MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.88(2009年11月発行号)
  5. 済州島旅行記

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.88(2009年11月発行号)

特集:「移住」の視点からみる韓国・済州島スタディツアー Part5

済州島旅行記

号外版:「済州島スタディツアー2009」(8月25日~8月28日)の感想文

鍛治致
大阪成蹊大学教員

はじめに


 ヒューライツ大阪(財団法人アジア・太平洋人権情報センター)と財団法人神戸学生青年センターの共催企画による「移住」の視点からみる韓国・済州島スタディツアーに参加した感想を以下にまとめる。他の参加者の感想文と重複しないよう【敢えて】他の人があまり書かないことを中心に書いていく。なお、本稿における韓国語のローマ字表記は韓国文化観光部告示第2000-8号(2000年7月7日)を参考にした。
 

2009年8月25日(木)


 ネットで確認したところ、この日のレートは1万円=1万3,130ウォンだった。07:30に関空に集合。KE734で済州島へ。
 済州国際空港に着陸する直前に飛行機が急旋回。このとき機体が相当傾いたので、主翼の付け根に座っていても、漢羅山と済州市街が左下に一望できた。カメラにフィルムを装填していなかったことを後悔。
 どういう訳か上陸手続の後に手荷物をX線で検査していた。フィルムにX線を当てないで欲しいとお願いしたがダメだった。リゾート地でもある済州島は海外からの密輸品を相当警戒しているようだ。
 ガイドは趙さん(女性)。一人ずつマイクで自己紹介しながら食堂へ向かう。

 【13:30】
  海辺の埋め立て地に建てられた食堂(細花海女潜水村)に着く。しばらくみんなで海を眺める。ところどころエメラルドグリーンになっている。これは海底が白い砂だから。bomalgukを食べる(壁に貼ってあるメニューで確認すると6000ウォン)。bomalとは済州島の方言で巻き貝の意味。巻き貝とウニとワカメが入ったスープ。薄味。小さな巻き貝は深緑の肝までまるごと全部入っていた。ウニはとても小さい。ワカメはちょっと煮すぎ。溶けていた。それにしても、韓国の食堂で出てくる水は冷たくておいしい。それにひきかえ、日本の食堂で出てくる水はまずい。氷が冷蔵庫臭かったりする。そういえば、1993年に延辺で1カ月ホームステイしたときもそうだった。中国朝鮮族も、食事のときは冷たい水を飲む。韓国では、デパート等にあるセルフサービス食堂でも、おいしい冷水とおいしいお湯が出る機械が設置されている。

 【14:20】
  食堂を出発。食堂のすぐそばの市場を通過する。魚介類の他に青果も売られていた。帰国後調べたところ、これは済州市細花五日市場(店舗数161、売場面積3103平方メートル)。
 済州海女博物館のすぐそばは海だった。イカがずらっと干してあった。

 【時刻不明】
  済州海女博物館に着く。日本語ガイドのあとに付いて回ったあと、みんなが海女のビデオを観ているあいだ、数分間だけ「脱走」して付近の浜辺に干してあったイカを撮影しに行く。

 【15:45頃】
  最上階の講義スペースで済州海女博物館の左惠景さんの講義を聞く。

 【18:27】
  済州貴賓park観光hotel(住所:済州市老衡洞917-2号,電話:064-743-5530)に到着。

 【19:00】
  ロビーに集合して郷味食堂(住所:済州市蓮洞253-13,電話:064-742-5696)に行く。最初に鶏卵jjimが出てきた。鶏卵jjimはかなり長いあいだ口笛みたいに勢いよく水蒸気を吐いていた。

 【20:00】
  食堂を出る。

 【20:15】
  ホテルに着く。シャワーを浴びるが温水が出なかった。
 

2009年8月26日(水)


 【07:00】
  ホテルを出て散歩。真東に歩いてみた。ホテルの近く、大通りの歩道には、両面カラー印刷の名刺型広告がたくさん落ちていた。S-rain(エスライン)、seksigeol(セクシーガール)、seutaking(スターキング)、ueonsaek(原色)等と書いてあって、女の人の裸の写真が印刷してある。そういえば、2009年3月に安養で1カ月滞在したときも消費者金融や運転代行サービスのビラや名刺が歩道にたくさん落ちていた。早朝スクーターで男の人がやってきて名刺型広告を指で上手に弾き飛ばすと名刺はクルクルと回転しながら店先にふわりと着地する。紙広告は手渡したり貼ったりするものとばかり思っていたが、韓国では散布することもある。
 新済州郵便局に着いた。絵ハガキを出したかったので、切手の自販機があることを期待していたのだが、そんなものない。とても小さな郵便局で、古いビルに間借りしているような感じだった。日本と比べると郵便局の地位が低い感じがする。一方、薬局は日本より地位が高くて威厳がある。栄養ドリンクは売るかも知れないが、ちり紙やお菓子を売ったりはしない。反対に、道路は日本の方が断然立派。2008年8月にトロントに行ったときもそう感じた。日本ほど道路にお金をかける国はない。
 歩道の縁やタイルは切り出した玄武岩だった。さすが火山島。気泡を含んだ面でスライスされ、細かい穴がたくさん空いたタイルも珍しくない。
 帰りは大通りより一本北側の道を歩いてみた。ホテルの近くは古い団地だった。ぜんぶ5階建て。ソウルと同じでベランダはガラス張りだった。
 信号機について一言。2007年9月に初めて韓国(釜山)に来たとき、赤信号の男性のシルエットが日本とは比較にならないほどガッシリしていて強そうだったので「日本は負けた」とかなりショックを受けた。だが、今回済州島で見た信号機はほぼ全てLEDに切り換えられており、赤信号からはもはや往年の迫力が感じられなかった。残念。
 ところで、街で見かけたゴミ収集ステーションはとてもおしゃれだった。色と大きさと形状がバラバラの蓋付きプラスチック容器がゴミの種類別に6個前後並んでいる。ゴミ収集員は2人組。ゴミを収集すると、霧状の水をスプレーして容器を洗浄(消毒?)する。なかなかスマートでカッコイイ。

