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国際人権ひろば No.69(2006年09月発行号)

特集:市民の視点から考える日比国交回復50周年 Part1

日比関係の50年を振り返る~人流のさらなる進展に向けて

津田 守 (つだ まもる) 大阪外国語大学教授

■歴史の連続性


  今年は日本とフィリピンの間の「国交回復」から50周年にあたる。1956年7月23日に、両国間で平和条約および賠償協定が発効したからである。また、その時点で在マニラ日本国大使館及び在東京フィリピン共和国大使館がそれぞれ開設された。つまり、両国政府間での関係が、第二次世界大戦後、改めて公式なものとなった
  両国では今年を「日比友好年」と名づけ、政府レベルや民間かを問わず様々なイベントが催されている。「友好の日」となった去る7月23日には、当初は小泉純一郎首相が予定されていたが、結局実現せず、麻生太郎外務大臣がフィリピンを訪問し、フィリピン政府外務長官とともに記念式典に参加した。
  グロリア・アロヨ大統領は、式典には参加せず、前日に「50周年を契機にさらなる比日関係の強化を望む」と声明を発表した。そこでは、日本政府が政府開発援助(ODA)の最大の対比援助国であると賛辞を表明し、「両国は経済開発・地域協力の分野で連携を強化してきた」、そして「今後も民主主義、平和、人間の尊厳を基盤とした二国間関係を築くことを望む」と述べたが、2004年11月の日比経済連携協定(EPA)締結で大筋合意したまま未締結の同協定には言及しなかった。(『日刊まにら新聞』06年7月23日付記事より)
  『日刊まにら新聞』によれば、麻生外相はアロヨ大統領との個別会談で、フィリピン政府とモロ・イスラム解放戦線(MILF)との停戦を監視する「国際停戦監視団」の復興・経済開発部門での専門家派遣を伝えた。また、友好式典では、今後の協力課題について言及、「両国は共に米国の同盟国として権益を共有している」と述べ、軍事的な同盟関係推進の意向を示唆した、とされる。
  フィリピンは、日本の「生命線」を抱える東南アジア諸国連合(ASEAN)の中でも、最も近い隣国であり、歴史的にも深い関係におかれてきている。「日比友好50年」を、歴史における連続性という観点から見てみよう。
  もちろん、ふたつの国の関係としては、外交・政治・軍事から貿易・投資と2国間・多国間の開発援助への日本の関わりにおいて、また環境・文化・教育面での繋がりを考慮されなければならない。さらには、カネ、モノ、情報の交流のみならず人々の移動(移住を含む)にも注目することが必要であろう。

■一世紀前に渡比した日本人たち


  「国交」ということで言えば、今から118年前の1888(明治21)年に明治政府が、まだスペインの植民地下にあったフィリピンに「在マニラ日本総領事館」を開設したところから始まる。通商拡大、貿易促進、移民導入などが目的であったとされる。1892年には日本の軍艦「浪花」や「高千穂」がマニラを表敬訪問していたが、約3年間、一時閉鎖された。1896年のフィリピン革命勃発の時期を同じくして、総領事館は再開され、1898年末にフィリピンが米国領土となってからも存続をした。
  また、主として西日本出身の多くの女性が、フィリピンにも「からゆきさん」(酌婦とも呼ばれた人身売買的移民)として送られてきたり、1903~04(明治36~37)年頃には5,000名ほどの日本人男性が、ルソン島バギオに通じるベンゲット道路建設のために「契約労働者」として出稼ぎにやってきたりしてきた。また、1904年には、ミンダナオ島ダバオでの日本人による大規模なマニラ麻栽培が始まってもいる。いずれにせよ、この頃の両国間の人流は圧倒的に日本からの「一方通行型」であった。

