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国際人権ひろば No.147(2019年09月発行号)

特集① 市民社会からG20への提言

貿易と人権-停滞するメガ貿易協定の向かう道

内田 聖子(うちだ せいこ)
NPO法人アジア太平洋資料センター(PARC)共同代表

 停滞するメガ貿易協定-「いのちか、利潤か」をめぐり対立する価値

 米国でトランプ大統領が誕生して以来、いわゆる「米中貿易戦争」は加速し、世界の貿易体制は先行きが見通せない状態が続いている。

 先進国政府や自由貿易推進者たちは「保護主義との闘い」に邁進している。なぜならば、これまで交渉を重ねてきたメガ自由貿易協定(メガFTA)や世界貿易機関(WTO)が無効化することを恐れているからだ。実際には、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定や日EU経済連携協定など、この数年でいくつかの主要な貿易協定は妥結・発効はしている。しかし、いずれも交渉は長期化し、またグローバル大企業が求める様々なルールは、途上国・先進国の市民社会からの強い抵抗を受け、その水準を低める形でかろうじて妥結している状態だ。

 国際市民社会の視点から言えば、米国のTPP離脱以前から、すでにメガFTAは解決不能な深刻な対立に直面してきた。TPPは自由貿易協定と言いながら実は特定の集団(先進国の大企業)によってつくられ、管理されてきた。米国では政府から約600人の「貿易アドバイザー」が任命され、交渉テキストも自由に見ることができ、政府への提案も行う。そのほとんどは多国籍大企業の人間であり、政府はそれら多国籍大企業のエージェントと化しているのが実態だ。日本を含め他国でも、財界の声は交渉に反映される一方、私たち市民には情報開示も不十分である。こうしたあり方が次第に露呈していく中で、各国で激しい抵抗にあい交渉の歯車は狂っていった。

 この背景には過去30年間における貿易・投資協定の中身の変化がある。かつては関税中心だった「貿易」の枠組みを超え、現在はサービスや金融、投資の自由化、それに伴う国内制度改革(外国企業への市場開放や規制緩和)を強いる「ルール」へとシフトし、交渉範囲は広範囲に及ぶ。軽々と国境を越える自由を手にした企業にとって、私たちの生活を守る法律や規制は、利益を阻む「障壁」となってあらわれる。現在進む貿易交渉の主要な中身は、この規制の撤廃、すなわち「グローバルな規制緩和」と言える。

 またメガFTA交渉参加国の経済発展段階や規模には大きな差があり、先進国と多国籍大企業が求める強い自由化ルールにすべての国が合意できない。特に途上国を含む場合は、公衆衛生(医薬品を含む)や公共サービス、国有企業などの分野での対立が鮮明となる。

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2017年7月、インド・ハイデラバードのRCEP交渉会合にて、
医薬品の特許期間の延長を提案する日本と韓国に向け
インドの女性たちが反対のアピール(筆者撮影)

 例えば、多くのメガFTA交渉の中で、最も熾烈な対立となっているのが医薬品アクセス問題である。TPPでも東アジア地域包括的経済連携(RCEP)でも、先進国の大手製薬企業が求める医薬品特許権の保護強化が提案され、それに対して経済規模も小さく貧困層も多い途上国やジェネリック医薬品の製造国であるインドなどが抵抗しているという構図だ。エイズやマラリア、各種の感染症患者が数多く存在する途上国側にすれば、1日でも早くジェネリック医薬品を普及させたい。1日1.9ドル以下の絶対的貧困ラインで暮らす人々にとってみれば、たとえ1セントの薬価の違いであっても命に直結するからだ。

 1995年にWTOの知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)が定められ企業の特許権が強化されて以降、エイズ患者や支援団体、医療関係者や公衆衛生NGOなど国際市民社会は、「医薬品アクセスは基本的人権である」と、国連機関や各国政府に働きかけ続けた。以来、企業と市民社会の攻防は現在まで続いている。「いのちなのか、利潤なのか」を問う闘いである。残念ながら日本は、アジアの途上国に医薬品特許期間の長期化を提案しており、貧しい人びとからは「有害国」とみなされている。

