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人種主義、人種差別、外国人排斥およびあらゆる形態の差別 添付文書2

特別報告者が各国政府に転送した訴えへの回答

C.ロシア連邦

1.2002年8月28日付の通報

人種主義、人種差別および外国人排斥の全体的表れ方

41.報告によれば、ロシア連邦では民族的マイノリティや外国人に対する暴力が勢いを増しつつある。全体的には、人種主義的攻撃の被害を受けているのはアフリカ系、アジア系、中央アジア系、コーカサス系(チェチェン人を含む)の人々であり、難民や庇護申請者である。法執行官は、攻撃が人種主義的動機にもとづくものであるという証拠があっても人種主義的攻撃として記録するのに消極的であり、人種主義的動機にもとづく暴力がいかに深刻な意味を持っているかわかっていないと主張されている。警官その他の法執行官自身が人種的・民族的マイノリティにいやがらせや脅迫を行なっているという非難も、珍しくない。

42.上記のような取扱いを実証する具体的な例としては、以下のようなものがある。
  • 報告によれば、エチオピア人難民であるアデフェール・デシューとその妻サラがモスクワで鎖を持った20歳の少年に殴られたとき(2001年2月)、診断書には2人の傷は「転んだ」ことによるものであると記載され、警察は加害者を未成年者として記録した。

  • 2001年10月、鉄の棒をふりかざした約300人の若者の集団が、民族的マイノリティが勤めるモスクワの商店を襲い、アルメニア人、インド人およびタジク人各1名を死に至らしめたとき、警察は当初、加害者はサッカーの「フーリガン」であると発表した。シベリアのティウメン市では昨年、あるシナゴーグに連続7回の攻撃があったことが「若者のフーリガン的行動」と位置づけられた。
国の機関による人種主義の煽動、人種主義的いやがらせ、人種に関連した拷問および虐待

43.加えて、ロシアの諸地域の公的人物による人種主義的発言に対し、公的機関が対応をとっていないという訴えもある。また連邦当局は、市・地域当局が移動の自由に関する連邦法規を無視し、民族的・人種的マイノリティに対して差別的な対応をするのを放置しているとも主張されている。報告によれば、人種的・民族的マイノリティの構成員は人口比に照らして不相応にしばしば路上での身分確認の対象にされており、その過程でゆすられるのは当たり前で、拘禁、拷問、虐待の対象にもされかねない。

44.以下のような事件が報告されている。
  • 2002年4月19日、モスクワ市・モスクワ地区組織犯罪対策隊(RUBOP)の隊員と目される者らが、複数のタジク人女性移住者に対する拷問、虐待、恐喝、証拠捏造に関与した。それとともに、人種主義的な侮辱、タジク人はイスラム原理主義の闘士であり麻薬ディーラーであるというステロタイプ的な発言も行なわれたとされる。当局は、被害者らが正式な告発をしようとするのを妨害したと非難されている。

  • 訴えによれば、クラスノダル市当局は、クラスノダル地域のメスケティアン系トルコ人住民およそ1万3,000人に対して在留許可を与えず、当該住民らを「無国籍」状態に追いやり、合法的な就労や土地の所有を不可能にした。2002年4月1日、クラスノダル市当局は、準軍事組織の隊員を職員として退去強制センターを設置し、「不法移民」の嫌疑をかけられた者を退去強制させると発表した。
2.2002年8月20日付のロシア連邦政府の回答

45.2001年10月30日、ツァリチョーノ地下鉄駅の近くで3人を死亡に至らしめた騒擾行為および治安紊乱については、ロシア連邦刑法第105条(殺人)、第111条(身体的不可侵性に対する深刻な意図的攻撃)、第212条(騒擾行為)および第213条(治安紊乱)にもとづいて刑事手続が進められている。10人が起訴された。捜査は終了しており、モスクワ市裁判所は2002年7月16日に審理を開始した。

46.2001年10月28日、刑法第213条第2項(a)の罪名にしたがい、チュメニのユダヤ・アビブ文化協会所有の建物(建設中)の窓ガラスが損壊された事件について、被疑者不詳のまま刑事手続が開始された。2002年2月10日、当該犯罪の実行犯を特定することが不可能であったため、手続は打ち切られた。2002年9月19日、捜査機関による事件終結決定はチュメニ検察官事務所によって覆され、追加情報が求められた。

47.2001年6月、アビブ文化協会所有の建物に対して同様の行為が繰り返された。2001年7月2日、内務省チュメニ市事務所の捜査機関は、行為の深刻度が充分ではないとして刑事手続を開始しないことを決定した。2002年9月23日、ロシア連邦刑法第213条(治安紊乱)に掲げられた罪名にしたがって手続を開始しないとした決定は、検察官によって覆された。

