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国際人権ひろば No.77(2008年01月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

川と生きる人びと ~メコン川から川辺川を見つめる

寺嶋 悠 (てらしま ゆう) FNA(アジア開発銀行福岡NGOフォーラム)、子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会

「開発」される河川


 メコン川は、チベット高原から流れ出し、中国雲南省、ラオス、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ベトナム、カンボジアと6カ国を流れて南シナ海へ注ぐ。流域面積約80万k㎡、長さ4200kmを誇るアジアの大河である。
 メコン川流域は、インドシナ紛争やカンボジア内戦などの影響から、国際援助による大型開発から長く免れていた。90年代に入り、東西冷戦の終結やカンボジア和平成立によって政情が安定すると、アジア開発銀行や世界銀行、各国政府など国際社会がこぞって開発に乗り出した。中でも大型ダムは、経済発展のための電力供給や売電による外貨獲得、治水や灌漑を目的として、メコン川本支流に多く計画された。
 タイ東北部にあるパクムンダムは、そのようなメコン川開発の一プロジェクトとして、1994年に支流のムン川に建設されたダムである。完成後、漁業被害の甚大さからタイ社会を揺るがす住民運動に発展し、流域の生活と生態系回復のためのダム水門開放が決まったダムでもある。
 河川は開発すべきものであるというメコン川開発の思想は、インドシナ半島に限らない。
 昭和30年代の「全国総合開発計画」(全総)に始まり、この50年の間、日本でも急速に大規模な河川開発が進み、公共事業は地方都市の主要産業となった。全国各地でコンクリート建造物が川の流れを遮断し、人びとの暮らしが川や魚から遠のいて久しい。
 熊本県南部の川辺川ダム計画は、立案から40年余りを経た現在でも未解決のままの、典型的な日本のダム問題である。ダム建設に固執する国と、中止を求める住民との間で長い対立が続いている。
 パクムンダムと川辺川ダム。遠く離れながらも、当事者同士の交流を続ける二つのダムから、川と人との関わりを考える。

「母なる川」がもたらす恵み


 メコン川流域の住民は、タンパク源の6割を魚に依存していると言われる。世界第3の生物多様性を持つメコン川だが、支流のムン川には、乾季と雨季で変動する水位差と、複雑な地形に合わせ遡上と下降とを繰り返す回遊魚を含め、130種もの魚が棲息する。
 川がもたらすのは魚だけではない。雨季に上流から運ばれた肥沃な砂地は、乾季には氾濫原や河岸農地となり、野菜や野草、薬草、魚の餌や漁具の材料、薪を供給する。河岸の天然林では、キノコやタケノコ、舟の目止めに用いる天然樹脂など、非木材林産物を生み出す。同時に川は、魚の生態やそれに合わせて発展した漁具、漁場の精密な伝統的な知恵の源であり、信仰の対象でもあった。
 住民たちは、ダム建設以前の、水が自然に流れていた頃のムン川を「何でもそろうスーパーマーケットか、いつでもお金を引き出せる銀行のようなものだった」と語る。「子どもが学校に上がる時など、お金が必要になると、昔は川に行きさえすれば良かった。ムン川で魚を捕って市場で売れば、必要なお金を手に入れることができたのです」。
 漁師以外にも、漁具を作る職人、魚の運搬業者や仲買人、売り物にならない小魚の加工食品や魚以外の川や湿地林の生産物などを売る村びとなど、ムン川は多くの人びとに必要なだけの現金収入の機会をもたらしてきた。農業に不向きな硬い岩盤が広がるムン川河口部に、古くからいくつもの集落が成立したのも、人びとは川魚を周辺の農村部で米と物々交換し、主食を手に入れることができたためである。川がもたらす豊かな天然資源を背景に、流域は長く近代的な貨幣経済を逃れ、わずかな現金のみで事足りる地域経済がごく最近まで残っていた。
 ダムによって、ムン川の暮らしは一変した。川の河口部に作られたダムは、回遊魚の遡上や自然な水位変動を妨げ、川と人とのつながりを分断した。川の回復と生活再生を求めるパクムンの住民運動に押され、2002年、政府は年4ヶ月の部分的水門開放を約束した。
 しかし問題も残る。住民の求める水門の永久開放は実現していないばかりか、現在の軍事政権下では、毎年の水門開放すらも不確定という厳しい現状である。漁業や、漁業に関連する生計手段を失った若者は都市部へ出稼ぎするほかなく、地域経済の崩壊と市場経済化による貧困化が、急速にこの地域を襲っている。

