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人種主義、人種差別、外国人排斥およびあらゆる形態の差別 添付文書

特別報告者が各国政府に転送した訴えへの回答

A.ドイツ

1.拷問の問題に関する特別報告者および移住者の人権に関する特別報告者から送付された2002年9月12日付の共同通報

1.ケニア出身の男性(33歳)、デニス・ムワカピと、その妻で白人のドイツ人であるウルシュラ・ムワカピは、クリスマスの前祝いが繰り広げられていた2000年12月23日午前2時ごろ、ニュールンベルグの中心街にあるバーに向かっていたということである。そこへ、黒人のアフリカ人が白人のドイツ人女性に何か嫌がらせをしているようだと思った2人のアメリカ人男性と、その連れである2人の女性が近づいてきた。デニス・ムワカピは、大きな声で活発に話していたものの、攻撃的だと受け取られるようなものではなかったということである。2人のアメリカ人男性は、デニスの妻がこれは自分の夫だと説明する間もなく、デニス・ムワカピを殴ったり叩いたりし始めた。ウルシュラ・ムワカピがようやく男たちを夫から引き離し、2人の関係を説明したところ、アメリカ人男性らは謝罪したとされる。デニス・ムワカピは、襲われている最中に上唇が腫れる怪我を負ったとされるにも関わらず、謝罪を受け入れた模様である。全員がその場を離れ始めた直後、警察車両が3台、現場であるリュイトポールド・ストラーフェに到着した。2人の警官がアメリカ人男性らに近づいたものの、身元を確認すると立ち去ることを認めたという。警官らは今度はデニス・ムワカピとその妻に近づいてきたものの、喧嘩は2人のアメリカ人男性に襲われたあとに始まったのだというデニスの訴えにはほとんど耳を貸さなかったとされ、そのためデニス・ムワカピはたいへん腹を立てた。同人の妻も、警官に対して事件の背景の説明を試みたとされる。警官らは、デニスが興奮して落ち着こうとしなかったため、デニス・ムワカピを逮捕した。警官の1人(両特別報告者はその氏名を承知している)が逮捕のためデニス・ムワカピの右腕をつかみ、むりやり背中のほうにねじ上げたため、デニス・ムワカピは右前腕部を骨折したとされる。 警官は、デニスが医者を呼んでくれと繰り返し訴え、また痛みのため叫び声をあげたにも関わらず、デニス・ムワカピに手錠をかけて警察車両に乗せた。その後デニス・ムワカピはニュールンベルグ・ミット警察署に連行されたが、そこでも、デニス・ムワカピを医者に診せてほしいという夫妻があらためて要請を続けたにも関わらず、拒否されたとされる。デニス・ムワカピは警官らによって留置場に入れられ、2000年12月23日午前10時半ごろに釈放されるまで留置された。ニュールンベルグで2000年12月23日に行なわれた診察によれば、デニスは腕を骨折しており、ただちに治療が必要とされたということである。(......)デニス・ムワカピは、警察によるこのような取扱いを理由として、2人の警官を、身体的暴行と援助の拒否の罪で検察官事務所に刑事告訴した。検察官事務所は、2001年7月4日、デニス・ムワカピの元弁護士に対し、2人の警官に対する手続を注視したと知らせてきたとのことである。その後、デニス・ムワカピの弁護士は手続を再開させようと試みたが、うまくいかなかった。デニス・ムワカピは、腕に負った傷のおかげで、仕事を再開する能力に長期的影響が生じたということである。2002年2月に診察を行なったニュールンベルグの医師の診断書には、腕の傷の治癒は非常に長引いており、デニス・ムワカピは腕に圧力をかけたり重い物を持ったりすると依然として痛みを感じていると記されていたという。(......)この傷のためデニス・ムワカピの労働能力には大きな影響が生じ、一定の仕事に就くことが困難なままになっているとのことである。

2.トーゴ人の庇護申請者、ドヴィオド・アデクー(59歳)は、2001年10月1日、ノルトライン・ヴェストファーレン州のメットマンで暴行を受けたとされる。ドヴィオドは事件のさいに右目に重傷を負い、入院した。同人が暴行を受けたとされるのは、2001年10月1日の午前中、複数の警官が退去強制前拘禁のために同人を拘禁しようと試みたときのことである。ドイツで難民申請をしていたドヴィオド・アデクーは、メットマン外国人事務所の職員の1人と、ドイツでの一時在留権が延長されるかどうか話をするために約束をしていた。面会の途中、職員は同人に、あなたは2001年10月12日に退去強制させられることになっていると告げたという。ドヴィオド・アデクーは、正式な決定を書面で受け取りたいこと、弁護士との協議を認めてほしいこと、退去の準備をさせてほしいことを伝えた。そこへ、2人めの男性警官が部屋に入ってきてドヴィオド・アデクーの左手に手錠をかけ、身柄を収容すると告げたという。警官はドヴィオド・アデクーの右手にも手錠をかけようとしたが、うまくいかなかったため、さらに2人の警官を呼ばなければならなかった。3人の警官はドヴィオド・アデクーの両腕をつかみ、事務所の床にうつぶせに引きずりおろしたという。 ドヴィオド・アデクーが床に横たわっていると、警官の1人がわざと同人の右目のあたりを殴り、大量の出血を引き起こした。その後、警官らはドヴィオド・アデクーに手錠をかけるのをあきらめたという。外国人事務所の上級職員が部屋に入ってきて、救急車を呼ぶよう職員に指示した。ドヴィオド・アデクーは救急車でウッペルタル診療所に運ばれて治療を受け、2001年10月9日まで9日間入院したとされる。ドヴィオド・アデクーが診療所で受けた治療の概要を示した診断書によると(2001年10月11日付、同診療所の眼科専門医が記入)、同人が治療を受けたのはまぶたの破裂であり、そのために眼球の硝子液内で出血が見られた。医師は診断書のなかで、「このようにきわめて複雑な傷のため、現在のところ全治までの期間の見通しは不明」と述べているとされる。事件のおよそ1週間前、ドヴィオド・アデクーは右目の手術を受けていた。しかし、2001年10月1日に右目を殴られて以降、右目の視力は完全に失われたとされる。退去強制のためドヴィオド・アデクーの身柄を拘束する過程で、事件に関わった警官の1人が同人の右目を殴って暴行を加えた可能性があることに、懸念が表明されるところである。メットマン地区警察に対し、重暴行罪で刑事告訴が行なわれたとされる。

