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国際人権ひろば No.73(2007年05月発行号)

特集 グローバル化のなかでの人々の挑戦 Part 1

グローバリゼーション下のアジアを生きる ~日本の暮らしとのつながりから考える

松平 尚也 (まつだいら なおや) アジア農民交流センター、百姓

  世界一の食料輸入国「日本」が世界人口に占める割合はわずか2%だ。しかしその食料輸入額が、世界の輸入額の10%に上ることをどれだけの「日本人」が知っているだろう。スーパーマーケットでは世界中から集まった食べ物が並ぶ。その中でも特に結びつきの強いのが「アジア」だ。輸入野菜や加工食品の半分以上が中国やタイ、そしてベトナムから輸入されている。その「アジア」の村々で異変が起こっている。原因は20世紀後半の市場主義経済や、最近進展している経済のグローバル化だ。この論考では、私たちの暮らしとのつながりからグローバリゼーションとアジアについて考える。

■日本の食卓と見えない「アジア」


  日本の4倍の農地面積を誇るタイ。東南アジアでは日本への農産物輸出が一番多い国だ。普段は気にとまらないが大量に輸入している農作物も多くある。その代表的なものが砂糖だ。日本の砂糖自給率は3割で、7割が海外からの輸入に依存しているが、その内3割以上がタイから輸入されている(他は主に豪州などから)。また、消費していても原料がわからないものに、でんぷんがある。でんぷんの最大の用途は、飲料の甘味料=異性化糖であるが、タイから輸入されている化工でんぷん(タピオカ)は、食品の他に、医薬品や接着剤に使用されている。他にも居酒屋の定番の焼き鳥(輸入の3割。他はブラジル、中国)、缶詰パイナップル(半分がタイから)、チューブ用のわさび、冬場のおくら、とタイだけをとってみても枚挙にいとまがない。今では日本の暮らしの当たり前の風景に「アジア」からの食品が入り込んでいる。
  「アジア」からの農産物輸入は、1980年代から商社主導で行われた。元々その土地で作っていないものを、ノウハウを持って行って商品開発し、輸入することを開発輸入と呼ぶ。こうした歴史を知ることは、実はアジアの村々の今を考える上で非常に重要である。なぜなら商品や食品輸入の向こう側で、人々の生活が翻弄させられてきたからだ。
  まずは身近な商品であるキュウリの漬物からみてみよう。食堂の漬物や大手漬物メーカーのキュウリは、現在は中国産がそのほとんどを占めているが、かつてはタイから輸入されていた。生鮮野菜の輸入は、プラザ合意(1985年)以後の円高、つまり日本の通貨価値が高まった後、急速に伸びた。それまでは、曲がりなりにも国内の野菜が消費されてきただけに、タイからの輸入の動きは日本の農民にとっても驚きの事実であった。このままでは日本の農業に打撃を与える輸出元である「アジア」の農民はそして農業は、どうなっているのか見にいこう、と行動したのが私も関わるアジア農民交流センター(AFEC)だった。
  一般的に日本の消費者は、食品への残留農薬の心配はするが、その生産に携わる人々への被害は知らないことが多い[1]。メディアによる影響もあるだろう。しかし農薬というものは、散布時の生産者への影響の方が消費者のそれよりもずっと大きく、現在でもアジアでは数万人が亡くなっているのが現状なのだ 。AFECのメンバーが80年代に日本の漬物用キュウリの生産現場で見たのもこうした状況であった。日本では禁止されていた農薬やホルモン剤(一晩で巨大化する)がタイの片田舎で使用されていたのだ。しかも生産者は、日本の商社に言われるがまま散布しているだけで、種類や危険性については何も情報が知らされていなかったのだ。
  現在も進行するグローバリゼーションの特徴としてあげられるのが、途上国では誰が消費するかも知らないまま生産する一方、先進国では人権や環境の配慮もなくどこまでも消費するだけ、という関係だ。こうした関係は、距離が遠くなる程わかりにくくなる。どちらも不幸と言えるが、世界中で食品が大手流通業者に牛耳られている中で、リスクを負わされるのは、途上国のしかも小農民らであるケースが多い。
  一般に輸出する換金作物というものは、大型機械や農薬、化学肥料などに初期投資がかかってしまう。こうした資金だけでなく天候によるリスクも基本的に農民が負担させられる。しかも輸入する商社の利ざやは高いが、農民からの買取価格は非常に低いために、頑張って生産しても借金が残るケースが続出してきた。先ほどのキュウリ生産現場や、タイで最も貧しいとされている東北部のイサーンの代表的換金作物、砂糖にもこうした関係性があてはまる。
  AFECのメンバーと交流があるイサーンの農民は言う。「子どもの頃は、村の周囲にある森が遊び場であり、人々の生活の場そのものだったよ。そんな子どもの頃の風景が、ケナフ、キャッサバなどの商品作物の奨励で消えていったんだよ。拍車をかけたのがサトウキビ栽培だ。サトウキビを作るまでは、借金を背負うほど問題は深刻でなかった」。
  「私は以前普通の農民だった。しかし、サトウキビを植えるようになってから、サトウキビが私の脳を止め、前に進むことができなくなった。後ろに戻ることもできない。借金が怖くて億病になってしまった。トラックを売り払ったけれどもまだ借金は残っている。何が起こったのか私にはさっぱりわからないでいる」。世界第二位の砂糖輸出国の生産を担うのは、大規模経営の農民ではなくこうした小規模農民である。日本はタイ最大の粗糖の輸出先でその3割を占める。しかし、「イサーンの魂が詰められている」砂糖一粒一粒は、無味乾燥にパックされて日本の陳列棚に並んでしまうのだ[2]