48.これらの犯罪が民族的または人種的憎悪を動機とするものかどうかについては、結論を導くに足る充分な証拠が存在しない。

49.モスクワ市検察官事務所は、組織犯罪対策を任務とするモスクワ市・モスクワ地域民兵らがタジク人移住者に対する拷問、恐喝および証拠捏造行為に参加したという報告について、捜査することを決定した。現在のところ、捜査は終了していない。これは、民兵らが非難されるべき行為を行なったとされる場所や、被害者が法執行機関に提出した可能性がある異議申立てに関して、通報のなかに具体的な情報が存在しないためである。モスクワ地域検察官事務所によれば、モスクワ地域内務総局の職員らは、2002年4月19日にはタジク人市民に対して何らの措置もとっていない。

50.2人のエチオピア難民、アデフェール・デシュー氏およびその妻サラが鎖を持った若者らに攻撃されたという報告については、その確認を試みたところ、以下のような結果が出た。
エチオピア大使館から得た情報によれば、攻撃が行なわれた場所はモスクワ地域のポドリスク地区である。2001年および2002年初頭の記録を検査したところ、身元不明の者による攻撃について当該人物らが告発を行なった事実は記載されていない。デシュー夫妻が治療のために訪れた可能性があるモスクワ地域の全病院に対し、現在照会が進められている。これらの予備捜査の結果も確認されることになろう。

過去7年のあいだ、ロシア連邦検事総長局はクラスノダル地域のメスケティアン系トルコ人の基本的権利が守られているかという点について、繰り返し調査を行なってきている。

ロシア連邦の同地域へのメスケティアン系トルコ人の定住問題は、1989年にウズベキスタンで発生した民族騒乱の後に始まったものである。

ウズベク・ソビエト社会主義共和国の定住地を離れることを余儀なくされたトルコ人がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(RSFSR)の諸地域に居住するさいの条件を定めた1989年6月26日付のソビエト社会主義連邦共和国(USSR)閣僚会議令第503号にしたがい、かつこれらの人々に住宅および正常な生活条件を保障する可能性が存在していることに鑑み、このカテゴリーに属するソビエト市民に対しては、チョルノジョーム土地区を除くRSFSRの諸地域(モスクワ地域を含む)ならびにベルゴロド、ヴォロネジおよびクルスクの各地域で定住場所が割り当てられた。

クラスノダル地域は指定定住地域のひとつではなく、必要なインフラストラクチャーも整っていなかったものの、1989年と1990年、ウズベクSSRのフェルガナおよびタシケント地域で大虐殺が発生した後、約1万5,000人のメスケティアン系トルコ人が自発的にクラスノダル地域に移動した(アビニスクおよびクリムスク地区に移動した1万人を含む)。彼らが目指したのは、そもそもの出身地であるグルジアのアクハルツシク地域に落ち着くことであった。

ロシア連邦市民が自由に移動し、かつ国境内において自由に滞在場所または居住地を定める権利に関するロシア連邦法第23条第3項にしたがい、「居住地」とは、いずれかの者が、所有者として、契約もしくは賃貸によって、またはロシア法に定められた他のいずれかの理由によって、恒久的にまたはほとんどの時間居住する家屋、アパートその他の住居を意味する。

メスケティアン系トルコ人の大多数は、住居の取得に関わる証書を登録していない。さらに、ほとんどの場合、住居の取得は契約書によるものではない。

上述の法第6条で求められている、住居を合法的に取得したことの証明を提出することができないため、所有者は自ら選んだ居住地を登録することができない。

メスケティアン系トルコ人は合法的な永住許可証(居住許可)を有していないことが多いため、ロシア市民権に関する連邦法のもとでロシア連邦市民として認められる権利を持たない。現在クラスノダル地域にいる1万5,000人のメスケティアン系トルコ人のうち、約1万2,000人は無国籍者である。

クラスノダル地域に大量に居住するメスケティアン系トルコ人にロシア国籍を認めるかどうかは、上述の法を厳格に適用して、個別に判断されなければならない。そのため、クラスノダル地域裁判所から得た情報によると、アビニスク、アナパ、ベロレチェンスクおよびクリムスクの各地区裁判所は、ロシア市民権に関する連邦法の施行前にメスケティアン系トルコ人のロシア在留を合法化すべく、これらのトルコ人によって提出された42件の申請を審査した。これらの申請のうち37件が認められている。クリムスク地区裁判所とプリモルスク地区裁判所(ノヴォロシースク)は、パスポート・ビザ発行部の職員に登録を拒否されたメスケティアン系トルコ人から提出された2件の異議申立てについて、申立人に有利な決定を行なっている。

