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国際人権ひろば No.69(2006年09月発行号)

共に生きる?

白石 理 (しらいしおさむ) ヒューライツ大阪所長

  昔の話である。私は、東京で大学生、最後の年になって池袋のはずれに下宿をした。下宿の親父さんに銭湯の場所をたずねて、親父さんの持論を聞くことになった。「銭湯ではみんな平等だ。失業者も社長さんも同じ裸だろう。誰がなんだか分かりゃしない。いいもんだよ」。

  その銭湯へ行った。日暮れにはまだ時間があり、銭湯は開いたばかりで客がいない。一人で湯舟に浸かっていると、人が入ってきた。未だ若さの残る三分刈り頭。丁寧に体を洗い、湯船に入ってきた。「兄ちゃん、湯あつかあねえか」と威勢がいい。「結構な湯加減です」と答えると、体を湯舟に沈めて、ふううっと息を吐いて「こたえられねえや」と機嫌よく独り言。湯舟から上がる後姿には、見事な昇り竜の刺青が冴えていた。

  別の日。早々と銭湯に行った。読者は、「こいつ、勉強もしないで湯ばかりに入っていたのか」と思われるかもしれないが、そうではない。銭湯の湯がきれいなうちにと思い、時間が許せば昼間から銭湯通いをしていただけである。でもきれいな湯が並々と溢れ、広々とした洗い場のある銭湯は好きであった。今度は既に一人先客がいた。毛深い体と透き通るように白い肌を見て一目で私とは人種がちがう人だとわかった。わたしは、体を洗い、湯舟にいるその若い人に加わった。互いの目が合い、微笑みの挨拶を交わした。言葉はなかった。何週間かあと、赤坂か六本木にあったレストランに友達と行ったとき、注文をとりに出てきたのが、銭湯でいっしょに湯舟に浸かったあの「裸なかま」であった。わたしは、覚えていてびっくり。彼は、いちいち東京で会う日本人など覚えていられないのは当たり前。何もなかったように感じよく接待をしてくれた。

  それから随分と時がたった。外国で仕事をはじめ、結婚をして家族を持った。たまに一時帰国で帰る日本は、家族いっしょの楽しい休暇であった。プールへ行くこともあれば、温泉にいくこともあった。あるところで「刺青のある方は入れません」という文字が目に入った。別の場所でも見つけた。昔通ったあの銭湯にも今は同じような張り紙があるのだろうか、昇り竜を思い出しながら考えた。

  それからまた時がたった。ある時職場の同僚が英語の新聞の切り抜きを持ってきた。日本では、「がいじん」差別が日常的に起きているという。外国人船員、労働者が銭湯、バー、飲み屋などへ入ろうとして、断られるという事態を現地取材した記事であった。大体次のような内容であったと記憶する。銭湯の主人は、「風呂の入り方を知らないから困る」「外人さんが湯舟の湯を汚すと土地のお客さんから苦情が出る」と語り、飲み屋の人は、「外人さんがけんかをする」「外人が集まると、土地の馴染みの客が来なくなる」というのであった。どちらも商売にかかわることで、仕方なく「外人さんお断り」の札を掲げているとのこと。この記事を書いた記者は、さらに銭湯を使ってきた日本にいる外国人にインタビューをする。「あなたは、なぜ銭湯に行くのですか」。その人が答えて言うには「アパートに風呂がなく仕方ないからね。でも、体を洗うだけ。湯舟には入らない」。「どうして湯舟に入らないのですか」との問いには、答えは「汚いから」。

  また昔に戻る。1980年代のはじめ、私は駆け出しの国連職員であった。東京の駐在生活も終わりに近づいたころ、新たに職員が赴任してきた。私が彼の住処を探す手伝いをすることになった。当時東京には外国から東京に赴任する外交官やビジネスマンのために賃貸高級住宅やアパートを斡旋する不動産屋があった。いくつかの業者をあたって、本人の希望を聞いてもらったが、彼がこれはと思う物件にはなかなか出会わなかった。時間とともに彼は次第にいらだち始めた。そこで私は不動産屋の担当者を突っついてみることにした。「国連さんと契約できるとよろしいんですが。個人の方では保証金その他で負担が大変ですし」という。私は、「国連は職員の住処をまかなえません。自分で住処を見つけて契約をすることになっています」と取り合わなかった。ちょっと躊躇して、その担当者は、「実は、あの方と同じ地域の国の人にこれまで何度か問題を起こされた経験があるんですよ。それでなんとなく家主さんは気が進まないようなんです」。この私の新しい同僚はほどなく別のアパートに落ち着いた。その同僚は、その後住処を見つけるときの難しさについて語ることはなかった。私も裏話には触れなかった。25年後スイスのジュネーブの街でこの同僚にばったり。彼は既に引退生活だという。日本滞在の楽しい4年間の思い出を語って尽きなかった。

  近年、日本でも人種や国籍による入居その他の差別にかんする裁判事例がでてきた。結果は必ずしも人権という視点からの問題解決とはいかない。けれども、差別をされたとする被害者が、屈辱を忍び、黙って引き下がることなく、裁判で人としての権利を主張するというあらたな動きであった。

  今の日本社会には、多くの外国人が住み、働いている。私の学生時代とは比較にならない数である。多文化共生社会の確立が求められている。それが、掛け声、建前に終わらず、現実になるよう働いている人々がいる。多様性を認め、一人一人を大切にし、共に生きる社会をめざして、日常生活のレベルで出来ることは多い。