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国際人権ひろば No.64(2005年11月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

ネパールの人身売買被害者を支援する施設を訪ねて

西田 史 (にしだ ふみ) 神戸大学大学院国際協力研究科修士1年

  ネパールは、インドと中国の間に位置する内陸国である。首都カトマンズは、古い寺院が点在する歴史ある街だ。そこから少し郊外に出れば、山々にかこまれた麦畑が広がっており、晴れた日には万年雪をのせた世界最高峰のヒマラヤを望むこともできる。日本の田舎そっくりなその風景は郷愁を誘う。人々は基本的には人懐っこく、温かい。人と人との繋がりが深く、強いコミュニティを持つが、外からの人間にも警戒心を抱かずにこやかに笑いかける寛容さをもっている。自然と人と宗教とが渾然一体となった美しい国だ。
  しかし、経済的には国連から最貧国に指定され、また政情も安定しているとは言いがたいなど、様々な問題を内包している国でもある。その中でも、最近になって注視され始めたのが人身売買の問題である。まだ年若いネパールの少女たちが、オープンボーダーと呼ばれる柵のない国境を越えてインドへと売られていくのだ。

ネパールにおける人身売買の実態 [注1]


  ILO(国際労働機関)は、年間12,000人の子どもがネパールから売られていくと推定しているが、表面には現れにくい「商売」であるがゆえに正確な数を知るのは難しいことから、その推計数は5,000人から20,000人までの幅がある。売買先は主にデリー、ムンバイ(ボンベイ)、コルコタ(カルカッタ)などのインドの大都市で、インド国内で「売春に従事する」ネパール人は約41万人であるという統計データも存在する。被害者の年齢層は、14-18歳が最も多いが、近年HIV/AIDSの蔓延などを理由に処女性を重視する傾向が高まり、10歳以下の少女が売買の対象となることもある。被害者の少女たちは、まず家庭が貧しい、社会的に立場が弱い低カースト・少数民族であるなどの傾向が見られる。また、教育制度の不備と貧しさが原因で教育を受けていない者も多く、文字が読めないことなどから情報を得る機会も制限される。そうした少女は、街で高給の仕事があるなどの甘い言葉に騙されて、ブローカーを介して売られていくのである。
  売春宿に売られた少女たちに待っているのは過酷な生活である。1日あたり10-20人程度の客をとりながらも、客からの利益の90-95%は経営者が握り、彼女たちに与えられるのは小銭程度のお金とほんの少しの食事のみだ。HIV/AIDSを含めた性感染症の危険性、客や売春宿の経営者からの暴行、精神的ストレスなどなど彼女たちが身体的・精神的に受ける苦痛は計り知れない。
  彼女たちが売春から抜け出せるルートは、病気・加齢などを理由に自発的・非自発的に出る、もしくはNGOなどによって助け出されるかである。しかし、売春宿を出る際には、すでにHIV/AIDSなどの病気にかかっているケースが多い上、たとえ無事に帰ったとしても社会的偏見が待ち受けているなど彼女たちの社会復帰は大きな困難を伴う。それゆえに売春を引退した後「娼窟」に残る者も多く、今度は被害者自身が宿のオーナーとなり、新しい少女を買い付け、売り出すという悪循環が生まれるのである。

