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国際人権ひろば No.77(2008年01月発行号)

人権の潮流

国際開発協力の新たな潮流 - 人権に基づく開発アプローチ

川村 暁雄 (かわむら あきお) ヒューライツ大阪企画運営委員

 「国際協力団体や国際機関の中で大きな変化が起こりつつある。その背景には「人権を開発協力の中心に据える」という考え方の広がりがある。ユニセフの年次報告書「世界子供白書2007」を見てみよう。154頁の中に権利と平等という言葉は合計394カ所も登場している(2006年度版では計291カ所)。この変化は、いったい何を意味するのだろうか。

人権に基づく開発


 「人権を開発協力の中心に据える」という動きは、人権(もしくは権利)に基づく開発アプローチ(Human Rights-Based Approach to Development or Rights-Based Approach: 以下RBAと略)と呼ばれている。これは、90年代のはじめから提唱され、90年代の後半より国連機関や、先進工業国の援助機関、そして国際的なNGOにより採用されてきた。
 国連の開発機関の中ではユニセフがもっとも積極的にこの考え方を採用している。1996年には、子ども権利条約と女性差別撤廃条約をユニセフの活動全体を導く指針とすることを決めた。1990年代後半から進められた国連改革の中では、人権の位置づけが高まり、現在、国連諸機関が共同で作成する国別の援助計画は、RBAに基づいた分析や目標設定を行うことになっている。
 同様に、いくつかの国の国際協力機関は人権に基づく取り組みを本格化させている。ノルウェー、スウェーデンなどのように外交政策全体を人権実現という目標の下に置こうとしている北欧諸国まで存在している。オックスファム、アクションエイド、セーブザチルドレン、プラン・インターナショナルなどの主要な開発協力NGOは人権を軸に活動の再構築を進めている。
 では、具体的にRBAは何をさすのか。組織によって具体的に何をするのかはばらつきがあるが、基本的な考え方はおおむね共通している。
 第一は、これまでは裨益者、支援対象者とみていた働きかけの対象を「権利を持つ主体」としてみることである。人権を要求できる主体としてみることにより、問題の捉え方がかわる。解決すべきなのは「何かが足りないこと」がではなく、「当たり前のものが奪われている」というものになっていく。
 第二は、権利の所有者(rights-holder)と履行義務の所持者(duty-bearer)が誰かを考えるということにある。人権は、本来、当たり前に保障されなくてはならない。ならば、それを保障すべき存在がどこかにあるはずである。それは誰なのかを考えていくことにより、本来あるべき社会関係の姿をイメージでき、それに到達するための協力は何なのかを考えることができるようになる。
 なお、RBAにおいては、条約などにより保証されている「人権基準」だけではなく、人権基準から派生する「人権の原則」にも関心が払われている点が特徴的である。ここで人権基準とは「水への権利」「居住の権利」「言論の自由」など、個別の条約により規定されている具体的な基準をさす。人権の原則とは、こうした人権の捉え方(相互依存性、不可譲性など)や、人権の前提となっている考え方(非差別、平等、法の支配、参加、説明責任など)をさす。「人権の原則」を持ち込むことにより、政府と人々との関係のあり方、制度も含めて人権の枠組みで考えることができ、社会開発に人権概念を幅広く適用できるようになった。
 例えばある村で女子の就学率が男子に比べて低かったとしよう。教育を受けることができていない、という事実だけに注目するならば、援助者は学校の代わりに識字学級を開くという形で支援すればよいかもしれない。だが、女子を「権利の所有者」とみるならば、その状況は「教育を受ける権利が奪われている」ことによって生まれる問題となる。「権利が奪われている」というふうに考えるということは、まず「教育を受けられるということが当たり前に行われなければならない」と考えることである。だから、解決策は、外からやってきた第三者が代わりに教育を提供したらすむという話にはとどまらなくなる。
 権利であるということは、当たり前であるだけではない。誰かがそれを充足する義務を持つということでもある。ではそれは誰か?基礎教育を保障するのは、最終的には政府だろう。だが、それ以前にも様々なレベルでそれを保障しなくてはならない責任者がいる。教育を受けさせる義務を持つ親、地方自治体もそうかもしれない。法的な義務はないかもしれないが、地域の人々にも道義的な義務はあるだろう。
 では、教育を提供する義務をなぜ実現できていないのだろうか?そもそも「権利=当たり前に要求できるもの」ととらえられていないため、それを求めることができていないのかもしれない。教育予算への配分が少ないことも問題かもしれない。また特定の社会グループ(マイノリティや非差別カースト)において状況が特に深刻なら、社会的差別の問題とも関わる。解決策もこうした問題の認識に基づき変わってくる。このようにRBAに基づく分析により「識字学校を運営する」ということを超えて、はるかに広範な支援の課題が見えてくるようになる。
人権の枠組みを開発協力に導入することにより、「何が足りないか」ではなく「人々はなぜ自分たちの権利を実現できていないのか、それはなぜなのか」「社会(政府)は何が提供できていないのか、それはなぜなのか」という課題が中心に据えられるようになった。人々と社会(政府)の関係から生まれる問題を取り上げ、そこに働きかけるという視点が打ち出されてきたのである。

RBAは新しいのか?