 【08:10】
  ホテルに帰還。地下食堂で朝食。薄暗かった。

 【09:00】
  ホテルを出発。

 【時刻不明】
  済州四三平和公園に到着。しばらく屋外でガイドの趙さんの話を聞く。空気が乾燥しているので、気温が暑いというよりは日光が熱い。立ち止まったとたん皮膚がジリジリと焼けていくのが分かる。

 【10:00】
  建物に入る。暗くて涼しい。自動販売機でsikyeを買って飲む。おいしかった。

 【11:55】
  済州四三平和公園を出発。

 【12:50】
  レストラン(高句麗松都膾s-jip)に着く。

 【13:37】
  レストランを出発。

 【時刻不明】
  平和博物館に到着。日帝時代に掘られた穴の中は湿度100%。壁面は常に濡れている。木の根やセミの幼虫にとっては快適かも知れないが、人にとっては非常に不快。もしここで煎餅や乾パンを開封したら、すぐにしけってフニャフニャになるだろう。館長は若者が好きな様子。「学生が何人かいるようだが、何か質問はないか」と何度も言っていた。見せてもらったビデオにも日中韓の若者がたくさん登場していた。

 【時刻不明】
  松岳山に到着。済州島最南端。日帝時代、船艇を空爆から守るために海に面した岩肌にくりぬいた穴がいくつもあった。海岸には角が取れた大きな岩がごろごろしていた。フナムシがたくさんいた。フナムシの親分はゴキブリよりも大きくて立派だった。ここは砂浜の砂まで玄武岩。墓石のように黒い。黒い砂浜なんか見たことがなかったので驚いた。波が引いて海水がしみこむ瞬間、濡れた真夏のアスファルトのような、実にメタリックな光沢を放つ。

 【時刻不明】
  松岳山を出発。

 【15:41】
  バスの車内にいた。

 【時刻不明】
  al-tteu-reu飛行場の跡地に到着。
 道端や駐車場にいっぱい立てかけてあるのは収穫したゴマ。初めて見た。
 al-tteu-reu飛行場跡地を見学。周囲は一面の畑だが飛行機を空爆から守るための格納シェルター(掩体壕)があちこちに見える。確認できただけでも6個前後あった。シェルターはセメントで出来ている。空爆に耐え得るよう亀の甲羅のようなドーム型をしている。ただし、ゾウガメというよりはスッポンの甲羅に近く、平たい。遠目には地下要塞への入口のようにも見える。ドームの上には土壌が薄く載っていて草が生えていた。帰国後ネットで調べたら掩体壕マニアのサイトがあったので紹介しておこう→ http://www.kassouro.com/shelter/index.html。また、韓国のWikipediaを参照したところ、大韓民国空軍は2011年済州島に探索救助部隊を創設することにしているが、このal-tteu-reu飛行場跡地がその候補地になっているとのこと。
 給水塔の跡だろうか、セメントでできた高台にみんなで登った。今回のツアー参加者(約30人)が全員載ってちょうどいいくらいの広さ。風が心地よい。登っている当人達は飛行場の全景を遠く見やりつつ、みなきっと心の中で「いま自分達は相当イケている」と思っていただろうが、農作業をしている地元の人達が遠くから見たら、きっと相当マヌケで意味不明の中年集団だったに違いない。
 周囲の畑にはジャガイモ・サツマイモ・大豆・ゴマなどが植えてあった。地元の女性達がジャガイモの種芋を植えていた。男性が運転するトラクターが畑の中を移動すると、灰のように細かくて乾いた土が舞い上がる。
 予備検束犠牲者を供養する村の記念碑も見学した。高さ8メートルぐらいのところに真新しい横断幕が張ってあり、風が吹くたび上下に揺れていた。横断幕の左端に「追」右端に「慕」と書いてあった。その間には「seos-al-o-reum予備検束犠牲者英霊 第59周忌合同慰霊祭」と書いてあった。記念碑には被害者の年齢も刻まれていた。20代と30代が多い。村の名前が漢字で刻まれていたが卵という文字が目に入った。そういえばalは韓国語で卵の意味だ。韓国人も日本人と同様、固有語の音に中国の字を当てて訓読みみたいなことをするのだろうか。一方、済州島の方言においてo-reumは寄生火山のことを指し、全島で368個あるらしい。するとseos-al-o-reumという地名は西卵寄生火山という意味になる。
 なお、帰国後、ネットでseos-al-o-reumの場所を確認したところ、済州島の最南端に位置していた。また、ネットで済州pressの記事を読んで非常に驚いたのだが、私達が訪れたまさにこの日、ここで第59周忌の式典が開かれていたとのこと。同報道によれば、この予備検束では344人が拘禁され、そのうち252人が軍に送致され、1950年7月16日と8月20日の2回に渡り、この地に位置していた弾薬庫で集団虐殺され暗埋葬(密葬)されたとのこと。なお、国防部の慰霊事業費から支援を受けて式典が挙行されたのは今年が初めてだったとのこと。