パクムンを訪ねた川辺川の漁民


 熊本県南部を流れる球磨川は、九州山地に源を発し、球磨盆地、人吉を経て不知火海にそそぐ、九州で3番目に長い河川である。清冽な流れは、30センチ以上に成長する「尺鮎」と呼ばれる大型の鮎を育て、清流が盆地で育てた米が球磨焼酎を生んだ。
 かつてここでも、人びとの生活は川と共にあった。木材や薪炭、人を運ぶ舟が川を行き交い、上流から下流まで多くの漁師が、半年足らずの漁期に一年分の収入を稼いでいたと言う。ところが、本流にダムが作られた昭和30年代以降、球磨川と漁師の暮らしは変わって行った。濁水が鮎の好む川底の苔を泥で覆い、堰を越えられない鮎のため稚魚の放流が必要になった。本流で取れる鮎は段々と小さく、少なくなったが、ダムを持たない支流の川辺川の清流が、辛うじて球磨川の恵みを守った。
 川辺川は、球磨川最大の支流である。この川辺川の中流に、1966年に計画されたのが川辺川ダム計画である。農業用利水や発電事業の撤退、地元からの漁業補償受入拒否、その後の漁業権強制収用の失敗により、表面上、現在ダム計画は存在していない。しかし、国はダムに固執し、現在策定中の新しい河川整備基本方針等の中に治水専用ダム計画を盛り込もうと躍起になっている。流域での瀬戸際の攻防は、まだ終わりそうにない。
 川辺川では、NGO「メコン・ウォッチ」の協力を得て、数年前からパクムンダム影響住民との交流を続けている。時には、漁業権の強制収用に揺れる川辺川からパクムンの抗議村へ。またある時は、バンコク首相府前で座り込みを続けるパクムン住民から川辺川ダム反対集会へと、応援メッセージが届けられた。
 今では数少なくなった鮎の専業漁師である吉村勝徳さん(60)は、川辺川・球磨川の瀬音を子守唄に、魚を捕る父や祖父の背を見て育った。「清流球磨川川辺川を守る漁民有志の会」代表でもある吉村さんは、2003年末、念願のパクムンダム訪問を果たした。
 「ダムはどこでも同じ」。パクムンの住民から交流の印にともらった網を手に、吉村さんはムン川で生きる漁民たちとの交流を振り返る。「日本国内と同じように、アジアでも国は不要なダムを住民に押し付け、生活を破壊していることを目の当たりにした。捕れる魚は違っても、漁をする者として気持ちは同じ」。

川と共に在り続ける


 二つのダム問題に共通するのは、漁業や天然資源、生活文化をめぐる問題だけではない。
 住民参加の欠如、情報の非公開、建設費への税金や財政投融資の投入政治家や企業の汚職、住民移転や移転先での生活再建の難しさ、地域住民間の対立と分断、時にダム事業者により作為的に作られる「賛成派住民」、自発的発展の阻害、少数派のダム反対派首長、地方の過疎化と高齢化...。さらにタイの場合、時に生命を脅かしかねない人権侵害や、軍事政権による緊張した政情などの事情も加わる。
 タイは今、アジア地域でのODA拠出国へと向かいつつある。住民の反対が強く、国内では建設が難しいダムや原発が、タイの急激な経済発展を追い風に、開発援助や民間投資の形で周辺国へ「輸出」されようとしている。日本や欧米がタイで行ってきたことを、今度はタイが開発側となりラオスやビルマで行おうとしている縮図だが、残念ながらタイ国内での関心は低い。私たちが日本国内と海外のダム問題を同時に見ていくことは、そのままタイでの経験へも生かされていくはずである。
 山から流れ出る流れは、川となり海へと注ぐ。川辺川の清流は海を渡り、メコン川やムン川へとつながる。パクムンダムの人びとによる、失われた川と暮らしを取り戻す運動は、川辺川にとっては、これから失われかねないものを守る運動へとつながっている。
パクムンと川辺川。その根底に見出すのは、これからも川と共に在り続けたいという、住民の願いであり、自らの意思である。