現在、居住地に正式に登録されているメスケティアン系トルコ人は4,000名である。そのうち約3,000名はロシア市民権を得ることができた。

2000年初頭から2001年6月までに、登録事務所はメスケティアン系トルコ人の子どもの出生548件を登録している。

メスケティアン系トルコ人が集中して住んでいる地区の雇用斡旋機関から得た情報によれば、本年初頭の時点で、雇用先を見つけるために失業者として登録されているメスケティアン系トルコ人は存在しない。

人権および基本的自由の尊重の問題と国益およびクラスノダル地域住民の正当な権利を擁護するという問題は、一貫して検察官事務所に属する諸機関の中心的関心事である。クラスノダル地域の検察官のもとに設置され、同地域の連邦治安局、内務総局および司法総局の各代表から構成される作業部会は、社会的・宗教的団体による政治的過激主義の表明の防止・制圧を担当するすべての政府機関が法律を遵守することを確保するよう努めている。

メスケティアン系トルコ人の法的地位を確定する問題は、連邦レベルでも繰り返し検討されてきた。とくに、2000年3月24日付の大統領令K-285号にしたがって発布された2000年8月14日付の政令1280-r号において、ロシア連邦政府は「ロシア領域に居住するメスケティアン系トルコ人の問題の解決に関する省庁間委員会」の活動期間を延長した。

2000年9月28日に開かれた第1回会合において、委員会は、メスケティアン系トルコ人が集中的に居住する南部ロシア地域の民族的・政治的状況を安定化するための行動計画を採択した。

行動計画の主要な規定では、メスケティアン系トルコ人をグルジア領域の出身地に送還する問題、グルジアでの居住希望者の帰還を促進する問題と、ロシア市民権の取得を希望するメスケティアン系トルコ人の法的地位の確立および身分証明書類の発行手段の問題が扱われている。

2001年3月14日、臨時省庁間作業部会は、問題の解決は関係国に委ねなければならないという結論に達した。同省の勧告にしたがってメスケティアン系トルコ人の家族1,989世帯(1万0,644人)を対象に行なわれた調査の結果、クラスノダル領域に残りたいと考える家族は568世帯、他国への移動を希望する家族は125世帯、出身国への帰還を希望する家族は1,044世帯であることがわかった。

注意しなければならないのは、クラスノダル領域から追放されたメスケティアン系トルコ人は1人もいないということである。グルジアが欧州評議会に加盟するさい、自国領域へのメスケティアン系トルコ人の帰還に関して約束した義務は履行されていない。加えて、これらの者の帰還に関するグルジア大統領令が1996年に発表されて以来、何らの措置もとられてこなかった。
51.以上のことから、クラスノダル市当局がメスケティアン系トルコ人およそ1万3,000人に在留許可を与えなかったという点、および準軍事組織の隊員を職員として「退去強制センター」が創設されると言う点に関して特別報告者の通報に記載された情報は、いずれも現実に即していない。

3.特別報告者の所見

52.特別報告者は、ロシア連邦政府に対して回答を感謝する。人種主義および民族的憎悪の煽動の全体的表れ方に関しては、特別報告者は、人種差別に反対し、社会的調和を擁護する全国キャンペーンをロシア当局が組織するよう勧告する。2001年10月30日、ツァリチョーノ地下鉄駅の近くで3人を死亡に至らしめた治安紊乱については、特別報告者はモスクワ市裁判所の結論について知らされることを望むものである。民族的・人種的マイノリティや外国人に対する警察の行動については、特別報告者は、ロシア連邦当局に対し、警察の行為がいっそう人権を尊重したものとなるよう、警察の行動を改善するための措置をとることを奨励する。このような措置には、人権、とくに職務遂行における差別の禁止に関して警官に研修を施すことが含まれる。最後に特別報告者は、メスケティアン系トルコ人の居住地・国籍問題を解決しようとする努力についての詳細な情報に留意する。特別報告者は、このきわめて憂慮すべき状況の解決について、依然として非常な関心を有するものである。


D.ギリシア

1.拷問の問題に関する特別報告者とともに送付した2002年9月13日付の共同通報

訴えの要旨

53.両特別報告者は、以下の個別の事件に関する情報を受け取った。

54.ロマの若者、ラザロス・ベコスエレフテリオス・コトロプーロス(それぞれ17歳・18歳)は、1998年5月8日、メソロンギ警察署で拘留中に殴られたとされる。法医学鑑定書では、両人は拘留中、「割れた道具によって中度の身体的傷」を負ったと述べられているとのことである。また、警察が実施した宣誓管理者尋問の結果、2人の警官が「1998年5月8日早朝、2人の青年に対して極端に残酷に行動した」ことを理由として、「一時停職」が勧告されたとも伝えられる。両特別報告者が受け取った情報によると、若者らが容疑を否認した後、「犯罪の可能性がある行為の捜査を職務とする者が、証言または情報を引き出すことを目的として共同で負わせた身体的傷害」の嫌疑により、3人の警官が起訴されたとのことである。警察が実施した別の宣誓管理者尋問の結果、2人の警官に処分が科されたともいう。処分の内容は約100米ドルの罰金であったということである。もう1人の警官は当該警察著の治安局長だったが、若者らを殴った嫌疑で裁判にかけられたと伝えられる。容疑は「2人の逮捕者の虐待を防止しなかったこと」とされるが、証拠不充分により、最終的に2001年10月8日に無罪判決を受けた模様である。