 【17:30】
  飛行場跡からバスに戻ってくる。ガイドさんがバスに設置されたエアコンプレッサで一人ひとり全員の靴やズボンに付いた土埃を吹き飛ばしてくれた。そういえば釜山の東莱のホテルの入口にもこれが設置されていて、登山から戻ってきた客が服についた土埃を払っていた。

 【18:23】
  レストラン到着。豚肉専門レストラン。たしか新雨成会館(カルビ専門,電話:064-747-7222)という名前のレストラン。1センチぐらいの厚さの豚肉が次々と運ばれてくる。食べ放題。「豚で満腹にさせておいて最後に牛を出す作戦か」と一瞬警戒したが、やはりここは韓国。日本みたいに一つのレストランが豚牛両方を扱うことはない。豚だったら豚しか出ない。肉は全て皮付き。皮にはところどころ紫色のマジックで何か書いた跡があった。白い皮に黒い毛が刺さったままの肉もあったので黒豚だと分かった。ガイドの趙さんの話によれば「冷凍していないから薄く切れない。焼いても泡が出ないのは冷凍していない証拠」。食後、一人ずつ全員がこの2日間の感想を発表する。
 ホテルに戻ってシャワーを浴びる。やはりお湯は出なかった。
 昨晩同様、蚊に5-6箇所刺されて夜中に起きる。昨晩空だったスプレー式殺虫剤が新しいのに交換されているのに気が付いたので部屋中に散布したところ、もう刺されなくなった。
 

2009年8月27日(木)


 【07:00】
  モーニングコール。

 【07:20】
  散歩に出かける。持参した『地球の歩き方』に、2と7が付く日には市が立つと書いてあったので、地図を見ながら北に歩き、街外れに行ってみたのだが、それらしいものが見あたらない。畑仕事を終えて自転車で帰宅しようとしている50歳前後の女性がいたので、市場はどこかと尋ねたら親切に教えてくれた。どういうわけか「橋」という単語だけが日本語だった。タマネギ・ツメキリ・タクアン・バケツと同様、ハシも韓国語の語彙に取り入れられているのかと思ったが、そうではなかった。私が日本語を話すと分かると「日本語がお上手ですね。私は韓国語が上手じゃないのよ」と韓国語で言いながら、大阪弁をまぜながら道を説明してくれた。私を韓国人と勘違いして一生懸命韓国語で説明してくれるので、自分が日本人だと言い出せないまま、お礼を言って別れてしまった。親戚を訪問している在日韓国人なのだろうか。それとも韓国人と結婚した日本人妻なのだろうか。
 大豆畑の間の舗装された狭い道をだいぶ西に歩く。西回り一週道路から北側は畑ばかりでビルがない。途中で不安になったので前を歩いていた40代男性に道を確認すると、200メートルほど先に見える建物を指さして「あれが市場だ」と教えてくれた。
 済州民俗五日場は『地球の歩き方』に掲載されている位置よりずっと西にあった。壁も仕切もなく柱と屋根だけがあるひろーい市場。朝早いので客はほとんどいない。先程道を尋ねた男性は市場の関係者だったようで、彼もほどなく市場に到着。再度お礼を言うと韓国語で「日本に住んでいたのですか」と言って去っていった。どういうわけか「日本の方ですか」とは聞かれなかった。
 市場に足を踏み入れるなり、服屋から50代の男性2人が言い争いながら出てくるのに遭遇。まるで水戸黄門のような展開。一方がよろけつつももう一方の頬を力一杯殴っている。殴るたびにパチン、パチンという身の締まった音がする。殴る側が「gaeseakki(犬の子)」と相手を罵っていたのは聞き取れた。殴られる側は殴られても決して怯まない。相手の顔を直視したまま、小声でぶつぶつ文句を言い続けている。殴る側は裸足だったが、いったん店に戻るとサンダルを履き、携帯電話を片手に出てきて、殴られた側を誘ってどこか他の場所へ行こうと早足で歩いていく。殴られた側も、よせばいいのに文句を言いながらノロノロと付いて行こうとする。殴った側は携帯電話で誰かに連絡している。応援を呼ぶつもりか。周りの人は微動だにせずじーっと注視しているだけだったが、ついに他の店のオーナーらしき人(60歳前後の男性)が「geumanhe(それくらいにしろ)」と言い出し、2人を引き離そうとし始めた。私は黄門様ではないし、喧嘩の見物に来たわけでもないので、それきりその場を離れた。
 大量の幼虫が、プラスチックの大きな赤いたらいの中で、黒い土から全身や半身を出しながら忙しそうにもがいていた。「gumbeng-i 済州産」と書いてあった。帰国後 gumbeng-i を辞書で調べたらセミの幼虫とあった。でも、形状から言うとコガネムシの幼虫。クワガタの幼虫くらいの大きさがあったが、きっとコガネムシの幼虫だろう。非常に元気が良い。良く見ると、黒い土だと思ったのは、ぜんぶ幼虫の糞。これまでこのたらいから売られていった仲間が残して行った糞だろう。仲間の糞のにおいが嫌なのか、幼虫たちは皆ほとんどパニック状態。動きが止まらない。木の皮等と一緒に売られていたので、きっと漢方薬の一種なのだろう。
 雑貨屋で、蚊取り線香と蚊取り線香燃焼器をそれぞれ1000ウォンで買う。メード・イン・マレーシア。緑色ではなくなぜか藤色。パッケージの表面に「強力で確実な殺虫力!」と書いてあった。裏面を見ると姉妹品のbakuioraora(ゴキブリ来い来い)が紹介されていた。
 家具屋で足が折り畳める四角いちゃぶ台を買う。4万ウォン。最初は4万5000ウォンという話だったので4万5000ウォン出したのだが「5000ウォンは××なので差し引いたのだ」と言ってちゃんと5000ウォンを返してくれた。そういえば、2009年3月に安養のデパートでスーツを買ったときも、頼んでもいないのに「××は当方のミスなので×万ウォンは値引きさせて頂きます」と言って勝手に値引きしてくれた。客の無知や勘違いを「これ幸い」としてぼったくったりしない。韓国の店員はモラルが高い。
 ところで、済州国際空港で入手した「済州特別自治道伝統市場」というパンフレットを見たところ、済州島の民俗五日市場開場日は下記の通りだった。

