人権の潮流
性差別に抵抗するための思想であり運動であるフェミニズムは、被抑圧者である女性どうしの連帯、シスターフッドを大切にしてきたが、そこには困難や違和感もまた強く示され続ける。さまざまな差別の軸を生きる女性の多様性や女性間の格差、そこにある権力関係などに関する議論が高まるなか、ともに抵抗するためのシスターフッドとは、という問題とどう向き合えばよいのか。
シスターフッドへの違和感には、女性だからといって連帯できるわけではない、という側面と、なぜ女性だけなのか、という側面がある。後者においては、あらためて「女性」という言葉が持つ社会的文脈を捉える必要がある。少し前から話題となっているアイスランドの映画「女性の休日」は、家庭内でも賃労働でも搾取されるなか「女性の」役割を「休む」ことで社会における「女性の存在意義を可視化」(1し社会に批判的意志を示した出来事や、現代につながるその歴史を描いたものであった。「女性」とは、女性に価値づけし役割を強制する社会の「しくみ」であるということからフェミニズムはスタートしないといけない。
シスターフッドには、女性同士が連帯できないような「しくみ」への抵抗の意味があった。分割統治という言葉のように、多くのマイノリティには支配や抑圧に対して連帯し抵抗できないようさまざまなしくみで分割、分断されてきた歴史がある。女性もまた、生きる手段である男性(夫、上司など)をめぐる女性同士の対立、性における男性支配を正当化する性の二重基準(生殖のための妻・母と快楽のための娼婦)などの、さらには女性とつながっても利益の無いしくみの下、その連帯が阻害されてきた。シスターフッドは、数と力を得る以上にそういった分断のしくみに抗うことに大きな意味を持っていた。
近年、もはやジェンダー平等は実現している、フェミニズムなんていらない、差別は個人的な問題だから自分でなんとかすべき、といった、ポストフェミニズムと呼ばれる状況が問題視されている。現実には差別が残るなかでは、資本主義社会で活躍できる「価値ある女性」と、そういった「価値」がなく無償もしくは低賃金でケア労働を任せられる女性、といった新たな女性の分断が生じる。日本における男女雇用機会均等法が正規労働/非正規労働という女性の分断を生んだことと同様、一見ジェンダー平等を実現させるかのような現象とともに差別や分断は再編される。また、差別は個人的な問題であり女性が自力で乗り越える、という状況はフェミニズムが抵抗してきたジェンダー差別を生み出す社会構造を不可視化する意味でたしかに問題である。しかしながら、ジェンダー不平等を拒否し何かを求める営みに対し、正しいフェミニズムかそうでないかのジャッジが入り、それにより新たに分断が起こることも同時に懸念される(2。
そもそもフェミニズムには、セックスワークの是非や女性の性的主体性、主婦役割、母性、女性のあり方などをめぐるさまざまな立場があり、相容れない主張や対立軸も多く存在してきた。実際、フェミニストを自認していても、自分とは合わないフェミニズムがある、という認識を持つ経験をし、思い悩まれてきた方も多いのではないかと思う。そこに差別や排除が伴ってはいけないことは大前提として、すべての個人の尊重をともに目指すのであれば、これが真のフェミニズムであり、あれは邪道、と、互いをジャッジし合うことは「分断される」社会のしくみにまんまとはまってしまうことにもなりうる。
私自身は日本の草の根フェミニズム活動に関心を持ち活動にも関わるが、それらと接点を持つ以前は、フェミニズムに対し教条主義的、女性原理主義的といった偏ったイメージを持っていた。実際には1970年代から現在にいたる活動の現場では、考えの相違はありつつも、女だからと一枚岩ではなく、男性を敵視するのでもなく、その相違をなんとか調整しようと試行錯誤する営みが行われていた。「にせの大同団結より、ちがいのわかる連帯を」「一つのグループが何かをやってゆく時、微妙なズレや感情のくいちがいが出て/私が間違っているのだろうか、私の考え方が甘いのだろうか、と自問自答する」(3というような認識が多くの活動で共有されていた。