3.旧ソ連出身のスヴェトラーナ・ラウエは、2002年2月20日の午後、バンベルグ市外に位置するハルスタッドの自宅で数人の警官から暴行を受けたとされる。午後3時半ごろ、4人の警官が同人のアパートを訪れ、州検察官事務所の口頭命令を根拠に、娘であるアナスタシア・ラウエ(17歳)に対する証拠保全のため家宅捜索をしようとした。アナスタシア・ラウエは、同日午後、ハルスタッドのデパート「REWEマルクト」で小さな磁器製の人形をいくつか盗み、万引き容疑で警察に逮捕されていたとされる。家宅捜索令状が提示されないためスヴェトラーナ・ラウエが立入りを拒んだところ、4人の警官はむりやり入ってきたということである。スヴェトラーナ・ラウエは、書面による許可がなければ家に入る権利はないと考え、体と両腕を使って進路を妨害し、立入りに活発に抵抗した。4人のうち唯一の女性警官は、アパート内にむりやり入りながらスヴェトラーナ・ラウエの首をうしろからつかみ、すぐそばの壁に同人の頭を打ちつけたとされる。2人めの男性警官も同人の腕をつかみ、背中のほうにねじり上げたということである。男性警官は、空いているほうの手で同人の髪をつかみ、アパートの廊下を引っ張っていきながら、あちこちのドアや壁に繰り返し同人の頭を打ちつけた。残りの2人の警官も同人を拘束するのを手伝い、後ろ手に手錠をかけたとされる。スヴェトラーナ・ラウエが女性警官に向かって何度かつばを吐くと、2人めの警官が女性警官の手伝いに来て、スヴェトラーナ・ラウエを叩き始めた。2人の警官は、スヴェトラーナ・ラウエの頭を前後に揺さぶり、手錠をかけられた両腕を乱暴に引っ張ったともされる。 その過程で同人の部屋着の上半分は破り取られ、上半身を覆うのはブラジャーだけという半裸の状態になったとのことである。その後、警官らはアナスタシア・ラウエの部屋を捜索して盗品を見つけようとしたが、証拠はまったく見つからなかった。警官らは退去することにし、スヴェトラーナ・ラウエを後ろ手で拘束したまま(そのころには手錠は外されていた)アパートの外に連れ出したとされる。スヴェトラーナ・ラウエは、アパートから外に出される途中、片腕が自由になったさいに女性警官の顔を引っかいたとのことである。女性警官と、ひげを生やしたもう1人の警官は同人の体をつかみ、アパートの壁に打ちつけたという。そのお返しに、スヴェトラーナ・ラウエは1人の男性警官の顔を引っかいた。警官らは4人全員で同人を拘束し、後ろ手に手錠をかけたということである。男性警官の1人は、手錠をかけられた同人の両手をつかんでアパートの廊下を引きずり、ある部屋に連れこんだ。そして、同人に蹴りつけ、また同人の頭を床に打ちつけたとされる。さらに同人の背中を踏みつけ、横たわったままの同人を叩き続けたとのことである。このような暴行の後、警官らは同人を半裸・裸足のまま連れ出し、同人の2人の子どもや近隣住民から丸見えの状態で、外に停めてあった警察車両まで連れていったという。スヴェトラーナ・ラウエは女性警官とひげを生やした警官によってハルスタッド警察署へ連行され、公務執行妨害および警官への身体的暴行の容疑で告発された。2002年2月26日の診断書によると、スヴェトラーナ・ラウエは頭部、両肩、右胸部、背中、臀部、両腕および両足に複数の打撲傷・擦過傷を負っていた。