    1と6が付く日 西帰浦市大静五日市場、西帰浦市城山五日市場
    2と7が付く日 済州市民俗五日市場、西帰浦市表善五日市場
    3と8が付く日 西帰浦市中文五日市場
    4と9が付く日 西帰浦市郷土五日市場、済州市翰林民俗五日市場、
             西帰浦市古城五日市場
    5と0が付く日 済州市細花五日市場

 この日訪れた済州市民俗五日市場は、売場面積が1万8087平方メートル(五日市場の中ではダントツ)、店舗数が1004(五日市場の中ではダントツ)、開設年度は1998年11月22日(2番目に新しい)、住所は済州市道頭1洞、電話は743-5985。

 【08:30】
  五日場を出発。北回り一週道路に出たが、道に迷って集合時間に遅れるのが恐かったのでタクシーを拾う。

 【08:50】
  ホテルに帰還。メーターは2200ウォン。時間制と距離制を併用しているのか、停車後にメーターが上がって2400ウォンになった。「2200ウォンで良い」と言われたが2400ウォン払って降りた。  この日の朝の買い物では韓国と中国の差を感じた。2008年の年末に中国黒龍江省出身の人達と団体で台湾を旅行したとき、野柳地質公園で風雨に見舞われた。傘がさせないほどの暴風雨。どこからともなく複数名の地元のおばちゃん達が私達の団体の中に入ってきて使い捨てレインコートを売り始めのだが、なかなかレインコートを買おうとしない中国残留孤児がいた。「なぜ買わないのか」と聞いたら「これしかないから」と言って比較的高額のコインを見せてくれた。要するに「高額コインで支払ったが最後、お釣りが戻って来ないのではないか」と心配して体が濡れるのを我慢しているのだ。「(台湾では)そんな心配しなくていい」と言ったのだが、その中国残留孤児はなかなかレインコートを買おうとしなかった。中国本土では買い物をするときもタクシーに乗るときも常に心理的・言語的な駆け引きを駆使しないと、すぐに騙されたりぼられたりする。特に、知らない土地で顔見知りですらない人から物やサービスを買うときは要注意。品物は本物か、値段は妥当か、品物は本当に渡してもらえるのか、頼んだ物と本当に同じ物が渡してもらえるのか、お釣りは返してもらえるのか等々、買い物が始まってから終わるまで、全工程に渡り細部に至るまで気が抜けない。おかげでコミュニケーション能力は鍛えられるが神経が疲れる。

 【09:05】
  バスに乗って出発。

 三姓穴に到着。昨日までとうって変わってジメっとした蒸し暑さ。これがこの季節本来の暑さなのだろう。
 三姓穴を見学。まずはアニメを観賞。3人の男の神々がイケメンなのは大いに結構なのだが、それぞれ姓が異なっている以上、三つ子っぽく見えるのは問題だと思う。あと、3人の男の神々が韓国語(日本語字幕付き)を話しているのだから、東の方から舟でお嫁さんと馬と牛を運んできた老人が日本語を話すのはまずいだろう。

 【10:14】
  バスに戻る。

 【10:29】
  GOOD-FOOD(済州市蓮洞512-3,電話:064-746-9757,営業時間:09:00-18:00)に着く。みんなでショッピング。

 【11:05】
  バスに戻る。

 【時刻不明】
  dokkaebi道路に付く。中国人観光客が多かった。普通語を話していたが訛りからすると北京以北の人ではないだろう。

 【11:37】
  バスに戻る。

 【11:47】
  レストラン(済州neulbom,電話:742-7700,744-9000)に着く。冷麺を食べた。味は普通。今まで食べた冷麺で一番おいしかったのは、1992-3年、吉林大学に留学していたころ街でよく食べた冷麺だ。時間調節のため食後30分程度そこに留まる。大根キムチがおいしかった。今回の旅行で食べたものの中で一番おいしかった。あまりにおいしかったのでつゆを冷麺のスープに入れて飲んだ。これにコリアンダーを入れたら長春で食べた冷麺とほぼ同じだ。一方、白菜キムチは店によって味にばらつきがあった。おいしいのもあればまずいのもある。

 【13:45】
  バスに乗りレストランを出発。
ガイドの趙さんの話:「かつて済州道には専門学校が3つあった(情報系・観光系・看護系)。」

  【14:00】
 済州移住民センター(外国人労働者や外国人配偶者を支援しているセンター)に到着。雲行きが怪しい。パラパラと雨が降り出した。オフィスを見学。韓国語会話教室も見学。学習者は3-4人。講師も学習者も全て女性。学習者の中に日本人女性が1人いた。大雨が降り出した。先生が学習者に五日場に行ったことがありますかと尋ねたが、みな五日場なんか聞いたことがないという様子だった。ガラス越しにキッズルームも覗いてみた。1人の児童が勉強を教わっていた。