55.21歳のロマ、アンドレアス・カラミオティスは、2001年6月15日、アギア・ペフカキア地方のペフカキアで警官に逮捕され、殴られたとされる。両特別報告者が受け取った情報によると、同人が自宅で友人らとともに音楽を聴いていたところ、午前2時ごろ警官がやってきて音を小さくするよう求めた。警官の1人は同人に銃をつきつけ、撃つぞと脅したという。その後、同人は手錠をかけられて逮捕された。同人が裸足であったため、同人の妻は靴をとろうとしたが認められなかったという。同人は警察車両まで引きずられていき、素手や棍棒で殴られた。地面に転倒した後、蹴られたともいう。車のなかでも殴られ、車から出されるとふたたび殴られた。同人は、カービン銃を撃ったのは誰かという点について尋問された模様である。警察署に連行されると、ある警官から侮辱・脅迫されたとされる。両特別報告者が受け取った情報によると、同人が水を求めたところ便器から飲めと言われ、ちゃんとした水を与えられたのは30分も後のことであった。翌日、同人はアテネの警察本部に連れていかれ、写真を撮られた。座りにくいので手錠を外してほしいと求めたところ、ふたたび侮辱・脅迫されたという。その後、同人は検察官のもとへ引致され、逮捕に抵抗し、警察当局を侮辱・脅迫したという嫌疑を告げられた。両特別報告者が知らされたところによれば、同人がアギアス・アナパフセオス通りの医学鑑定所を訪れたところ、専門鑑定を受けるためには容疑を否認するか、アギア・パラスケフィ警察署に告訴しなければならないと言われたという。アンドレアス・カラミオティスは、報復を恐れて告訴しなかったと思われる。

56.パトラス出身のロマの少年、テオドール・ステファヌ(16歳)は、2001年4月、アルゴストリで警官から殴られたとされる。両特別報告者が受け取った情報によれば、アルゴストリにいるあいだ同人がねぐらにしていたトラックに2~3人の警官が同人を探しにいったところ、同人は出かけていたため見つからなかった。トラックが捜索されたことを知ったテオドール・ステファヌは警察署に出頭した。同人はそこで、あるキオスクから相当額の金品が盗まれた事件について尋問されたという。少年は、ある警察官(両特別報告者はその氏名を承知している)から15分間に渡って顔をこぶしおよび平手で殴られた。そこには2人の警官が立ち会っていたが、そのうち1人はアルゴストリ警察署長であったと思われる。その後、同人は手錠をかけられたままトラックに連れていかれ、警察署に連れ戻されてふたたび尋問と暴行を受けた。キオスクの主人が、盗難があったころキオスクのまわりで同人を見かけたことはないと陳述した後、同人は釈放されたとされる。両特別報告者が知らされたところによれば、同人はその後病院に行った。診断書によれば、12時間前の殴打による頭部外傷、視界の軽いぼやけ、鼻梁部の腫れ・刺激、顔面左側の軽傷という症状が見られたとのことである。2001年8月7日、同人は検察官事務所を訪れ、アルゴストリ警察署長を告訴したとされる。 両報告者が受け取った情報によれば、親戚関係にある他の4人のロマ、ニコス・テオドロプーロス(18歳)、ニコス・テオドロプーロスジョージ・テオドロプーロスおよびバジリス・テオドロプーロスも同じ盗難容疑で逮捕され、警察署に連行された。ニコス・テオドロプーロスはある部屋に連れていかれ、警察署長およびもう1人の警官から尋問、殴打、平手打ちを受けたほか、ほぼ裸足の状態だった足をブーツで踏まれたという。ニコス・テオドロプーロスは留置され、正式な証言を録取するため午前4時に起こされた。弁護士の立会いがなければいっさい署名をしないと述べたところ、ふたたび殴られたとのことである。同人は最終的に、捏造であるとされる証言録に署名し、窃盗を自白したとされた。ニコス・テオドロプーロスも殴られたとされる。両特別報告者が受け取った情報によると、ニコス・テオドロプーロスは、裁判官が同人の弁明および虐待の嫌疑を考慮した結果、2001年8月6日に放免された。