2.ドイツ政府の回答

4.2002年11月14日付の書簡により、ドイツ政府から以下の情報が送付された。

5.デニス・ムワカピがニュールンベルグ中央警察署に連行されたのは、同人が現場で上述の事件の事実関係をはっきり説明しようとしなかったとされるため、詳細を明らかにすることが目的であった。移送中に身体的拘束が必要とされたのは、同人が移送に抵抗し、暴力的に振る舞ったためである。ムワカピの妻より、とくに同人が酔っ払っているために手がつけられないという恐れが表明された後、同人は予防拘禁下に置かれた。数時間後に同人から腕の痛みが訴えられたさい、担当警官がその言葉を信用しなかったのは、目に見える傷がなかったこと、街の中心部でどんちゃん騒ぎを続けたいという希望が同人の口から繰り返し表明されていたことによる。検察官事務所は、身体的傷害、援助の提供の懈怠および無実の者の訴追で告発された2人の警官に対して調査を行なったが、犯罪を立件するに足る事実は見出されなかった。告発された警官らの行動は、当該状況下では誤っておらず、必要であり、均衡のとれたものだったと考えられる。ムワカピの右前腕部のねじれ骨折については、それが警官による制圧によるものか、アメリカ人らとの喧嘩によるものか、はっきりしない。ニュールンベルグ・フュート検察官事務所は調査手続を打ち切った。打ち切り命令に対するデニス・ムワカピの異議申立ては、ニュールンベルグ高等地域裁判所付属地域検察官事務所の行政決定により、認められなかった。デニス・ムワカピの申立てに応じてさらなる調査が行なわれた後、地域検察官事務所は調査手続を再度打ち切り、直近の調査打ち切りに対する異議申立てもニュールンベルグ高等地域裁判所付属地域検察官事務所によって却下された。最終的に、検察官事務所への起訴強制を命ずる司法決定を求めたデニス・ムワカピの申立ても、ニュールンベルグ高等地域裁判所刑事部の2002年5月27日付判決により、根拠なしとして却下されている。

6.ドヴィオド・アデクーの事件に関しては、政府は以下の情報を提供する。退去強制の執行日が近づいていること、またアデクーが居所からいなくなったために退去強制を回避しようとしている疑いがあったことに照らし、メットマン地区執行官は同人の身柄を拘束し、判事のもとに引致して退去強制執行のための逮捕令状の発布について検討してもらうことを決定した。2001年10月1日の逮捕時点で、アデクーと地区行政官とのあいだで小競り合いが始まった。その結果、執行官は怪我をし、またドヴィオド・アデクーは右目に重傷を負ったが、それはやむをえなかったことである。2001年10月12日に予定された退去強制は中止された。2002年1月24日付でメットマン地区警察当局に提出されたドヴィオド・アデクーの告発にしたがい、また公務執行中の制圧および重傷を根拠として、調査が開始されている。調査終了時期は、政府が本回答を提出する時点では見通しが立っていない。政府はまた、本事件の後、逮捕は警官と協議したうえでなければ行なわないこと、執行官に対して逮捕技術に関するいっそう徹底した訓練を施すことを地区行政当局が決定した旨、知らせるものである。

7.スヴェトラーナ・ラウエの事件に関しては、同人が2002年2月22日付で刑事告訴を行なった後、バンベルグ検察官事務所が当該事件に関与した警官に対する調査を開始した。同調査はまだ終了していないものの、その結果によると、同人は虐待も、侮辱も、殴る蹴るの暴行も、その他の言動による侮辱も受けておらず、警官らが故意に同人の頭を壁に打ちつけたり髪を引っ張ったりしたという事実もない。同人が、廊下から捜査対象であった部屋へ手錠を引っ張られて連れていかれたという事実もない。それどころか、スヴェトラーナ・ラウエは非常に攻撃的に振る舞っており、女性警官が同人を拘束しようとしたときに生じた身体的争いのさい、同人が頭部またはその他の身体部位を壁に打ちつけた可能性も否定できないとされている。2002年2月28日に行なわれた診察の結果によると、記録されている傷害が警官の暴行のよるものかどうか、法医学的観点からは決定的判断が下せないとのことである。他方、スヴェトラーナ・ラウエに対する嫌疑(公務執行妨害、名誉毀損および身体的傷害)の事実関係の調査は現在保留されている。

3.特別報告者の所見

8.特別報告者は、上記の3件の訴えに関してドイツ政府が迅速かつ詳細な回答を行なったことに謝意を表する。ドヴィオド・アデクーの事件に関しては、特別報告者は、当該事件の後、逮捕技術に関する適切な訓練を含め、逮捕が行なわれる条件を向上させるための措置が地区行政当局によってとられたという情報を歓迎するものである。特別報告者はこの機会に、そのような努力に加え、人種主義に反対する世界会議の行動計画(第30条(e))にしたがって、「とくに行政官、警官、出入国管理官その他の関係集団を対象とした専門研修コースを組織することを通じ、警察および出入国管理機関が、国際基準にしたがい、移住者を、その尊厳を尊重しながら差別なく扱う」ことを確保するためのさらなる措置もとるよう、勧告する。特別報告者は、ドヴィオド・アデクーの事件およびスヴェトラーナ・ラウエの事件に関して現在進められている調査についても、その最終的結論を送付していただきたいと考えるものである。


B.スペイン

1.拷問の問題に関する特別報告者および移住者の人権に関する特別報告者から送付された2002年9月4日付の共同通報

9.両特別報告者は以下の事件に関する情報を受け取った。

10.ギニアビサウ国籍を有し、技師を生業とするボアベンチューラ・シマオ・バスの訴えによれば、同人は2001年3月1日、マドリードのバーに2人の仲間とともにいたところを逮捕された。両特別報告者が受け取った情報によれば、同人は国家警察の私服警官から身分証明書類の提示を求められたということである。その後、同人は店の外に押し出され、手錠をかけられて警察署に連行され、麻薬売買の容疑をかけられていると告げられた。同人は容疑を否定した。同人は、警察署内で、警察の拘束下にあった別の者が殴られているのを目撃したため、その者の擁護を試みたとのことである。すると、3人の警官から殴る蹴るの暴行を受け、床に投げ倒され、武器で脅された。また「汚え黒人野郎」という人種主義的中傷にもさらされた。ボアベンチューラ・シマオ・バスは、警察署ではまったく手当を受けられなかったと述べている。同人はサン・カルロス病院の救急治療室に行き、胸の左側が激しく痛むと訴えた。2001年3月7日付で同病院が作成した診断書によれば、同人は肋骨を5本骨折し、内出血していた。同人は数日間入院した。3月13日、同被害者はマドリードの裁判所に告発を行なった。