■進行するグローバル化の中で


  現在世界で進行している経済中心のグローバル化は、農民の苦難の歴史をあざ笑うかのようだ。この数年交渉が盛んに進められている二国・地域間のFTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)はその際たるものと言える。アジアではタイと中国が率先してこの交渉を進め、特にタイは前タクシン政権時に中国、オーストラリア、インド、といった大国ともFTA交渉を展開してきた。「世界の台所」を標榜したタイ政府は、自国の農産物輸出の競争力に自信があった。
  しかしいざFTAの蓋を開けてみると、中国からニンニク・タマネギ、豪州から乳製品が大量に流入し、国内農業に大きな打撃を与えてしまった。特にニンニク産地はその9割がタイ北部に集中していたため、チェンマイ近郊の農民に計り知れない影響を及ぼしたのである。しかしこうした経験は決して他国の話ではない。日本では、むしろ他のアジアの国々以上に農産物の自由化が行われ、農山村は打撃を受けてきたのだ。

■歴史に現れない日本の農山村の戦後


  日本は戦後、工業産品の輸出と引換えに急速に農産物の自由化を行ってきた。特にアメリカが抱えていた余剰農産物、代表的輸出産品だった小麦や大豆は、1950年代に率先して自由化され、近世からの基幹作物であった大豆は、一瞬にして日本の農村からその姿を消してしまった。他にも菜種や豚肉(1971年)、牛肉・オレンジ(1991年)の自由化により日本の地域経済は、大きな打撃を被ってきた。
  中国からタイにニンニクやタマネギが流入したのと類似したケースが、日本の産地では10年以上前の90年代初頭に起こった。半値以下の中国産のニンニクが流入し、産地が集中していた青森県の生産量が、わずか数年で激減してしまったのだ。青森県は沖縄に次いで所得の低い県である。冬が長く、産業を確立することが難しい風土で、何とか出稼ぎせずに生きていく方法を模索する中で確立した産品の一つが、ニンニクや菜種だった。その産品が国際化という一言で台無しにされていく。原発や再処理工場受け入れ問題の前景としてこうした歴史があることは、しっかりと記憶されていく必要があるのだ。
  日本の農山村の現状は、グローバル化を率先して行った経験として共有されるべきものであると言える。地域産業の基幹であった農林水産業が短期間でここまで斜陽化した例は世界でもまれであろう。こうした状況は、実はアジアで起こっている上記の事態より根が深いと言える。日本の農山村では、高齢化という段階を越えて集落が維持できなり「廃村」化が進行しているのだ。
  何百年続いてきた村がなくなることは、その土地/風土の中で生きる知恵の蓄積が喪失することを意味する。民俗学者ですら向き合えていないこの状況に挑んだのが、新聞記者の藤井満さんだ。藤井さんは、四国の奥深い山々を歩いて住民の声を丹念に聞き回られた。その著書『消える村生き残るムラ?市町村合併にゆれる山村』(アットワークス、2006年)の中でかつて四国の三大発酵茶として名を馳せた石槌山茶の産地、元石槌村の住人は言う。「千人で支えた村を数人で支える重圧は都会の人にはわからんでしょう。いつも言うんよ。中天にのぼった太陽を見ても、動きを感じる人はあまりおらんけんど、山の端にかかったときの太陽は、非常な早さで落ちていくんじゃ」。