 【14:20】
  バスに乗って移動。センター代表の元校長先生も同行。

 【14:34】
  バスを降りて建物に入る(たしか北回り一週道路沿いにある建物だったと思う)。表には×××成形医科と書いてあった(×××は人名)。ドアのところに移住労働者suimteoと書いてあった。suimteoは辞書に載ってなかったが、帰国後ネットで調べたところshelterの意味だと分かった。

 【14:40】
  「わざわざここに移動してもらったのは皆さん全員が座れる教室が私達のセンターになかったからです」ということで、センター代表の元校長先生が説明を始める。
 センター代表の元校長先生の話:「センターのボランティアや職員には確かにクリスチャンが多いが宗派を越えて共同作業をしている。様々な方が私達の会を支えてくれている。例えばこのフロアはあるお医者さんの好意で使わせてもらっている。」
 帰国後ネット(KOSIS,国家統計ポータル,http://www.kosis.kr/)で2005年人口総調査(すなわち国勢調査)における宗教別人口を調べたところ、韓国では、内国人4704万1434人のうち、仏教が22.8%、基督教(改新教)が18.3%、基督教(天主教)が10.9%、宗教なしが46.5%だった(他に、儒教・甑山教・圓仏教・天道教・大[イ宗]教・其他もあったが構成比は僅か)。済州道の場合、内国人53万0686人のうち、仏教が32.7%、基督教(改新教)が7.2%、基督教(天主教)が10.3%、宗教なしが47.9%だった。済州道は全国と比べ、仏教徒が多くてプロテスタントが少ない。ところで、儒教を信仰している人が統計上ほとんどいないのは奇妙と言えば奇妙だが、神式で結婚式をしたり仏式で葬式をしたりする日本人も「あなたの宗教は」と問われれば、大部分が「特にありません」と答えるだろう。それと同じだ。
 外は大雨。雷も鳴っている。参加者の中には女性や家族や国際結婚が専門の研究者も多く、とても良い質問が次々に出されたが、さすがは元校長先生。それらすべてに的確・丁寧・明解・誠実に答えていた。元校長先生は日本側のことについても聞きたい様子だったが時間切れ。何だか気の毒。交流するからには、こちら側の基本情報についてもきちんと提供すべきだったのでは。話を聞いているうちに外が明るくなった。スタッフが大量の携帯用レインコートを急いで買ってきて下さったようだが、無駄になってしまった。

 【16:05】
  バスに乗る。

 【16:20】
  済州平和人権センターに到着。

 【16:30】
  「済州―大阪移住民人権関連NGO懇親会」が始まる。
 受入側が用意してくれたプログラムには「済州外国人平和人権センターの活動紹介」「日本大阪移住民センターの活動紹介」「休憩」「総合討論」と書いてあったが、このプログラム通りには進まなかった。
 一人ずつ全員が自己紹介したあと、パワーポイントで済州平和人権センターの活動について紹介してもらう。その後、しばらくの間こちら側からたくさんの質問が出たが、急にその流れを遮るようなかたちで、日本の外国人施策に関する質問が受入側から出る。せっかくの懇親会なのだから、日本側からも少しは情報を提供して欲しいということなのだろう。
 その後、受入団体側の方が「日本政府は早く在日韓国人に日本国籍を取得させてやるべきだ」というコメントを言い残すと、何か用事があったらしく、そのまま退出して行った。本国で暮らす韓国人は在日韓国・朝鮮人のことをあまり理解していない様子。
 続いて、タイ人男性が話をする。養豚場で働いていたのだが、契約通り支払われていないので明日帰国すると言っていた。「韓国人の社長は怒るとすぐに物を投げる」「韓国人の社長はいつも大声で話す。怒られているような気がする」とも言っていた。確かにタイ人は男も女も声が小さい。日本にいるタイ人もガソリンスタンドや居酒屋で「らっしゃいやせーぃ!」「ありやとざーしたーぃ!」と怒鳴られるのをとても嫌がると聞いたことがある。
 ところで、帰国後ネット(KOSIS,国家統計ポータル,http://www.kosis.kr/)で2005年現在の人口総調査(すなわち国勢調査)を調べたところ、在韓外国人は23万7517人。男女別の内訳は、男が15万8304人で、女が7万9213人。国籍別の内訳は、構成比が大きい順に、中国23%、中国(朝鮮族)16%、ベトナム7%、フィリピン7%、インドネシア6%、美国(すなわち米国)6%、タイ国4%、中国(台湾)4%...となっていた。中国(朝鮮族)と中国(台湾)を中国と分けて集計しているところが日本と違っていて興味深い。ところで、同じサイトで2005年の外国人登録人口を確認したところ、男28万3998人、女20万1479人、合計48万5477となっていた。「外国人登録はしているが職業や教育程度などあれこれ尋ねる人口総調査には協力しない」という外国人が半分程度いるらしい。
 参考までに1996年から2008年までの外国人登録人口を挙げておくと、16万7664人→20万1186人→18万2788人→20万6895人→24万4172人→26万7630人→28万7923人→43万7014人→46万9183人→48万5477人→63万2490人→76万5429人→85万4007人となっている。外国人登録人口はアジア通貨危機があった1997年の翌年に2万人減少した他は毎年増加している。特に2003年と2006年は年間15万人も急増しているし、2007年は13万人、2008年は9万人も増加している。
 ところで、外国人人口に関しては、上述の人口総調査と外国人登録人口の他に、全国居住外国人基礎実態調査というのもある。これによると2008年現在、韓国の国籍を持っていない者は76万7823人。内訳は、57%が外国人勤労者、13%が国際結婚移住者、7%が留学生、22%が其他外国人である。また、ついでに書いておくと、同調査によれば、この他に、婚姻帰化者が4万1672人、其他事由の国籍取得者が2万3839人、国際結婚家庭子女が5万8007人いるという。
 その他、やはりこれも全国居住外国人基礎実態調査(ただし2006年)の数字だが、国際結婚移住者の合計は9万0489人であり、構成比が大きい順に、中国(朝鮮族)40%、東南亜20%、中国19%、日本10%、美国(すなわち米国)2%、台湾2%...となっている。

