 永(きむ ふぁよん)
NPO法人クロスベイス・スタッフ

ネット上のヘイトスピーチに抗するも…

 2000年代中頃、わたしは中学3年生で、その時初めて、朝鮮や中国に対するむき出しの差別をネット上の掲示板で見た。日本で「ヘイトスピーチ」という言葉はまだほとんど知られていなかったし、わたしも知らなかった。大阪市生野区に住み、在日コリアンが当たり前にいて、小学校には民族学級があった。「温室育ち」といっても良いかもしれない。ネット上のヘイトスピーチは、初めてわたしが、在日であるという理由で罵られた経験だった。わたしがそれまで聞かされた在日の歴史、いまここにいる理由は全て否定されていて、在日は日本にいてはならないと、色んな人が色んな書き方で書いていた。わたしの親や親戚や、大切に思う人たちが言葉で殺されているということだった。

 それから1、2年ほど、わたしはそういった掲示板の書き込みに反論することを続けていた。反論は疲れた。当時は今みたいにインスタントに返事が来るわけではない。学校から帰って、夜に書き込んで、次の日の朝また学校に行く。学校では自分の書き込みにどんな悪罵が返ってくるかがずっと気になっている。帰ってきてチェックしてみると、まだ何もなかったり、思った通りの反応があったりする。しばらくそれを繰り返して、とても疲れてやめてしまった。

 そんなことがあり、「わたしの周りの人たちも、本当はこの掲示板の人たちのように考えているのではないか」という疑いや不安が拭えなくなった。

 わたしのこの記憶が、直に会って話すことに少しこだわりがあることと関わっているのかもしれない。わたしが疲弊していったネット上での応酬。誰とも知らない誰かに向けて言葉をかたくこわばらせても、他人と自分の言葉に不信がつのるだけで、パワーは失われていくばかりだった。

どんなワークショップなのか

 わたしはヒューライツ大阪の主催する「対話を通じて人権教育を考える」というワークショップのシリーズに、2年ほど「対話」のセッションの進行役として参加している。

 このワークショップの一番のターゲットは現場で頑張っている教員の方、特に若手の人になる。

 大阪や関西には、多様で豊かな人権教育・多文化共生教育の実践の歴史があるけれど、今新しく教員になっていく人たちにとっては、それらの実践は「遠い」ことがあるようだ。例えば、「人権教育」をするためには学ばねばならないこと、考えねばならないことが大量にあるように見えて、なかなか具体的な実践をする機会がない。そんな時、具体的な出会いがあれば良い、ということがまず一つ。だからこのワークショップでは毎回ゲストを招き、ご自身の経験を話してもらう形をとっている。また、できる限りゲストにゆかりのある場所や、実践が行われている場所を訪問して開催している。その場所の空気を感じながら、最初の1時間は全員でゆっくりゲストの話を聴く。それだけでも、わたしは一人の参加者としてたくさん感じることがある。

 後半に、参加者・ゲストが一緒に話す時間をとる。これがワークショップのタイトルにあるように「対話」と呼ばれていて、わたしが大学の時に知った「子どもの哲学」、特にハワイの幼稚園や学校で実践されている、p4c Hawai’i(philosophy for children Hawai’i)の手法を参考にしている。

 難しい手法を使うわけではない。参加者・主催・ゲストが全員で円になって座り、「コミュニティボール」という発言者の目印を使って、そのボールを回しながら対話を進めていく。

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第2回「コリアンタウンでコリアン・ルーツの教員と
多文化共生を語ろう」(2017年12月14日)

「大丈夫 safe」な対話の場所になること

 この方法が大切にしていることの一つは、複数の人が共同で探求するための条件として、参加者が「大丈夫 safeと感じられる」ことだ。

 safeは、「安全」や「安心」を意味する。p4c Hawai’iでは、円になって話すこのスタイルを「知的に大丈夫と感じられるコミュニティ(intellectually safe community)」と呼ぶ。「大丈夫でない」状態は、例えば、知らないことが怖い状態。自分は知らないのに、他の人はみんな知っているように見える。「わかりません」と言うのが怖い。それは知的に大丈夫な場所ではない。誰かにとって知らないことがあれば、ちゃんと共有した方が探求にとって良い。

 あるいは、自分の考えていることが誰かの主張と違っていて、怖くて言い出せないときもあるだろう。それもまた、知的に大丈夫な場所ではない。考えが違っているからという理由で、ある人が対話に参加できないならば、その場所は排除で成り立っていることになるだろう。

 ワークショップの中では、「置いてきぼりにならないようにします」と説明することにしている。そしてわたしも置いてきぼりにしないように気をつけている。わからないことを、わからないと言える場所にしたい。

新しい「問い」に出会うこと

 これまでの企画では、参加者の皆さんに話したいことがたくさんあり、時間が足りないと感じることも多かった。毎回、ゲストの語りに触発されるようにたくさん話してもらえることに驚く。

 ゲストにはもちろん準備してもらっているが、それでもゲストの語りは今その場で語られているという感じがする。言いよどんだり、ふと思い出したことが挿入されたり。今逡巡していることを、その場でまた考えている姿もあった。しかし話が曖昧なのではなく、その人の経験や人生にしっかり裏打ちされている。ゲストのそういった語りに助けられて、後半の探求のコミュニティも、参加者が自分の具体的な経験から出発しやすくなるのかもしれない。

 ワークショップでは、最後に一つの結論を導いて終わることはしない。その代わり、参加者に、新しく出てきた疑問を確認して終わることが多い。例えば、「「人権」という言葉が忌避されるのはなぜ?」、「「当事者」とはどういう意味?」という問いがあった。こうした問いは人権教育の実践でも、研究の中でもずっと問われてきたことなので、そういう意味で「新しい」というのではない。そうではなくて、一緒に探求する円の中でこの問いに出会ったということだ。いきなり「当事者とは?」というような問いに取り組むのではなく、ゲストや参加者の経験や考えを共有する中で、あらためてこの問いに出会う。円の中では、ゲストも私たちも参加者も、あらかじめ答えを知っている人はおらず、一緒に考える人であればいいなと思う。

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第4回「住吉で部落問題を共にみつめる」
(2019年2月11日)

「対話を通して」ということの意味

 ところで、「対話」という言葉は、もうかなり使い古されている。いたるところで「対話」が大切だと言われる。しかし、それは本当に「対話」なのだろうか。

 「対話」が何か魔法のように、問題を解決し、効果を及ぼすものとされている時、わたしはそこにきな臭さを感じる。例えば「対話」の呼びかけは、往々にして力の強い者からなされる。マイノリティの告発を無効化するために「冷静に対話しましょう」と言われる。その時の「対話」は、「対話」を通じて別の効果を得ようとしている。「冷静さ」や「優しさ」の仮面をつけて支配し続けようとする。

 わたしは、このワークショップのタイトルにある「対話をとおして人権教育に出会いなおす」という時の「対話」は、何かすごい方法や効果を意味しているのではないと思う。「対話」が大切なのは、直接的に問題を解決したり、効果を及ぼしたりする力を持つからではない。そうではなくて、このタイトルの通り、「対話」は「出会い/なおし」の時間と場所そのものになりうるから、大切なのだと思う。同じ場所に人が集まり、互いを感じながら、言葉を信頼して話す。その時間、そしてその時間になされる探求そのものに価値がある。知らないことや人に初めて出会う。知っていたつもりだったが知らなかったと気づく。新たにわからないことが増える。そんな風に、参加した人が自分にとって大切だと思える「出会い/なおし」があれば嬉しい。もちろん、わたし自身にとっても。