2.2002年11月28日付のギリシア政府の回答

57.ラザロス・ベコスエレフテリオス・クトロプーロスはいずれも未成年のロマであり、1998年5月8日午前12時45分、キオスクに強盗を働こうとしていたところを、メソンロギを巡回中のパトロール隊によって逮捕されたものである。両名はメソロンギ警察署に連行され、翌日、権限のある検察官のもとへ引致された。検察官は審判の日を定めたうえで両名を釈放した。両名は拘留中も検察官事務所においても苦情を申し立てなかったが、釈放後、ヘルシンキ・ウォッチのギリシア支部に対して警官から虐待を受けたと相談した。同NGOの代表は両名を国立メソロンギ病院に連れていった。診断書には、両名は打撲傷を負っていたと記載されている。開業医の診察後に作成されたもう1通の診断書によると、ラザロス・ベコスの身体には2か所に斑状出血が見られ、エレフテリオス・クロトプーロスの身体には物で殴打されたことによる複数の斑状出血が見られた。当該NGOから非難の書面が届いた後、管理者調査が実施された。しかし、両名の中度の負傷がいつ、どのようにして、誰によって引き起こされたものか、決定的な結論を導くことはできなかった。にも関わらず、メソロンギ保安局長に対し、部下の監督・管理不行き届きを理由として懲戒処分が下された。両名の負傷は、複数の市民も参加した逮捕時に生じた可能性も否定できないとはいえ、拘留中に生じたと思われたためである。副局長に対する処分は、2人の未成年者が同人は尋問に加わっていなかったと宣誓証言した後、撤回されている。3人の警官に対しては刑事手続が開始された。事件を付託された司法審議会は、2人の警官の起訴を見送り、警察署長を起訴した。警察署長は後に、パトラス控訴裁判所の3人の裁判官によって開かれた法廷で無罪判決を受けている。検視官が問題の傷について調べたところ、両名はいずれもキオスク経営者と取っ組み合いをしていたため、逮捕時に傷を負った可能性がもっとも高いことが確認されたためである。

58.アンドレアス・カラミオティスは、音楽がうるさくて静穏が妨げられるという近隣住民からの苦情を受けて警官が同氏宅を訪問した後、逮捕されたものである。警官らは、同氏および同氏といっしょにいた3人の人物に対し、近所迷惑であるから音楽を止めるよう助言した。しかし同氏はしたがわず、威圧するように警官らのほうに近づいたため、警官らは退出して援護を求めた。援護のため、パトカー6台が急行した。パトカーを見たカラミオティス氏は自宅に引っこんだ。3人の友人は抵抗せず、アギア・パラスケフィ警察署で身元を確認した後、釈放された。

59.カラミオティス氏は、警官らから促されてようやく自宅から出てきたものの、警官らに対して嫌悪感を露にし、悪態をついた。警官らが同氏を逮捕しようとしたところ激しく抵抗され、もみあいになった。同氏は手錠をかけられて警察署へ連行され、そこで手錠を外されたものの、警官に襲いかかろうとしたためふたたび手錠をかけられた。このような振る舞い振りの全体的印象から、同氏はアルコールを濫用しているものと思われた。

60.警官への抵抗・侮辱・脅迫を理由として同氏に対する刑事捜査が開始され、同氏は権限のある検察官のもとへ引致された。検察官は同氏を起訴し、裁判にかけた。

61.管理者調査が明らかにしたところによれば、カラミオティス氏の逮捕・留置・拘留に参加した2人の警官の行動は法律にのっとったものであった。警官にしたがい、有形力の行使が必要なかった友人らと異なって、カラミオティス氏は警官らに暴力を振るい、命令にしたがうこと、警察署に出頭することを拒否したためである。調査によれば、同氏が負った引っかき傷は、警官から手錠をかけられるのを避けようとして同氏が抵抗したこと、同氏が警官らともみあったことによって生じた。傷は軽度の引っかき傷および擦過傷であり、同氏に対して用いられた有形力の程度からすればまったく当然の結果と言うべきものである。妻が同氏に靴を渡そうとしたところ拒否されたという主張は、虚偽であることが証明されている。警官が警察署で同氏に靴を渡したところ、同氏はそれを放り投げたからである。ギリシア警察のパトカー20台が自宅にやってきたという同氏の訴えも、やはり虚偽である。

62.保安局に保管されたデータおよびこれまで述べてきた情報によれば、カラミオティス氏は警官らへの苦情を申し立てなかった。他方、同氏が検視官による診察を求めたかどうかははっきりしない。注意しなければならないのは、拘留中、および検察官のもとへ引致されたさい、同氏は警官らへの苦情を申し立てたり、検視官による診察を求めたりはしなかったということである。