11.コスタリカ国籍の人類学者で1999年以来カタルーニャに住んでいるマルタ・エレーナ・アルチェは、2001年4月1日、バルセロナのカタルーニャ広場において警官暴行の罪で逮捕されたと訴えている。同広場は、同人が他の移住者と毎日会っている場所である。主張によれば、同人は逮捕前、バルセロナのサンタ・マリア・デル・ピ教会の占拠に参加した。占拠は、政府の出入国管理政策に抗議するため移住者が組織したものである。逮捕の日、携帯電話盗難の連絡を受けていた警官4~5人が移住者の一団に近づき、携帯電話を見せるよう求めた。マルタ・エレーナ・アルチェが、なぜ自分や友人たちが携帯電話を見せるよう求められるのか質し、議論になった。同人は、警官から「汚えラティーノ」「売春婦」「低能」などと侮辱され、叩かれたとのことである。同人はシウタート・ベリャ地区のランブラ・ノバ警察署に連行され、その後、同人の要請によってドラサネス地域にあるデル・マール病院に移送されて診断書をとった。同人を警察署に連行した4人の警官によれば、容疑は同人が警官の1人をガス弾で攻撃したことである。同人の主張によれば、ガス弾はポケットに入っていたもので、地面に放り出されたときに落ちたものであった。マルタ・エレーナ・アルチェは、翌日午後11時まで警察署に拘禁されたと主張している。その後、同人は外国人用のラ・ベルネーダ拘禁センターに移送され、そこで一夜を過ごしたのち裁判官のもとへ引致された。釈放は同日午後である。同人の主張によれば、警察署に拘留されている間は床に敷いたマットレスで寝なければならなかった。最初の晩は毛布も与えられず、また弁護士や近しい友人・親戚に電話することも認められなかったとのことである。両特別報告者は、同人は4月4日まで弁護士に会えなかったと知らされている。

12.社会主義人民リビア・アラブ国生まれのパレスチナ人、イブラヒム・サード・ラーは、2001年5月9日、セウタからスペイン本土への旅行申請のため警察署を訪れたところ、国家警官から警察署内で暴行されたと訴えている。主張によれば、2人の警官からは棍棒で、もう2人からは拳で殴られたとのことである。同人はわき腹、両足、頭、胸を殴られ、警察署に2日間留置された。モロッコへの追放も試みられたが、モロッコ当局が同人の受入れを認めなかったとのことである。その後、同人はロス・ロザーレス地域のシーディー・エンバレクのすぐ脇に放り出された。同人は通行人によって赤十字病院に連れていかれ、同病院が作成した診断書はその後裁判所に提出されている。イブラヒム・サード・ラーは、4人のスペイン人警官に対する刑事告発をセウタ裁判所に行なった。

13.バルセロナのバダローナ区在住のアブデラック・アルチャーニ(モロッコ国籍)は、2001年7月、3人の私服警官に逮捕され、殴られたと訴えている。両特別報告者が受け取った情報によると、事件は警官が盗難パスポートの件でアブデラック・アルチャーニを尋問しようとしたときに起きたものである。警官らは同人を車に乗せ、幹線道路の脇で車を停めた。そして棍棒で同人を殴り、人種主義的侮辱を行なった。アブデラック・アルチャーニは、サンタ・コロマ・デ・グラマネートの聖霊病院に入院した。警官らはその後、同人が往来で酔っ払っているのを発見し、家に連れて帰っただけだと主張している。両特別報告者は、当該事件に関する司法審査が開始されたことを承知しており、手続の進捗状況および結果について引き続き情報を得たいと望むものである。

14.グラナダに本社を置く輸出企業の経営者、ヌレディーン・ハトゥート(モロッコ国籍)は、2001年11月24日、マラガで3人の警官から侮辱と暴行を受けたと主張している。両特別報告者が受け取った情報によると、同人がマラガのバス停でバスを待っていたところ、高齢のモロッコ人が若い男に乱暴を受けているのが目に入った。他の数人とともに止めに入ったところ、若い男は警官だと名乗った。ヌレディーン・ハトゥートは同じモロッコ人の男性に、相手は警官だから抵抗はするなとアラビア語で説明した。その男性は地元の警察署に連行され、ほどなくして出てきたが、侮辱されたと訴え、またスペイン語を話せない別のモロッコ人がまだ中にいると述べた。ヌレディーン・ハトゥートは通訳を務めようとドアをノックしたが、1人の警官から邪魔をするなと告げられ、押し出され、身分証明書を見せるよう求められた。ヌレディーン・ハトゥートが抗議すると、警官は同人の胸倉をつかんで壁に押しつけ、すぐに同人を中へ引きずりこんだ。同人は3人の警官から人種主義的侮辱を受け、身体検査をされ、麻薬売買の嫌疑をかけられ、同人が開始していたスペイン国籍取得手続を停止すると脅かされた。ヌレディーン・ハトゥートは次にある警察署へ連行され、弁護士に連絡する権利、病院に連れていってもらう権利を1時間以上に渡って否定された。その後、別の警官がやってきて同人をカルロス・ハヤ診療所に連れていった。そこでの診察の結果、首の両側に打撲傷と擦過傷があることがわかった。同人は警察署に連れ戻され、ふたたび殴られた。(......)2001年11月26日、グラナダの当直担当裁判官に、関係した警官に対する告発状が提出された。