 【時刻不明】
  屋外に出る。雨は止んでいた。徒歩で近くの食堂(耽羅maeul)に行って受入団体の皆さんと食事をする。懇談会で通訳をしてくれた女性が「韓国では教育費が高くて子供が産めない」「近年韓国政府は外国人労働者よりも外国人妻の受入を重視するようになっている」と話していた。
 帰国後、帰国後ネット(e-national indicators,http://index.go.kr/egams/index.jsp)で調べたところ、1999年から2008年までの合計出産率は、1.41→1.47→1.30→1.17→1.18→1.15→1.08→1.12→1.25→1.19となっていた。

 【19:33】
  観徳亭(済州市三徒2洞983)の前に停車したバスに乗って受入団体の皆さんと別れる。

 【20:00】
  ホテルに帰還。すぐにシャワーを浴びる。このときはちゃんと暖かいお湯が出た。時間帯やタイミングによって出たり出なかったりするようだ。大勢の客が一斉に使用するときは出ないということか。

 【20:30】
 ロビーに集合。数人で徒歩3分のところにあるバーに飲みに行く。このとき、E-Mart(旧済州ではなく新済州のE-Mart,営業時間:10:00-23:00)に買い物に行った人達もいた。
 店の中にはダーツがあって、韓国人のお客さんが興じていた。的に当たるたびに電子音がする。
 しばらくするとE-Mart買出組が帰還して合流。E-Martの安さと深夜であるにも関わらず家族連れが多かったことに驚いたという。でかいショッピングカートの中で仰向けになって爆睡する幼児を見かけたかと聞くと、見かけたとのこと。しばらく一緒に飲むが、08:30から飲んでいる我々は、E-Mart組を残して先に引き揚げる。1人1万ウォン支払った。つまみをほとんど頼まずにビールばかり飲んでいたとは言え、わりとおしゃれなバーで2時間に渡り飲んでしゃべって1万ウォンは安い。

 【23:07】
  ファミマで17茶を買う。新済州市のコンビニはほとんどがファミマ。店員は日本と同じく若者が多い。17茶は日本の十六茶より味が薄い。そういえばスターバックスのコーヒーも味が薄かった。韓国では濃いお茶や濃いコーヒーを飲む習慣がないのではないか。

 【23:20】
  窓を網戸にして蚊取り線香をつけて寝たが、また蚊にさされたので、窓もドアも閉めきって寝る。
 

2009年8月28日(金)


 【5:45】
 起床。スーツケースに荷物を積めて帰り支度。持参したバネばかりで測ると16.75キロあった。

 【06:35】
  散歩に出かける。北東に歩き三無公園へ。機関車が置いてあった。足の裏のどの部位はどの臓器と繋がっているかを説明する看板があった。「おお、これこれ」と思った。そういえば釜山の公園にも「韓国人の懸垂や握力や100メートル走や幅跳びの数値は年度ごと年齢ごと性別ごとにどう異なるか」を記した看板があった(お年寄りの爺さん婆さん別数値まで記されていた)。韓国政府は国民の筋力や健康に対して並々ならぬ関心がある様子。
 この三無公園には児童向けの遊具が見あたらない。あるのは大人向けの遊具(というかトレーニングマシーン)のみ。腰をひねる遊具、脚力を鍛える遊具、上腕を鍛える遊具、足を引っかけて柔軟体操するための棒、ベンチプレス(バーベルとベンチは鎖で繋いである)、腹筋用ベンチ(しかも傾斜付き!)等々。トレーニングマシーンの半数は50代から70代の男女が使用中だった。試しに私も腰をひねる遊具に乗ってみた。回転があまりにも滑らかで、危うく腰を捻挫するところだった。ボールベアリングが内蔵されているに違いない。韓国の運動器具、恐るべし。日本の団地の公園では老朽化した児童遊具が目立つ。団地住民も高齢化していることだし、このさい日本も韓国を見習って、児童遊具を全て取り払い、老人用トレーニングマシーンをインストールしてはどうだろう。この事業を全国展開した業者はきっと莫大な利益を上げるに違いない。
 済州観光新聞(?)のビルに「創刊××年 光復64年」と書いてあった。その近くに本屋があった。学校が近くにあるらしく早朝から開店している。昨日散歩したときに目を付けていた店だ。11万2000ウォンでマンガを25冊買う。『NARUTO』『DEATH NOTE』『ONE PIECE』『元祖浦安鉄筋家族』『名探偵コナン』『銀魂』『PLUTO』...。済州島を舞台にした『tam-na-neun-do-da』という韓国のマンガも買ってみた。扉絵からして済州島を舞台にした韓国版の『ONE PIECE』(主人公は倭寇!)かと期待して買ったのだが、ちょっと違った。1640年に金髪イケメンの船乗りが日本の陶磁器を求めて英国を出発するが、遭難して済州島に漂着し、若い海女に助けられて恋に落ちるというマンガだった。
 マンガで重たくなったリュックを背負い、乾川に沿ってホテルまで走る。川底を見下ろすと相変わらず岩と草と水たまりだけ。しかし、昨日の大雨で一時的に水位が上昇した様子。しかも、かなりの高さまで。川底から2メートルぐらいの高さの所、側面の岩の透き間から生えている雑草にかなりしっかりとした「寝ぐせ」が着いている。済州島の降雨量は大阪と同じくらい。でも、降ったと思ったらすぐに地中に染みこんでしまい水が地表に留まらない。