ホスピスでの体験から


  2005年3月、私はカカルビッタというインドとの国境に位置する小さな街を訪ねた。売春宿から救出されたものの、HIV/AIDSに感染しており療養を必要とする人身売買被害者の女性たちのためホスピスを訪ねるためだった。マイティ・ネパールというネパールのNGOによって運営されている施設なのであるが、その支援を日本から行っているNGO、ラリグラス・ジャパン[注2]のスタディツアーへ参加するという形をとっての訪問だった。
  ネパールへ発つ前は、どんな人たちなのか? 傷つけるようなことをしてしまわないだろうか? と、ドキドキしていた。恥ずかしいことながら、初めて会うHIV/AIDSポジティブの人たちに少しの怯えも感じていた。しかし、初めてホスピスに足を踏み入れた時、門の内外に並ぶ笑顔と、「ナマステ?」という言葉にその緊張が少し解れたのを覚えている。彼女たちに会ってみて、彼女たちは普通の純朴な女性であることを発見した。一緒に服を買いに行ったときは、どれが似合うか真剣に相談していて、その姿は日本の女の子の買い物姿と変わらなかった。映画を見れば楽しそうに手を叩き、マニキュアをほめれば恥ずかしそうに笑う。こちらまで嬉しくなってしまうような笑顔は、今思い出しても胸がくすぐったくなる。彼女たちは「被害者」である前に、自分の意思をもつ人であり女性であるのだ。しかし、だからこそ彼女たちが人身売買の被害にあい、またHIV/AIDSに感染してしまったことがつらく、腹立たしい。なぜなのか? という思いも湧きあがる。
  彼女たちの過去は凄惨である。まだ、自分がどこに住んでいるかを覚えていられない年齢のうちに売り飛ばされ気がついたらインドの売春宿にいたという人や、前述のような生活を送り一日何人も客を取らされていた人、中には精神的に追い詰められ、人とコミュニケーションをとることが難しくなってしまった人もいる。「結婚」が女性にとって大きな意味を持つネパールで育った彼女たちの「結婚はしたくない」という言葉に、男性への不信という傷の深さが垣間見える気がした(現実に難しいということもあるのかもしれないが)。
  また、常に死の影が付きまとうHIV/AIDSという病気も彼女たちの精神を圧迫する。私たちが訪ねる少し前に、そのホスピス内のリーダー的存在だった女性が亡くなっていたのだ。仲間が亡くなったというだけでも大変なことである上に、自分たちは同じ病気のポジティブなのだ、彼女の死が意味するところは大きかったに違いない。

支援と被支援の関係とは?


  彼女たちと自分たちとの間にちょっとした共通点を見出す度に、よけいに世の中の不公平を感じずにはいられない。同じことで笑いあいながらも、境遇はあまりにも異なる。彼女たちの多くはネパールの低カーストの出身だ。低カーストであるがゆえに貧しく、貧しいがゆえに教育を受けられない、教育を受けられないがゆえに情報を得る機会が制限され、騙されて人身売買の被害にあう。貧しいものがより苦しむシステムだ。
  売られた後も、そこから救出される女性はほんの一握りである上、救出されたからといってその後の人生が安泰であるという可能性は低い。本当に、なぜこんなことが起こるのか? 私は今まで衣食住に不自由を感じたことはないし、売り飛ばされることを怖れた覚えもない。だが、それは努力して得た環境ではなく、ただ偶然に日本という国で今の両親の元に生まれたからだ。幸せの度合いを測ることは難しく、私の方が彼女たちより幸せだなどというのは傲慢だが、自分で自分の人生を選択するという点から見れば彼女たちの自由は極端に制限されている。このような状況を作り出してしまったのが人間社会なら、それを是正していけるのもまた人間である。私たち一人ひとりが、自分はどんな社会に生きているのか自覚し、どのような社会を目指して生きていきたいかを描きながら行動していくことが大切であると思う。
  ただ、留意しなければならないのは、私たちがしたいこと・できることと、彼女たちがしてほしいことが、もしかしたら一致しないかもしれないということだ。彼女たちは、確かに差し伸べられる手を必要としている。そして私たちも彼女たちが助けを必要としていることを知っている。しかし、支援側がしたいこと・できることと支援される側がしてほしいことの間には溝があるかもしれない。いやむしろ溝があるのが当然なのかもれない。支援はする側の自己満足で終わってはならない。支援される側にも意思があり感情がある限り、お互いが対等の立場で話し合い、何が・どういう形で必要なのか、お互いができることは何なのかを確認しあいながら進めていくということが必要なのだと思う。「支援」なんていう偉そうな言葉で飾ったとしても、結局のところは人と人との繋がりであり、お互いの意思を尊重しながら意見を交換するという人間関係の基本の部分は変わらないのだろう。

注1:参考文献 Bal Kumar KC, Govind Subedi Yogendra Bahadur Gurung, Keshab Prasad Adhikari, Central Department on Population Studies (CDPS), and TU, (2001), Nepal Trafficking in Girls With Special Reference to Prostitution: A Rapid Assessment, ILO,. IPEC.
注2:http://www.laligurans.org/