15.両特別報告者が受け取った情報によれば、2002年1月22日、在留資格のない移住者が在留・就労許可を求めてアルメリーアの要塞都市、アルカサーバで平和的デモを行なっていたところ、警官隊がデモ隊を攻撃した。衝突の結果、11人が逮捕され、20人が負傷している。警官隊は、300人強のデモ隊を解散させるために催涙ガスとゴム弾を用いた。逮捕者は警察署に連行され、ふたたび殴られた。また、トイレに行くことも許されず、48時間に渡って食べ物と毛布を与えられなかった。政府によると、2人が軽傷を負ったのみだということである。しかし赤十字社によれば、催涙ガスの影響に苦しんだり、警官隊から殴られたり、警官隊の突撃から逃れようとした他のデモ参加者に踏まれたりした者は20人にのぼる。問題の不法移住者には退去強制命令が出された。また、モロッコ国籍の者8人はバレンシアにある外国人用拘禁センターに移送され、悲惨な状態にあるにも関わらず治療を受けられないまま、4日間そこに収容されたままであった。

16.両特別報告者は、若者の移住者を対象とした多くの収容センターの生活環境についても情報を受け取っている。これらの収容センターはセウタとメリリャの地域社会福祉部が運営しているもので、とくにフォルト・プリシマ・コンセプシオン・センター(メリリャ)とサン・アントニオ・センター(セウタ)は極端な過密状態にあるとのことである*。両特別報告者は、以下の個別事件に関する情報を受け取っている。
*保護者のいない未成年の移住者がセウタとメリリャでどのような扱いを受けているかに関する訴えの詳細は、事務局から入手できる。

17.モハメッド・ガルバグゥイ(13歳)はセウタのパトロール隊により路上で逮捕され、サン・アントニオ・センターに連れていかれた。そして、2人の監督官から懲罰房に入れられ、服を脱がされ、素手と棒で叩かれ、平手打ちをされた。監督官らは少年に充分な食べ物を与えず、枕も没収し、床で寝るよう強制した。少年はセンターから脱走し、非政府組織の代表に付き添われて診療所に行って怪我の治療を受けた。2001年7月29日、少年はセウタの第ニ審裁判所に告発を行ない、セウタ警察管区長にも別途告発を行なった。両特別報告者は、これらの手続の進捗状況に関する情報を望むものである。収容センターに入れられた未成年者が虐待を受けたのは、これが初めてではないように思われる。両特別報告者が受け取った情報によれば、2000年にはセウタの未成年者担当検察官が、少なくとも12人のセンター収容児への性暴力に関する告発の調査に着手した。両特別報告者は、この調査に関する追加情報を得たいと考えるものである。

18.サイード・Mおよびハッサン・Uのアルジェリア人移住者2人(前者は17歳)は、2000年10月14日に逮捕されたさいにセウタの地元警官から殴られ、車に乱暴に放りこまれたあと連行された警察署でも暴行を受けた。(......)サイード・Mは警察署で気絶し、彼を殴るのに使われたホースで水をかけられて意識を回復した。むりやり警察車両に乗せられた2人はまた殴られ、逮捕された場所に連れていかれた。そこで民警隊の隊員に発見されて助けを求めたところ、セウタの国立保健施設(インサルード)に連れていかれた。2人の診断書には多くの外傷および切り傷が記録されている。2000年10月19日、2人のうち1人が負った傷の写真をある新聞が掲載した。

19.未成年者であるシハーブ・R(仮名)は、2001年10月末、セウタ警察隊の隊員によって港で逮捕された。少年は泳いでスペイン本土に渡ろうとしていたものである。同人はむりやり車に乗せられて警察署に連れていかれ、それから民警隊の詰所に連行された。その間、同人は両腕、両足、頭を殴られた。棍棒でも殴られたほか、蹴られもした。両特別報告者が受け取った情報によると、同人は民警隊の詰所でまた殴られ、ある部屋に3時間閉じこめられた後、サン・アントニオ・センターに連れていかれた。国立保健施設(インサルード)が2001年11月2日付で作成した診断書には、左手の第二中手骨が永久骨折している旨、記録されている。シハーブ・Rは、ラ・カリダード・デ・ベドルナのカルメル会修道士によって赤十字病院に連れていかれるまで、まったく治療をしてもらえなかった。

20.オマール・H(仮名、16歳)は、2001年9月にタンジールからセウタにやってきた。スペインに到着して数日後、同人は警察に逮捕された。オマール・Hは警察に自分は未成年であると告げたが、にも関わらず警察署に連行され、丸一日留置された。両特別報告者が受け取った情報によると、同人は留置中、背中と太ももを棍棒で殴られたとのことである。その後、同人はサン・アントニオ・センターに収容された。

21.フォルト・プリシマ・コンセプシオン・センターに収容されていた未成年者、サラ・S(仮名)は、2001年10月、他の収容者との口論の後、同施設の職員2人に殴られた。両特別報告者が受け取った情報によると、少年は両足の裏側を平手打ちされ、蹴られたということである。