63.訴えについて調べるために実施された宣誓管理者調査によって、当該訴えには根拠がないことが明らかになった。虐待されたとされる者らは、誰からも暴行を受けてはいないと宣誓証言しているからである。例外は未成年者のテオドロス・ステファヌで、署長が立ち会うなか、ある警官から暴力を振るわれたと主張している。同人が警察署に留められているあいだ、そこには少なくとも他に5人のロマがいたが、この訴えは他のいずれの目撃者の陳述によっても裏づけられなかった。

64.ロマであるニコス・テオドロプーロスが拷問され、やっていない強盗を自白した陳述書に署名を強要されたという訴えは真実ではない。同人および他の3人のロマに対して行なわれた当該強盗事件の刑事捜査記録には、そのような自白はまったく記載されていないからである。

65.アルゴストリ保安局を出た後、2001年8月5日午前7時半にステファノス・テオドルーが訪れたアルゴストリ病院発行の診断証明書によれば、診察の結果、同人には「12時間前の殴打によって引き起こされたとされる頭部外傷」が見られ、また「めまいとひどい頭痛を訴えている」とのことである。他の目撃者の陳述および同人自身の陳述によれば、同人が保安局に連行されたさい、同人は腕を縛られて苦痛を感じていた。このことから(病院の診断証明書に記載された負傷推定時刻とあいまって)、これらの傷は、同人が同日午前12時40分に保安局に任意出頭する前に、特定不能な状況下で負ったものであるという結論が導き出される。

66.保安局に保管された通信記録によれば、当該ロマのなかで警官らに対する苦情を申し立てた者は存在しない。

3.特別報告者の所見

67.特別報告者は、ギリシア当局に対して回答を感謝する。特別報告者は、警察が引き続き逮捕時に不当な有形力を行使しないようにするよう、勧告するものである。特別報告者はまた、可能な場合には常に、ロマとその他のギリシア人住民が相互に接近することから生ずる諸問題を解決するため、調停を利用するようにも提案する。ギリシア政府は、ロマが同じ国に住む人々と社会的調和を築くことができるような方法で、ロマ・コミュニティの代表と対話を開始することができるはずである。


E.ガイアナ

1.2002年10月31日付の通報

68.ガイアナの社会的・政治的状況は、インド系ガイアナ人住民とアフリカ系ガイアナ人住民とのあいだの絶え間ない民族的緊張に彩られているとされてきた。

69.アフリカ系ガイアナ人のあいだには、インド系ガイアナ人は自分たちを犠牲にして金銭面・政治面で利益を得ているという見方がある。さらに、2つのコミュニティに信頼関係が存在しないのは、暴力犯罪や人種的動機にもとづく警察の暴行への一貫した恐怖感が存在し、またそれが疑心暗鬼ではないためだともされる。インド系ガイアナ人に対するいやがらせ、暴行、強盗などの暴力犯罪は大部分がアフリカ系ガイアナ人によるものであり、根強い反対行動や路上での抗議から派生することも多い。アフリカ系ガイアナ人は、政治、教育、雇用、居住の面で自分たちが広範に差別されており、警察による超司法的殺人も行なわれていると主張する。

70.国内の力関係が人種によって特徴づけられる傾向は政治の領域にも反映され、投票行動が人種によってはっきり分かれるようになったとされる。アフリカ系ガイアナ人はほとんどが人民国民会議・改革(PNC/R)に忠誠を誓い、インド系ガイアナ人は主に人民進歩党・市民(PPP/C)を支持しているのである。

71.2001年4月、大統領に選出されたPPP/C指導者、バラット・ジャグデオ氏はPNC/Rの指導者であるデスモンド・ホイト氏と会見し、民族的緊張と社会不安を緩和するために活動することを誓いあった。しかしこの誓いは何ら実を結ばず、依然として暴力犯罪は生じており、8人の警官を含む複数の死亡者が出ている。

72.このような人種的分裂が露になったもっとも最近の事件は、2002年7月3日に発生したものである。PNC/Rの支持者を含む複数のデモ参加者が大統領府の門を壊して押し入り、数台の車をひっくり返して火をつけ、さらに近くの商店を対象として放火・略奪に及んだ。警察の発砲により抗議デモ参加者8名が負傷し、指導者と目される2名を含む17名が逮捕されている。大統領府は、これは大統領を暗殺して政府を転覆しようとする試みだとして、攻撃の責任は野党にあるとした。

2.ガイアナ政府の回答

73.2002年12月3日付の書簡により、ガイアナ国連駐在部代表は、特別報告者の書簡は2002年11月25日に受領されたばかりであり、政府として可能なかぎり速やかに回答すると通知してきた。