 【08:23】
  ホテルに帰還。

 【08:30】
  ホテルを出発。

 【08:35】
  なぜかファミマでバスが停車。みんなで朝食を買う。あとで分かったのだが、これは何かの手違いでモーニングコールが鳴らずに朝食抜きになった人がいるということを知ったガイドさんが気を利かせてくれたもの。
 レジで働いているのが友人なのだろう。制服を着た男子高校生がレジの近くに立っていた。「学校は何時からだ」と聞くと「9時から」とのこと。ガイドの趙さんに「早く行け」と怒られていた。大学じゃあるまいし、9時にならないと始まらない高校なんて本当にあるのだろうか。

 【08:46】
  ファミマを出発。
 ガイドの趙さんの話:「3年前から中国人観光客が日本人観光客を上回った。中国人観光客は使う額が半端じゃない。店にある朝鮮人参をすべて買い占めたりする。済州島のミカンは70年代に和歌山から移植されたもの。本土では火葬が多い。日本とは違い骨が粉になるまで焼いてしまう。済州島では今も土葬が多い。漢羅山に頭を向けて埋葬する。昔から韓国人には5つの幸福があると言われている。良い親に恵まれること、良い子に恵まれること、来客をもてなす最低限の金に恵まれること、良い墓に恵まれること、良い歯に恵まれること。私の子も親戚の子も虫歯が一本もない。」
 そういえば、2009年3月に安養で1カ月滞在したとき、口が臭い人と遭遇したのは1度だけだった(日本では口が臭い人に1日に2度3度遭遇することもある)。みんな食事のときは水を飲んで口の中をきれいにするし、食事をするたびに歯を磨く人もいた。スーパーで見かける歯ブラシは、どれもこれもまるでスポーツシューズのようにカラフルで手が込んだ複雑な構造をしており、歯磨きに対する韓国人の意気込みを感じさせる。韓国人が歯を大切にするのは米国の影響かとも思っていたが、ガイドの趙さんが言うように、これは昔からの習慣なのかも知れない。
 ガイドの趙さんの話:「済州島の方言ではgがjに置き換わる。例えばgimchi(キムチ)はjimchiと言う。hはsに置き換わる。例えばheong(兄)はseongと言う。」
 そういえば沖縄方言でもキがチに置き換わる。

 【09:37】
 西帰浦に着く。正房瀑布を見学。近くに徐福にちなんだ神殿か何かがあった様子。徐福は日本に行く途中に済州島にも立ち寄ったのか。
 ガイドの趙さんのお話:「済州島は石と風と女が多い。なぜ女が多いのかについては諸説ある。女が働き者だから女が多いように錯覚するだけという説もある。」
 これについて、帰国後ネット(KOSIS,国家統計ポータル,http://www.kosis.kr/)で調べたところ、70歳以上の人(すなわち1935年以前に生まれた人)についてはまさにその通り。70-74歳、75-79歳、80歳以上の性比(女性100人当たりの男性の人数)は、済州道においてはそれぞれ、37.9、27.7、19.2であり、他のどの道よりも12-15ポイント以上低い。気になったので、さらに1966年、1975年、1985年、1995年、2005年時点における済州道の人口統計を調べたところ、1925-1929年およびそれ以前に出生した世代の人々については、どの時代の統計を見ても、確かに女性の割合が不自然に高かった。60歳以上のお年寄りを除外しても性比は49.8-70.3。したがって「済州島では女が男に比べ相当長生きするから男女比のバランスが崩れる」ということではなさそうだ。1920年代およびそれ以前に生まれた男性に一体何が起こったのか。彼らは一体どこに消えたのか。
 ところで、1955年の人口統計を見ていて一つ気が付いたことがある。20-24歳の性比は247.4、25-29歳の性比は158.2と非常に高いのだ。しかも、その5年後の人口統計では、25-29歳の性比は93.4、30-34歳の性比は71.8にまで急降下していた。この時代、大勢の若い男たち(兵士たち?)が一時的に済州島に滞在していたのだろうか。

 【10:20】
  正房瀑布を出発。

 【11:00】
  城邑民俗maeul(西帰浦市表善面城邑里)に着く。今も480世帯1500人が住む。
 民族村ガイドの許さんの話:「済州島ではsaram(人)をbariと言う。男は王bari、女は冷bariと言う。済州島の男は一夫多妻制の下で王様のような暮らしをする。」
 そういえば、京大文学部の歴史人口学の授業で、落合恵美子先生に頼まれて、1800年頃の西帰浦市安徳面徳修里の家族構造について書かれた論文を翻訳したことがある。前近代においては儒教が理想とする家族とはかけ離れた変則的な家族が多かったという主旨の論文だ(筆者自身も認める通り、済州島で朝鮮全体を代表させることには無理があるのだが)。以下に引用しておこう。[ ]は訳者である私が補った部分。