22.アイマン・M(仮名、16歳)は、メリリャに8年間滞在した後、2001年7月28日にモロッコへ送還された。両特別報告者が受け取った情報によると、同人は収容されていたセンターの所長から、同じセンターの未成年者1人、他の収容センターの若者数人とともに裁判官のところに連れていかれる旨、告げられていたということである。しかし、当該未成年者は全員、直接モロッコ国境に連れていかれ、ナドールのモロッコ警察当局に引き渡された。それから警察署へ連れていかれ、ブーツを履いた警官から足を踏まれた。未成年者らが履いていたのは柔かい靴であった。未成年者らは、どこから来たのか、どのようにしてメリリャに行ったのかと尋ねられた。その後、未成年者らは倉庫に閉じこめられた。釈放前には、約10人の警官から、高電圧の電気棒で殴られた。アイマンはその後、左手首に打撲傷を負っている。2001年7月27日から9月18日の間に両特別報告者が受け取った情報によると、メリリャ当局は保護者のいない未成年者(11~17歳)を少なくとも32人送還しており、2002年にはこの種の送還が最低70件はあったとのことである。(......)

21.フォーロ・プリシマ・コンセプシオン・センターに収容されていた40人の外国人未成年者(13~17歳)は、現行の家族再統合政策に抗議するため、2002年3月4日にハンガー・ストライキを始めた。彼らによれば、国境の向こう側に自分たちを待っている家族などいないのだから、現行政策には効果がない。彼らは、法律で定められた9か月の期間が満了するまでに在留許可が与えられなかったこと、センターの一部の監督官から虐待を受けたことに対しても抗議の声をあげた。

2.スペイン政府からの回答

24.2002年11月14日付の通告により、スペイン政府から以下の情報が送付された。

25.ボアベンチューラ・シマオ・バス氏は、職務執行中であった2人の私服警官(国家警察所属)のところへ、もう1人のギニアビサウ国籍の者とともに近づいたときに逮捕されたものである。ボアベンチューラ・シマオ・バスは警官らに錠剤を差し出し、500ペセタでどうかと持ちかけた。そのとき、警官らはバッジと身分証明カードを示した。シマオ氏が逃走しようとしたところ、警官らは迅速に退路をふさいだ。それから取っ組み合いとなり、1人の警官はシマオ氏に髪をつかまれて道に投げ出され、怪我をした。その怪我は右後頭部の外傷で、緊急の手当が必要とされた。シマオ氏とその仲間はようやく逮捕された。2人が強い抵抗を示し、警官らに向かって叫んだり侮辱したりしたことから、逮捕のためには必要最低限の有形力の行使が求められた。シマオ氏の拘留中、同氏の身体から歯渡りの大きなナイフが発見された。当該事件への対応は適切であり、非拘禁者は拘留の理由および憲法上の権利を告知されている。シマオ氏はサン・カルロス病院で治療を受ける必要があった。診断書が発行された後、同氏は刑務所に再収容された。

26.マルタ・エレーナ・アルチェの事件に関しては、スペイン政府は以下のとおり申し述べる。2001年4月2日、バルセロナのラス・ランブラスを巡回中であった国家警察のパトロール隊のところへ数人の若者がやってきて、マグレブ人の集団に襲われて1人が持っていた携帯電話を奪われたと告げた。警官らはほどなくして、窃盗を行なった集団の特徴に一致する若者の集団を見つけ、歩み寄った。警官らは、その集団のいずれかの者が盗まれた携帯電話を持っていないかどうか確認しようとした。ほどなくして窃盗の被害者が到着したが、拘留された若者たちのなかから暴行の加害者を特定することはできなかった。警官らが身分証明書類を若者たちに返すと、1人の女性が近づいてきて攻撃的に叫びかかり、自分の身分を明らかにすることも拒否した。女性は道の真ん中に立ちふさがり、落ち着かせようとする警官らの試みにも暴力的に抵抗し、バッグから自衛用スプレーを取り出して警官の1人に吹きかけようとしたが、失敗した。女性はパトロール隊を攻撃し始め、ようやく逮捕されてマルタ・エレーナ・アルチェであることが判明した。同人は権利の告知を受けた後バルセロナのペルカンプス病院に移送され、警官の1人とともに治療を受けて、診断書が作成された。同人はその後、シウタート・ベリャ警察署に移送された。ホセ・ルイス・ビリャール氏が同人の弁護士に選任された。弁護士会から後に警察に連絡があったところによれば、選任された弁護士は病気であり、職権で別の弁護士――弁護士会員番号19,632番――が選任されたとのことである。マルタ・エレーナ・アルチェの処遇は、他の被拘禁者に対するものと何ら変わるところはなかった。

27.リビア生まれのパレスチナ人であると主張するイブラヒム・サード・エラーを拘禁したのは、セウタ警察署外国人・在留資格部国境警備班に所属する警官である。逮捕は法律にしたがって行なわれ、イブラヒム・サード・エラーの名前は被拘禁者簿に記録された。イブラヒム・サード・エラーはパレスチナ人であると主張したが、担当官らは、衣服のなかに何らかの身分証明書類があるかどうか身体検査を行なおうとした。イブラヒム・サード・エラーは身体検査を拒否し、検査を妨害しようと積極的に試みたため、やむをえず有形力を行使して検査を実施したところ、身分証明書は何ら見つからなかった。同人は品位を傷つけるまたは屈辱的ないかなる扱いの対象ともされていない。同時に、マドリードにいるパレスチナ人代表の構成員に電話で照会したところ、当該構成員が被拘禁者と直接通話したうえで、話し方から判断して同人はパレスチナ人ではなくモロッコ人であることが確認された。2001年5月8日午後8時、イブラヒム・サード・エラーは退去強制させられた。同人が自分はパレスチナ人であると言い張ったため、モロッコ当局は同人の受入れを拒否して同人を釈放した。イブラヒム・サード・エラーの異議申立ては、2001年8月18日、セウタ第4裁判所の裁判官によって却下された。イブラヒム・サード・エラーはその後スペインに庇護申請を行なったものの担当機関から却下され、同人の所在地は現在不明である。