3.特別報告者の所見

74.特別報告者はガイアナ政府の回答を待ち望むものである。当該回答は、人権委員会に対する特別報告者の次回報告書に反映されることになろう。


F.英国

1.拷問の問題に関する特別報告者とともに送付した2002年9月13日付の通報

75.ザイード・ムバレクは、2000年3月、フェルタム若年犯罪者施設・再拘禁センター(ミドルセックス)において同房者のロバート・スチュワートからテーブルの脚で殴られ、死亡したとされる。ロバート・スチュワートは同年、殺人罪で有罪を言い渡されたとのことである。同殺人事件に関する刑務所内部調査の結果、多くの管理上の瑕疵のほか、フェルタムに影響を及ぼしている他の重要な問題が特定された。また、同調査の結果、この施設全体が人種主義的であったという結論も出されたとのことである。管理者は、民族的マイノリティに属する吏員・収容者双方に人種主義的虐待が行なわれていることを承知しており、その問題に対応するためにどのような措置をとるべきかもわかっていながら、行動を起こさなかったとされる。両特別報告者が受け取った情報によれば、ザヒード・ムバレクは、ロバート・スチュワートの人種主義的偏見や暴力的行動について刑務所吏員が承知していた(または承知していてしかるべきであった)にも関わらず、確かにロバート・スチュワートと同じ房に収容されていた。ロバート・スチュワートは、人種的動機にもとづく悪意のある通信を送付したことにより、いやがらせ法にもとづく容疑で再拘禁されていた。その通信には、2月7日の審理で保釈が認められなければ、「どっかに移してもらう」ために同房者を殺そうかと思っていると記された書簡も含まれる。2001年10月5日、高等法院の判決により、どのような瑕疵がザイード・ムバレクの死亡につながったかに関する公開かつ独立の調査を開始することが内務省に命じられた。 判事は、ザイード・ムバレクの審問検死が行なわれない以上、効果的かつ徹底した調査を行なう義務は公開かつ独立の調査を実施することによってのみ果たしうるとして、遺族の法定代理人を加えるべきこと、遺族の代理人に関連の文書を開示すること、主要な証人に反対尋問する権利を保障することを命じたとされる。内務省は、当該殺人事件に関してはロバート・スチュワートの審理との関連で、また上述の刑務所内部調査を通じて充分な調査が行なわれているとして、判決に控訴した。控訴院は2002年3月、公開調査は必要ないとの判決を言い渡した。控訴院の判事らは、刑務所に瑕疵があったことはすでに確立されており、本件に関する調査はすでに実施され、遺族も調査に関与するよう求められていたこと、ロバート・スチュワートが殺人罪で有罪とされたことにより死因も確定していること、刑務所の吏員を起訴する根拠はないことを判決理由に挙げた。また、遺族が民事裁判所に損害賠償請求訴訟を起こすことを妨げるような「不知の事実」は存在しないとも付け加えた。ザイード・ムバレクの遺族は貴族院への上訴を計画中であるとされる。

2.英国政府の回答

76.2002年11月18日、英国政府内務省は共同通報に回答し、以下のように述べた。「本件は、ザイードが刑務所の管理下にあるあいだに生じた忌まわしい犯罪である。同人およびその家族は同人が安全に管理されることを期待する権利を有していたが、刑務所は職務を果たすことができなかった」

77.ザイードの悲劇的な死以来、このような悲劇が再発しないようにするため多くの措置が導入された。フェルタムにおいて、同房者決定にさいしてのリスク・アセスメント手続を導入したことはその一例である。同手続はまずフェルタムで試行され、2002年6月に全国的に導入された。加えて、身体的・精神的健康上の深刻な問題を有する受刑者をいっそう特定できるようにするため、健康診断手続の改善が行なわれる予定である。また、受刑者が収容されたさいに刑務所と外部機関のあいだでよりよい情報交換が行なわれるようにするための手続も開発されつつある。

78.刑務総監は、刑務所制度全体が人種主義的であることを認め、刑務所からあらゆる形態の人種主義を追放するという決意を表明した。ザイードの死以来、多くの進展が見られる。一方、ほぼ2年に渡って進められてきた刑務所内の人種関係に関する調査も、まもなく終了する予定である。

ザイード・ムバレク

79.特別報告者の書簡に添付された訴えの要旨はおおむね正確であるが、この悲劇的な事件の事実関係は以下のとおりである。
  • 2000年3月21日午前3時35分ごろ、王立若年犯罪者施設・再拘禁センター(フェルタム)のスワロー棟で非常呼出装置が稼動した。当直の吏員が駆けつけたところ、収容者の1人であるザイード・ムバレクが重傷を負ってベッドに横たわっていた。もう1人の収容者であるロバート・スチュワートは、テーブルの脚のように見える棒を手にしていた。第1発見者の吏員は、ザイードはこのテーブルの脚で頭部周辺をひどく殴打されたのではないかと推測した。