 「表7に示されているように、徳修里では、全世帯の[約]10パーセントが第二夫人か第二夫人の子、あるいはその両方を含んでいた。[そして]これらの事例をより子細に見ていくと、こうした割合は経済的階層ごとに劇的に異なっている。裕福な世帯[=大戸]の場合、第二夫人/[第二夫人の]子を有しているのは八戸のうち三戸であるのに対し、比較的裕福な世帯[=中戸]の場合は36戸のうち六戸(17パーセント)である。貧しい世帯[=小戸]の場合、その割合は10パーセントであり、その割合はさらに高い両方の階層[=大戸・中戸]よりもかなり低くなっている。[なお]下の二つの階層[=残戸・独戸]では、第二夫人を有している夫はいなかった。したがって、経済的地位が高くなればなるほど、第二夫人を有する見込みが大きくなることは明白である。[ただし参考までに付け加えておくと、里の中に]二人以上の第二夫人を有する者は一人もいなかった。」(出典: Paik Sungjong`Strategies for survival: variability of family structure in Teoksu Village on Cheju Island, Korea from 1804 to 1809'in A. Fauve-Chamoux and E. Ochiai ed.(1998)``House and the stem family in EurAsian perspective''Proceedings of the C18 Session Twelfth International Economic History Congress August 1998)

 民俗村を案内してくれたガイドの許さんはとても面白い方だった。名刺をもらったので下記に書いておこう。なお下記の外換銀行というのは韓国外換銀行のことだろう。

    イェチプ
    馬の骨、五味子、ささたけ、冬虫夏草
    許成子
    001-82-64-787-5767
    西帰浦市 表善面 城邑民俗村内イコツチプ
    口座番号 外換銀行 611-017057-289
    tel: 0034-800-400-878
    fax: 0034-800-400-879

 【12:17】
  バスに戻る。

 【12:40】
  haeoreum食堂(西帰浦市城山邑城南里143-1,電話:064-782-2256)に着く。透明な手袋に水を入れたものが天井にぶら下がっていた。これはハエよけであるとのこと。チヂミ、イカフェ、鮑粥を食べる。イカフェは取れたての出来たてだった。エゴマの葉が入っていた。3日くらいおいてから食べた方がきっとおいしいに違いない。鮑粥はウグイス色をしていた。これは鮑の肝の色だろう。

 【13:20】
  食堂を出る。海女が上がってきて洗い物をしたりするピロティがあった。何人かの若い男性がダイビングしていた。徒歩で城山日出峰へ。

 【13:35】
  城山日出峰を登り始める。中国人が多い。普通語を話してはいるがやはり南方人。日本人も多かった。

 【14:00】
  頂上に着く。風はあるが日陰がないし湿度が高いのでとにかく暑い。

 【14:27】
  バスで城山日出峰を出発。

 【14:54】
  拒文oreum溶岩洞窟系に着く。洞窟に入ると一気に涼しくなる。照明はすべてLEDの白色ライト。水たまりに足を踏み入れないよう下を見ながら早足で歩いたので、洞窟の全景を観賞する余裕がなかった。

 【15:50】
  洞窟から出て来る。

 【16:01】
  拒文oreum溶岩洞窟系を出発。今日は山に登ったり地下に潜ったり、本当に良く歩いた。

 【17:00?】
  空港に到着。
 荷物を預ける。21キロあったが何も言われなかった。空港1階の郵便局に行って、それまで切手が手に入らずに出せなかった絵ハガキをようやく出す。
 フィルムにX線を当てられるのが嫌だったので「手でして下さい」とお願いしたら、聞き入れてくれた。

 【18:30】
  タラップを昇って機内に入る。
 行きは満席だったのに、帰りのKE733は搭乗率が30%ぐらいだった。離陸前に左舷最後尾窓側に座席を移動する。離陸後、予想した通り機体が大きく左に旋回。期待した通り漢羅山が良く見えた。夕日に頂上の岩肌が映えていた。写真を何枚も撮った。
 最近いつも持ち歩いている愛読書『通訳メソッドを応用したジャドウイングで学ぶ韓国語単文会話500』を開いて韓国語の勉強をしていると女性客室乗務と一緒に通りかかった男性客室乗務員が「写真を撮っているんだな」と言っているのが聞こえた。やがて「韓国語勉強しますか。私、韓国語簡単。日本語難しい」と日本語で話しかけてきた。私だけ他の人達からずーっと離れて最後尾に座ったのできっと怪しまれたのだろう。「念のためフレンドリーに話しかけてみて怪しい人物ではないことを確認したかった」というところか。9.11以降、体格の良い男性客室乗務員が増えた。
 まもなく着地だというときに眠ってしまった。気が付くと飛行機は夜の滑走路を走っていた。今回の旅でうたた寝をしたのはこれが最初で最後。

 【20:01】
 関空に着陸。
 特に解散式もなく、ばらばらと解散。

 

まとめ

 

 済州島は「いつか必ず行きたい」と思っていたので今回のツアーに参加できて本当に良かった。済州島は山と牧草地とミカン畑しかないと思っていたが、森や畑が意外と多かった。海水パンツを用意したのだが、泳ぐ機会がなくて残念だった。食べたり飲んだりするたびに違う人と座ったのでいろいろな話が聞けて良かった。毎日早起きして散歩したおかげでいろいろなものを見ることができた。やはり海外に出たときは散歩をするに限る。李氏朝鮮が成立する直前、倭寇が暴れていた時代、済州島にどんな歴史があったのか。きっと済州島にも倭寇の拠点があって、李成桂もかなり手を焼いたのではないか。帰国後、そんなことを考えながら高校生が使う日本史の教科書や資料集をめくってみたのだが、済州島を倭寇の侵略地に含めるものもあれば含めないものもあった。いずれにせよ済州島が倭寇の根拠地でなかったことだけは確からしい。残念。

mono1.jpg

mono2.jpg

mono3.jpg