社会的地位、年齢、職業、経済力、居住地、情報格差、健康格差、しんどい人、しんどくない人、しんどいと言える人、言えない人、しんどくないゆえに業務を引き受けがちな人など、場合によっては、抑圧/被抑圧の関係にもなりうる様々な立場の個人が「平場」の活動を継続することの困難性がそれらでは問われていた。例えば以前、フェミニズムグループに関わる方々と実施したワークショップにおいても、そういった困難の解決について「平場は100%純粋じゃないと考える、期待値を下げる」「他人は自分を嫌う自由があると認める、諦める」「解決を求めない」「自分の言葉の暴力性にいつも敏感であること」「自分の権力アレルギーを意識する」「意見の違いが出たときこそ平場の意識を持って議論を尽くす」といったさまざまな提案が出されていた(4。
過去から現在までの草の根のフェミニズムでの具体的な実践を再考し、シスターフッドの困難の解消につなげる糧にしたい思いはある。しかしながら他方でそれらの活動は、結局、近い立場の個人どうしでのものであり、階層、国籍、戸籍、セクシュアリティなど、マジョリティ性、マイノリティ性および差別的構造を持つ社会制度への視点がしばしば不十分であったことは問い直し続けていかないといけない。
問い直しとは、単に社会や他者のことを想像するということにとどまらず、抑圧、被抑圧を含む社会構造のなかで自分がどのような立ち位置にあるのか、というポジショナリティを各自が問う作業でもある。同じ女性であっても、マイノリティ女性かそうでないかによってポジショナリティは異なる。異なるポジショナリティにある人びとがともに活動を行うこととは、「互いのポジショナリティが異なっていることを相互に確認し、共有する」ことであり、ポジショナリティも自分自身のあり方もその取り組みの中で変化していくという(5。
2026年3月、かつての京都の「女のフェスティバル」を30年ぶりに復活させた「女+フェスティバル」(於ウィングス京都)の分科会「部落フェミニズムから広がる地平」に参加させていただいた。そこでの議論や、分科会のきっかけとなった著作『部落フェミニズム』(2025 エトセトラブックス)からは、自身や自身が依ってきた日本のフェミニズムが不可視化してきたものへの反省も含め多くの知見をいただいた。「部落フェミニズムは、構造と同時に主体を問う。構造の変革と主体の変革を同時に行う。」(6という言葉のように、常に動的なものとして、社会や他者、自己のポジショナリティを反省しつつ問い直し、交差する関係を経験していく実践が求められる。
近年では、マイノリティや社会問題に関する複雑な背景や歴史的つながりを知り考えるといった「面倒くさい」ことは避けられ、「わかりやすい」ことが好まれ、結果、一かゼロのように社会が判断される傾向がある。ポストフェミニズム的状況の問題と併せ、複雑な社会にさらに目を向けさせないことで新たな分断が促されるしくみがそこには存在している。それらに抵抗するには、まず、この問題はこういう話、これは敵/味方、などのような単純化や不可視化を自分自身もしていないか、の問い直しが必要である。過去の草の根のフェミニズム活動においてもおそらくそう陥らないよう模索は続けられてきたが、複数の問題が交差し合う社会構造への視点、自分自身がなぜ何かを不可視化してきたかの視点が不足していたのなら、反省とともにアップデートしていかないといけない。そういったなかで、社会変革、というときの社会の最小単位ともいえる人と人とのつながり、シスターフッドは意味を持つのではないだろうか。
<脚注>
1)
『女性の休日』(監督パメラ・ホーガン 2024年)パンフレットより
2)
参考:菊地夏野,2025,『ポストフェミニズムの夢から醒めて』青土社./キャサリン・ロッテンバーグ (河野真太郎訳),2025, 『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』 人文書院.
3)
日本女性学研究会『voice of women』19843/『女から女たちへ』54号1988「共感をよぶ『女・女・女カーニバル'81レポート』」
4)
第15回日本フェミニストカウンセリング学会(2016年5月28日・29日 於石川県教育会館)「分科会『女のグループ』再考~インタビュー調査から見えてきたこと」
5)
参考:池田緑,2025,『ポジショナリティ入門: 個人間に現れる集団の権力を読み解く』現代書館(引用はp35)
6)
参考:熊本理抄 編著,2025,『部落フェミニズム』エトセトラブック(引用はp269)