 こうした説明を聞いて「あれ、どこかで聞いたことがある」と思う人も少なくないだろう。実は、RBAで用いられる考え方は、部落解放運動などの差別を受けてきた当事者が自分たちの尊厳をもとめて立ち上がるときに使った考え方とよく似ている。当事者たちは、差別により奪われてきた教育の機会や就職の場、居住の場を求めて運動を進めてきた。教育や居住環境などは、差別という人権侵害の結果奪われたものと考えると、それはもはや「不運」ではなくなる。そして政府はそれを解決するための義務を持つ存在ということにもなる。
 こうした共通点があるのは不思議ではない。人権が当たり前に守られるべきものだ、という立場に立てば、自然とこうした考え方にたどりつくからだ。現在、冷戦が終わった世界では、人権は国をこえた共通基準としての地位を高めつつある。ほとんどの国で、憲法や国内法により人権保障が規定されてもいる。世界中で、同じような動きが行われるようになってきたのも当然であろう。
実際にRBAという言葉を使わず、同じような枠組みで社会改革を進めようとしている団体も少なくない。たとえば、インドネシアのジョグジャカルタの地域開発団体アイデア(IDEA: Institute for Development and Economic Analysis)では、地域住民に働きかけ、共同体の問題を整理し、それを誰が実現する責務を担っているのか分析して政府に働きかける活動を行っているが、RBAという言葉はいっさい使わない。「国際開発協力団体がそういう呼び方をしているのは知っているが、私たちは憲法に基づいて当たり前の活動をしているだけ」とスタッフのバスジール氏はさめた口調でいう。

新たな視座


 だが、RBAは単に当たり前のことをやり始めたというだけのことではどうもない。RBAにより、第一に、これまで人権を語らなかった人たちが人権について語り始めた。第二に、今まであまり語られなかった人権も語られるようになってきた。第三に、人権実現ができない政府の力量の強化についても論じられるようになってきた。
 これまでは、人権の実現を求めて生活改善のために戦うのは主として当事者団体やその支援者が主だった。当然、特定の集団に焦点を当てた活動になる。これは、教育/医療などの社会権も含めた人権が実際にどのように奪われているのか理解し、解決するためにきわめて重要である。差別(人権侵害)は複合的・総合的な形をとるからである。
 ただ、人権という言葉は、すべての人に保障されるところに意味がある。だから、権利ごとに問題を考えていくことも重要になる。例えば基礎教育を受ける権利は、すべての人のものでなくてはならない。特定の人たちの状況に端を発した政策が広がっていったときに初めて社会全体で人権が守られることになる(部落解放運動を発端として小・中学校の教科書がすべて無償になったように)。当事者の動きだけではそれは不十分になりがちだ。
 だが、RBAの広がりにより、第三者である開発協力関係者が人権を語れば、社会全体の課題が議論されやすくなる。例えば、ユニセフはエクアドル政府に働きかけ、予算を教育、保健医療など子供の権利の実現の視点から分析/共有するための支援を行っている。この結果、予算の配分を考える際に、どういう人々が教育を受ける権利を奪われているのかなどを客観的に示しながら議論することが可能となっている。
 これまであまり語られていなかった居住の権利、水への権利、保健医療への権利などが現場に即した形で語られるようになってきたのも一つの変化である。さらに、開発協力機関が関わることにより、運動団体だけでは困難な政府などの「権利実現義務の所持者」への協力や支援ができるというのも、RBAの大きな特徴であろう。
 RBAは社会と一人一人の関係を人権の枠組みでとらえ直し、何が現状で欠けているのかを分析し、それを変えていく視点を提供する。これは、開発協力の分野に限られない意味を持ちうる。人権は、人間の尊厳を守るために不可欠な条件として求められ、実現されてきたものだ。だが、人権概念が輸入された場合には、実際にそれを守る仕組みは作られにくい。いわゆる発展途上国だけのことではない。日本も同じなのである。RBAの試みは、日本社会のありようを考える上でも、重要な視角を提供しうるのではないだろうか。