28.アブデラック・アルチャーニの裁判記録によると、同人はむりやり警察車両に乗せられて移送されたのではなく、自発的にしたがっている。同人が発見されたのはバルセロナ政府次席代表部の正面であり、同人はそこで、公務を済ませるため列を作って待っている外国人から金銭を受け取って場所取りをしていた。かかる行為により、順番待ちをしている外国人のあいだで多くの口論が起こり、警察の介入が必要とされたものである。アブデラック・アルチャーニが酔っていることは明白であったため、警察は同人に立ち去るよう警告し、家まで送ろうと申し出た。車中、同人は誤った住所を教え、車から降りたいという希望を表明した。調査および法医学鑑定報告書の示すところによれば、同人はいかなる時点にも警察から暴行を受けてはいない。犯罪が行なわれたという説得力のある証拠がないため、当該事件は暫定的に終了済みとされた。

29.暴行罪で告発されたヌレディーン・ハトゥートの事件は現在係争中である。審理は2002年10月29日に予定されている。警察の記録が示すところによれば、同人は適切に権利を告知され、マラガ弁護士会所属の弁護士立会いのもとで陳述を行ない、21時間50分の拘留後に釈放された。同様に、同人はカルロス・ハヤ病院の救急治療室に移送され、関係した警官の1人ともに治療を受けている。両事件の診断書は事件記録に添付されているところである。

30.2002年1月21日・22日、シンディカート・デ・オブレロス・デル・カンポ(農場労働者組合)に率いられた一群の外国人が、アルメリーアのロペス・ファルコン広場にある政府次席代表部の前に終結した。国家警察は、人々が同所でキャンプを張るのを防止し、公務のある外国人が外国人事務所を利用できるようにするために介入したものである。外国人事務所が閉まった時点で約500人が残っており、警察は身元の確認を開始した。拘留された9人のうち、8人は「スペイン在住外国人の権利および自由ならびにその社会統合に関する基本法」にしたがって、1人は当局に抵抗したことを理由として、拘留されたものである。1月22日早朝、およそ200人の外国人がセロ・サン・クリストバル(サン・クリストバル丘)に集まってキャンプを張ろうとしていた。政府次席代表部は警官らに対し、群集を解散させるよう指示した。義務づけられているとおり口頭で警告を発した後、警察は定められた手続にしたがって行動を開始した。警察は群集によって絶え間なく攻撃・投石された。拘禁されたのは31人のなかには負傷者もいたが、薄暗いなか、でこぼこの地面を走って転倒したことが主たる原因である。あわせて6人の警官と13人の外国人が負傷し、うち6人は現場で手当を受けた。残りは治療センターに移送され、そこで軽傷と偏頭痛の治療を受けている。外国人の1人は不安性の発作を起こし、午後11時59分まで観察下に置かれた。警察の行動は法にしたがって遂行されたものであり、関与した人物の権利を尊重する配慮もとられた。

31.保護者のいない外国人未成年者の状況について、スペインでは、子どもと家族に関わる憲法上の諸原則も、未成年者法的保護法の規定も、いずれも関連の国際条約、とくにスペインが1990年9月30日に批准した子どもの権利条約を基盤としている。他方、現在施行されている「スペイン在住外国人の権利および自由ならびにその社会統合に関する基本法」およびその実施規則において、保護者のいない外国人身成年者に関して政府がとるべき措置について明確な指針が示されているところである。治安維持を担当する国の部隊または機関が在留資格のない外国人を発見し、その者が未成年者であるかどうかはっきりと判断できない場合には、検察官が保健施設の援助を得てその年齢を確認しようと努める。未成年者とわかった場合、また年齢を確認するための努力が行なわれている期間中は、検察官は、未成年者の保護に関して権限がある機関のもとに当該人物を委ねる。この分野で権限を有しているのは自治州および自治市である。国家一般行政局は、未成年者から事情を聴取し、かつ未成年者保護機関が作成した報告書を受領した後、当該未成年者の出身国もしくはその家族が居住している国に送還するか、スペインでの在留を認めるかを決定する。当該未成年者が未成年者保護機関のもとに9か月間委ねられており、かつ当該未成年者を出身国に送還することができなかった場合は、その統合を確保するため在留資格が認められる。

32.セウタ社会保護機関が運営するサン・アントニオ・センター(現在「ラ・エスペランサ」センター)において未成年者の虐待が行なわれたとする主張については、以下の点を指摘しなければならない。