  • 他の吏員らが現場に到着し、そのなかに含まれていた保健担当職員がザイードに応急手当を施した。相当な重傷ではあったものの、ザイードはまだ呼吸をしており、出血も大量ではなかった。吏員らは、救急隊が到着するまでザイードの応急手当を続けた。その後、ザイードは午前4時36分にアシュフォード総合病院に運ばれ、後にチャーリングクロス病院に移送された。残念ながら、ザイードは本件負傷の結果2000年3月28日に死亡した。
80.本件訴えの意味するところを評価するためには、以下の状況が考慮されるべきである。
  • ロバート・スチュワートが人種主義者であることを吏員が知っていたという主張は、全面的には正しくない。裁判所令状にも、スチュワート氏の前科一覧にも、同人が人種主義者であることを示唆する証拠は示されていない。その後、同人が再拘禁される根拠となったいやがらせ罪は人種主義的動機にもとづくものだったのではないかと示唆されているものの、その可能性があることを示すのは、1999年11月に王立アルトコース刑務所に送達された引致命令だけである。そこには、ロバート・スチュワートが、人種的動機にもとづく悪意のある通信およびいやがらせの容疑者であることが記録されていた。その後のいずれの裁判所令状においても、人種主義的動機についてはまったく触れられていない。

  • 以上のほかには、ロバート・スチュワートがフェルタムに拘禁されているあいだ、受刑者や吏員に対して人種主義的行動を示したという証拠は発見されていない。同人は2月8日以降ザイード・ムバレクとともに2人用房に収容されており、3月21日の悲劇的事件まで問題は生じていなかった模様である。当該期間中、ザイードは同房者に対する苦情を申し立てることも、房の移動を要請することもなかった。
未完了の調査の進捗状況

81.マーティン・ナレー刑務総監は、2000年11月、人種平等委員会に対しても、刑務所における人種主義に関する広範な調査の一環として本件死亡につながった状況を検討するよう求めた。同調査はまもなく終了する予定である。

賠償

82.2001年9月、ザイード・ムバレクの遺族に対し、2万ポンドの賠償額が提示された。遺族からはまだ正式な回答がない。

その他の情報/所感

83.本件調査により、刑務所において改善が必要とされる分野が数多く浮き彫りにされた。全部で26項目の勧告が扱っている分野は、収容時の検査、医療記録の入手・吟味、いやがらせからの保護手続、書簡の閲読・差止めに関する方針および手続、以前の収容施設の保安情報書類の入手、保安吏員・収容吏員・刑務所長の研修、身体検査・所持品検査方針などである。これら26項目の勧告は、1つを除いてすでに全面的に実施されている。残る勧告は、各棟に1つの「差止め書簡」記録・保管所を設けることに関するものである。この勧告には実効性がないと思われ、全施設を対象とした単一の記録・保管所が設けられた。

84.調査のうち人種主義的行動に関わる部分からは、フェルタムの施設全体が人種主義的であったという結論が導かれた。この結論の根拠は、職員のあいだで人種主義および人種関係に関する理解が欠けていたことを示す明らかな証拠があること、少数の職員は確かに同僚・受刑者に対して人種主義的に振る舞っていたと示唆されていることなどである。

85.刑務所査察長官が2002年1月にフェルタムの査察を実施した後(2002年10月15日に結果を公開)、フェルタムの全般的状況が改善されたこと、またとくに人種関係に関して改善が見られたことに、非常に積極的な見解を示したことにも留意しなければならない。同長官は、「刑務所長およびその部下が良好な人種関係の確立に強い決意を示してきた」ことに留意し、「施設全体を通じた広範な取り組みのなかで示された非常に多大な努力」を賞賛している。

3.特別報告者の所見

86.特別報告者は英国政府に対し、通報に対する詳細な回答について謝意を表したい。特別報告者は、ザイード・ムバレクの悲劇的な殺人以降、今後はこのような惨劇が再発しないことを確保するためにフェルタムと全国レベルの双方で実施されたたくさんの措置を歓迎するものである。特別報告者はさらに、刑務所制度全体が人種主義的であるという重大な認識は、当局に対し、刑務所環境における人種主義のあらゆる側面と緊急に闘っていく、きわめて重要な責任を課すものであると考える。これとの関係で、特別報告者は、刑務所における人種主義に関する調査の結果を、人種平等委員会による調査の終了次第、ぜひとも受け取りたいと思うものである。また、英国政府の回答は、刑務総監が「刑務所からあらゆる形態の人種主義を追放するという決意を表明した」こと、フェルタムにおける人種関係の改善のためにすでに相当の努力が行なわれてきたことに言及している。特別報告者は、これらの努力、および人種主義の問題に対応するために実施された具体的措置に関するいっそうの情報を歓迎するものである。