 先進国においても、自由貿易協定は単なる「貿易」の話ではなく、暮らしを守る基盤を壊しかねないとの理解が広がってきている。EUで自由貿易への懸念が一気に市民に拡大したきっかけは、「食の安心・安全」の分野だった。米国との自由貿易協定TTIPが妥結すれば、EUの食の安全基準が「規制協力」という名のもと緩められ、「米国からの塩素漬けチキン」が輸入されるという現実にEU市民は脅威を抱いた。街には子どもを持つ親や、養鶏農家、レストランのシェフ、トラクターに乗った農家などが「塩素チキンはいらない!」とデモを繰り広げた。その輪は食の安全の問題だけにとどまらず、水道民営化など公共サービスの市場化や、基本的人権である個人情報を守るEU法までもが貿易協定の中で無効化されてしまうとの懸念へと広がった。こうした声がEU議会や各自治体へと届けられ、トランプ大統領の出現前の段階で、TTIPを交渉不能な状態にまで追いつめたのだ。

教育や貧困対策予算が投資家保護の犠牲に

 多くの自由貿易協定に含まれる投資家対国家紛争解決メカニズム(ISDS)も、国際市民社会から強く批判されている。ISDSとは、投資先国の政策や法制度の変更によって「当初予定していた利益」が損なわれたと投資家がみなした場合、相手国政府を訴え、勝訴すれば数千億ドルにも及ぶ多額の賠償金を得られる投資家保護のしくみだ。

 環境破壊や先住民族の強制移住を引き起こした大規模開発を政府が差し止めた直後に、米国の大企業から訴訟を起こされたケース(エクアドルやペルー)、料金高騰や水質悪化のため水道の民営化契約を継続しなかったためフランスのグローバル水道企業から訴えられたケース(アルゼンチンやボリビア)など、世界の訴訟事例は年々増加している。

 問題は、この仲裁廷は国内の司法プロセスを迂回し、恣意的に選ばれた仲裁廷にて行われることであり、しかも仲裁人はごく限られた国際弁護士の中から選ばれ、裁定も密室で行われるという非民主的なしくみである。一審制で裁定に不満があってもそれ以上訴えることはできない。判断の基準は「投資家に不利益があったかどうか」の1点のみで、政府による政策変更や規制措置が公共の利益にとっていかに重要かという社会的・環境的側面は考慮されない。

 これまで何度もISDSで提訴されてきたエクアドルでは、企業に支払った賠償額が国家予算の3分の1にも至り国家財政は逼迫、教育や貧困対策予算をカットせざるを得ない状況に至っている。このような現実を前に、国際市民社会は紛争仲裁ルールのあり方そのものの不公正を問うているのである。

自由貿易で人々は幸せにはならない-考慮されない「見えないコスト」

 これまで経済学の世界では、「equal footing」(対等な競争条件)を実現すれば、すべての人にチャンスが訪れるといわれてきた。世界で巨額の富を持つ者がさらに豊かになれば、その一部が「トリクル・ダウン」(したたり落ちる現象)して貧しい人々にもいつかは届き、みんなが豊かになれるとも言われてきた。

 しかしこれらは過去30年間で実現されてこなかったことは各種の統計資料からも明らかである。貿易や投資の自由化は、マクロ経済では一国の経済成長に寄与することはあっても、ダメージを受ける産業や雇用の喪失を必ず伴う。そこで適切な措置を講じない限り、国内の格差は拡大していく。さらに、自由貿易の推進は長期的には社会コストの増加も伴う。安価な外国産の農産物を輸入すればよいとする政策は自給率を下げ、地域を崩壊させるという多大なリスクとコストを伴う。企業の経済活動がさらにグローバルに拡大すれば環境負荷もかかり、気候変動の要因ともなる。その結果、かつてないような異常気象や大災害が起これば社会全体に深刻な打撃と混乱を生み出す。所得格差が増え失業率が上昇することに伴う社会的コストもどこまで考慮されているだろうか。ISDSによって提訴されるリスクとコストも、特許の延長によって医薬品価格が高止まりすることで、結果的には国民の健康状態が悪化し、最終的には政府の医療費負担や福祉のコストも上がる可能性もある。

 G20サミットでは、C20(市民20)をはじめとする国際市民社会が求めたメガ貿易協定を改革するための具体案を示すことができなかった。

 今後、発展段階に応じた関税率や保護政策、社会開発的な課題を解決するようなインセンティブを貿易協定の中に埋め込み、国連持続可能な開発目標(SDGs)の達成を可能にするような貿易のあり方が求められている。日本はアジアの先進国として、あるいは多額の政府開発援助(ODA)をアジア各国へ拠出している国として「経済と社会開発」「貿易と人権」を両立させるような理念と具体案を貿易協定の枠組みの中でもっと提案すべきである。


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