33.同センターはもともと軍の宿舎であり、1999年に開設された。保護者のいない未成年者約70人を収容し、食事、衣服、宿泊および訓練を提供している。当初、居住環境は理想的なものではなかった。2001年3月、収容者数を約110人に増やすためセンターの増築作業が開始された。女子が同センターに収容されている、または未成年者のレクリエーション区画がないというのは真実ではない。同センターは男子の未成年者用の施設であり、また充分な緑地スペースを有している。同センターに収容された未成年者の出入りは、定められた時間内であれば完全に自由である。未成年者が「狭くて暗くて汚い部屋」に監禁されているというのは真実ではない。未成年者の処遇は専門的識見にもとづくものであり、いかなる意味でも社会的ケアに対する権威主義的アプローチを反映してはいない。未成年者全員に就学の機会が与えられているが、17歳以上の者は出入りが自由であるため、授業に出ない者もいる。スペイン議会高等弁務官であって運営の監督〔を担当している〕次席オンブズマンが、2001年5月10日に同センターを訪問した。次席オンブズマンは虐待の存在を否定し、現在そのような慣行に関する調査は行なわれていないと述べている。

34.セウタにおいて、自国に送還することまたはモロッコの未成年者保護機関に委ねることのできない未成年者が略式手続によって送還された例はない。(......)セウタの外国人・在留資格総担当部は、未成年者らを送還する目的で、マドリードのモロッコ大使館と連絡をとった。大使館の回答は、未成年者の家族再統合を担当するテトゥアン当局と直接協議してほしいというものだった。そこでセウタの国家警察隊委員会はテトゥアン当局と連絡をとり、家族再統合に関する合意書が送付されてから15日の期間内に、その原則にしたがって未成年者らを引渡したものである。

35.保護者のいない外国人の子どもに対し、法律によって受ける資格のあるケアおよび保護を保障する公的な担当機関がセウタに存在しないという主張は、まったく根拠がないものである。セウタ自治市は、法律にもとづき、社会福祉部を通じてその権限および責任を行使している。中央政府職員の権限または責任が地方当局に委任されているわけではない。各地方当局は法制度によって委ねられた職務を遂行するのであり、法制度の濫用に気づいた者は、公的機関・公務員のみならずスペイン市民であれば誰でも、最寄の裁判官または検察官にそのような濫用について通告することが法律で義務づけられている。中央行政当局と自治行政当局とのあいだの調整は常に滞りなく進められており、社会福祉部、移住者社会サービス機関、政府の地域事務所とのあいだで行なわれている。

36.2002年6月20日、モハメッド・ガルバグゥイに怪我をさせたとして告発されたサン・アントニオ未成年者収容センターの2人の職員に関する警察捜査記録が、セウタ第ニ審裁判所に送付された。当該裁判所と連絡をとったところ、手続は打ち切られたとのことである。モハメッド・ガルバグゥイがセウタにいたことが最後に確認されたのは2002年2月22日であり、これは同人が市少年裁判所の命令で拘留された日付である。

37.200[?]年10月14日、民警隊の隊員らは、暴行により負傷させられたという訴えに関して宣誓陳述を行なった。申立人はアルジェリア市民権を有する2人の人物、サイード・モハメッドハッサン・ウアハラミである。両名は、当該事件は前日の午後10時に起きたと主張した。第三第一審裁判所と連絡をとったところ、手続は口頭声明によって4月13日付で打ち切られたとのことである。本件においても前項の事件においても、手続が打ち切られたということは、口頭審理への移行または起訴状の発布に必要な前提条件が満たされないため事件を終了することが裁判所によって宣言されたことを意味する。

38.サン・アントニオ未成年者収容センターで何らかの性的虐待が行なわれたという情報は存在しない。ただし、2000年4月14日、同センターの所長から国家警察隊委員会に対し、性的虐待の対象とする未成年者を探して同地域を車でうろうろする者がいるという連絡があった。国家警察隊未成年者部は捜査を開始し、3人の者を拘留した。当該3名については事件書類が作成され、第四裁判所に身柄が引渡された。3人とも釈放されている。オンブズマンは本事件への関心を表明し、非公式の審判前調査手続を開始した。オンブズマンは関連情報の要約を受け取り、2000年10月2日、手続を打ち切った。

39.シハーブ・Rおよびオマール・Rの事件については、訴えの対象となっている行為に関する記録がなく、主張が真実かどうか確認するのは不可能である。確認が可能であれば、訴えの対象となっている行為について関連の調査を開始することができる。サルー・Sの事件については、両特別報告者の訴えにおける行為の記述は事実に即していない。サルー・Sの負傷は、プリシマ・コンセプシオン未成年者収容センター(メリリャ)に収容されていたもう1人の未成年者によるものである。センター職員がとった行動は、2人の未成年者を引き離し、手当の手配をしただけであった。アイマン・Mの事件については確認できなかった。しかし、訴えにあるような状況下で当該人物が送還されたというのは真実ではない。2002年にはメリリャから72人の未成年者が送還されたが、手錠は一度も用いられたことがなく、未成年者が当局による何らかの虐待を受けたこともなかった。

3.特別報告者の所見

40.特別報告者はスペイン政府に対し、非常に詳細な回答に謝意を表する。スペインはヨーロッパへの絶え間ない移住の通過点になっていることから、特別報告者は、移住者の尊厳が、不法滞在であるか否かを問わず、スペインが締約国となっている国際人権文書にしたがって尊重されるようにするための措置を、スペイン当局がとるよう勧告するものである。特別報告者は、国境警察隊および民警隊を対象として、これらの文書に関する意識啓発のための研修セミナーを実施するよう提案する。このようなセミナーには人権委員会も関与することが可能である。