  日本に住んでいると、未来永劫食料が輸入し続けられるように勘違いしてしまうかもしれないが、アジアの他の国々が「経済成長」を達成する中でそうした常識は完全に崩れ始めている。特に中国の台頭が著しく、農産物一つ取ってみても、食料調達の強力な競争相手として登場するようになった。最もわかりやすい例に日本の自給率が低い大豆(5%)がある。最大の輸入元ブラジルで、中国のバイヤーが日本より高値で買い付けるようになっているのだ。ほとんどなかった中国の輸入は、わずか10年で世界の大豆輸入の2割を超えるようになった(日本は1割弱)。ここ数年日本国内で豆腐の値段が上がっている一因である。
  高度経済成長期以降、日本の農地面積が減少し続け、1960年には600万haあったのが現在は440万haとなってしまった。それとは対象的に輸入農産物は増加してきた。輸入農産物を農地面積に換算すると1200万ha、と日本の面積の3倍を海外に借地していることになっている。つまり「日本はアジアや中国なしに生きていけない」のが現在の状況なのだ。

■グローバリゼーションと人々の知恵


  私たちは別の道が必要になっている。しかしその道は、何も特別で新しいものではない。私たちの暮らしの中にこそ、その可能性はある。日本とアジアの農民の知恵を紹介しつつ、扉はそれぞれの暮らしの中へと開いたままひとまず筆をおこうと思う。
  AFECの交流事業でイサーンの農民が日本の農民と一ヵ月間交流した後、こう感想を述べた。「何よりも今回の訪問で学べたことは、日本の農民たちが直接消費者と手を結んでつながっていることだ」。
  彼はタイに帰国し、自分の村で朝市を始め、その後JVC(日本国際ボランティアセンター)タイの「地場の市場づくり」プロジェクトにつながっていく。この朝市プロジェクトは多くの村に広がっていき、日本でいうと有機農家が行っているような少量多品目栽培型農業を確立させた。こうした取り組みは換金作物に頼らない、リスクの少ない農村づくりへと筋道づけた。
  世界中どこまでも大手メーカーの「工業食品」がはびこっている中で、小さな知恵の交換こそが重要になっている。日本でも地産地消(地元で取れた野菜を地元で食べる)という取り組みが一定程度成功を収めているが、スーパーやコンビニで買い物する人が多数を占めるのが現状なのである。
  日本でも流通が巨大化し農民の自主性を育ててこなかった。既出の藤井さんの著書で、ある村で朝市を始めたところ、これまで農協任せだったので、自分の農産物にいくら値段を付けたらよいかわからない、という女性の村人がいた。しかしだんだん慣れてくると現金収入も伴い、家族内での発言権も確立され、自分への気づきが生まれていく。
  こうした気づきは一見小さなものに思えるかもしれないが、さきほどのタイの朝市プロジェクトの知恵と共振していると感じられるのである。それは怒濤のごとく進行している経済のグローバル化の中では、本当に小さな息づかいのようなものかもしれない。しかしその息づかいが、私たちの中の未来のアジアへの振動へとつながっていくことを、切に願う今日この頃なのである。

1. Meriel Watts, "Pesticides : Sowing Poison, Growing Hunger, Reaping Sorrow", Policy Research & Analysis, Pesticide Action Network (PAN) Asia and Pacific, p8

2. 松尾康範『NGO東北タイ活動記‐「イサーンの百姓たち」』(めこん、2004年)参照