■「国交回復」の背景


  時期は飛ぶが1956年に「国交が回復した」ということは、45年の太平洋戦争(民間人を含むフィリピン人には約110万人、日本軍人には約48万人の犠牲者があったとされる)での日本の敗戦をもって、日比外交関係は完全に途絶えたことに由縁する。日本は連合軍による統治下におかれ、フィリピンは46年に米国から独立を与えられることとなった。52年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ(日本も独立したため)、実は同年マニラに「日本政府マニラ在外事務所」が開設されている(「国交回復」の4年前である)。日比両国政府間での賠償交渉が翌年に開始され、主張の大きな隔たりからその締結までには丸4年を要した。総額5億5,000万ドルが76年までという20年間の長期に及んで支払われるという内容であった。日本からフィリピンに物資が輸出される「呼び水」となり、後に「賠償から商売へ」と呼ばれる契機となった。
  戦時賠償は、ごく一部が「在郷軍人団体」に向けられたが、当時はまだ明らかにされていなかった「従軍慰安婦」など民間の戦争被害者への補償はされないままであった。賠償のため調達されたメイドインジャパンの製品や機材が、フィリピンの民間産業と政府部門に投入された。
  1950年代末までに戦後復興をほぼ果たした日本は、民間レベルでの貿易や投資を十分に活性化することをめざした。60年には「日比友好通商航海条約」が両国政府によって署名され、日本の国会ではほとんど議論のないまま批准された。それでもフィリピン上院では、その時点でも根強い日本への警戒心から、同条約は批准されなかった。10年を超える「棚上げ」状態のまま、72年3月には上院は批准拒否を決議したほどである。
  フェルディナンド・マルコス大統領は、その就任翌年の66年にはフィリピン議会の承認のないまま、日本企業のフィリピンでの営業活動を認める発令を出していた。そして72年9月からは戒厳令体制を敷いて、12月に(翌年1月の田中角栄首相の訪比を控えた時点で)大統領令によって強権的に批准を行ったという経緯がある。
  なお、同条約は(賠償支払い最終年でもあった)1976年には改定されることとなり、何回もの交渉会議の末、80年にようやく両政府間での批准書交換が行われた。その意味では、日本とフィリピンの間のもうひとつの「戦後の終わり」は「国交の回復」から24年も経った後のこととなった。(ちなみに「マルコス独裁政権崩壊」は「国交回復」から30周年の1986年であった。)

■未来志向の日比間の人流をめざして


  ここで目を両国間の人流に転じてみよう。1956年以来、70年代まではやはり圧倒的に日本人のフィリピンへの訪問や移動が特色であった。とりわけ、戒厳令体制下の70年代後半までに、日本の対比貿易、直接投資、政府開発援助(ODA)などによりフィリピンでの日本の外交及び経済的地位が米国のそれに匹敵するか上回るほどになったことに伴い、日本人観光客のフィリピン旅行ブームを呼んだ。戦跡巡礼や遺骨収集のための団体が多かった。
  ところが、当時の日本人(主として男性)の経済力と欲求が東南アジア各地、とりわけフィリピンでは「買春ツアー」の形でも現れたのである。他の東南アジア諸国と比較しても圧倒的なパワーでフィリピンでは批判の声が高まっていった。そして80年代に入ると、フィリピンからの「エンターテイナー」(主として女性)の出稼ぎブームが湧き上がった。(日本政府が、一定の要件は課しながらも、入国を認めてきたからである。)およそ20年間に及んでこの種の傾向が続いた。
  もちろん、観光、ビジネス、留学、研修、結婚・親族訪問などの目的での相互交流が近年盛んになってきている。
  2004年11月に両国政府間で大筋合意された経済連携協定(自由貿易協定)の柱の一つが、看護師や介護福祉士候補者等を来日させるというものであった。ちょうど、日本政府がフィリピン人エンターテイナー入国に強い制約を課すこととなる時期と重なった。今後、同協定が締結され、現実にその運用が進んでいく場合には、国際労働市場にしばしば見られるような新たなる「人身売買」とならないように注視していかねばなるまい。

  これから50年間の日本とフィリピンの関係においては、友好的かつ緊密で、それぞれにとって利益のあるものとなることを期待したい。国家や企業間のみでなく市民同士(民際として)の交流推進をこそ大切にしたい。そのためには、以上スケッチした様々な歴史における連続性を、より多様な人流をもってポジティブな方向に変換していくことが必要であろう。

※参考文献:
・池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ(編著)『近現代日本・フィリピン関係史』岩波書店、2004年。
・大野拓司、寺田勇文(編著)『現代フィリピンを知るための60章』明石書店、2005年。
・佐藤虎男『フィリピンと日本 500年の軌跡』サイマル出版会、1994年。
・津田守、横山正樹(編著)『開発援助の実像 フィリピンから見た賠償とODA』亜紀書房、1999年。