肌で感じたアジア・太平洋
アジアで唯一キリスト教徒が大多数をしめるフィリピン。しかし、南部(ミンダナオ島、パラワン島、スル諸島)と首都マニラには、総人口の5~6パーセントにあたる約500~600万人ほどのムスリム(イスラム教徒)が生活している。
c.f. Ried, Anthony. (1993) Southeast Asia in the Age of Commerce 1450 -1680.
Volume Two: Expansion and Crisis. Yale University.
地図出典: Perry-Castaneda Library Map Collection, the University of Texas at Austin
地図:東南アジアとフィリピン南部のイスラム王国
なぜ、南部にムスリムが多いのだろうか。ここで地図を眺めてみよう。フィリピン南部と国境を接している国はマレーシアとインドネシア。いすれもムスリム人口が多い。つぎに地図からこの国境線を取り外して、東南アジア島嶼部を一衣帯水の地域として見直してほしい。さすれば、南部にムスリムが多いことは不思議ではあるまい。イスラムはアラビア半島からインド洋をわたり、この地域につらなる海の交易ルートを通じて現在のフィリピン南部に13~14世紀に伝わった。その影響により、15世紀にスル諸島を中心にスル王国、16世紀前半にミンダナオ島南西部を中心にマギンダナオ王国(16世紀前半)というイスラム王国が形成されたのである。
ところがイスラムの影響がフィリピン諸島を南から北上していた16世紀に、反対側の太平洋から艦隊を率いてやってきた男がいた。マゼランである。そして彼は、現在のレイテ島の南にあるリマサワ島でキリスト教のミサを行った。1521年のことである。その後、1571年にマニラに植民地政府を置いたスペインは、権力を背景として住民のキリスト教への改宗を推し進めた。ところが、南部の二つのイスラム王国はこれに従わない。征服に抵抗したイスラム王国とのあいだで「モロ戦争」が展開されることとなる。
なぜ「モロ戦争」と呼ばれるのか。「モロ」とは、服従しない南部のムスリムに対してスペインが敵意と侮蔑をこめて付けた名前であった。十字軍の遠征で対峙した北アフリカのムスリムのムーア人を「モロ」と呼んだことにちなんだものである。しかし、勝手に「モロ」と名付けられたフィリピン諸島のムスリムは、タウスグ人、マギンダナオ人、マラナオ人など、10以上の言語を話す人々で構成されていた。同じムスリムということでつながっていても、自分たちをまとめる民族名はまだなかったのである。
「モロの戦争は、世界的にも最も長い戦争だ。スペイン時代から数えると、400年以上も続いている」と、友人は自嘲気味に語る。いまだ完全には終息していないフィリピン政府とモロの解放勢力の武力紛争の起点を16世紀の「モロ戦争」にまで遡った説明だが、さすがにこれには誇張がある。しかし、モロの解放戦線が結成されたのが1970年前後であることを考えれば、すくなくとも半世紀は続いており、世界的にみても長い武力紛争であることには間違いない。
スペインの植民地支配に抵抗したムスリムであったが、1898年よりアメリカの植民地支配が始まると、次第に現在のフィリピン国民国家の一部として組み込まれていった。アメリカ植民地政府は、ムスリムのような非キリスト教徒を「野蛮人」と見なし、彼らを文明化する名目で学校教育を導入していった。また、本国のネイティブアメリカンの土地を奪っていったように、中北部のキリスト教徒の住民を開拓民として南部に送り出す政策を実施した。この政策にはムスリムの指導者の一部も協力した。
太平洋戦争中の日本軍による占領を経て、フィリピンは1946年に独立する。しかし、独立した政府も南部への入植政策を継続した。その結果、1960年代までにフィリピン南部の人口はキリスト教徒のほうが多くなり、もともと住んでいたムスリムや非ムスリムの先住民はマイノリティになった。政治的にも、経済的にも周縁化されていった南部の住民がムスリムを中心として1970年代前後にモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front:MNLF)を結成し、当初は独立(のちに自決権)を目的にかかげて武力闘争を展開した。この過程で、他者による蔑称であった「モロ」は、抑圧的な政府に抵抗してきた誇るべき民族の自称に転換されたのであった。
その後、1977年(正式には1984年)にMNLFからモロイスラム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front:MILF)が分派した。MNLFとMILFはフィリピン政府と別々に和平交渉を実施してきた。が、後者との和平合意(後述)により2019年に暫定自治政府が立ち上がっており、それにMNLFも参加している。
さて、私が初めてフィリピン南部のムスリム社会を訪れたのは、1994年のことであった。見ず知らずの私を受け入れてくれたのは、ジェネラルサントス市にある「モロ女性センター」という団体の代表として活動していた女性とその家族であった。以来、30年以上もお世話になっている彼女は、私の母のような「姉」である。ちなみにジェネラルサントスとは、1939年にキリスト教徒の開拓民を引き連れてこの地に降り立ったサントス元参謀長のことである。
「モロ女性センター」は1970~80年代の武力紛争によって住む場所を追われ、都市に流れ込んだ避難民を支援する組織として1984年に発足した。1970年代半ばには、姉はジェネラルサントス市に働きに出ていたが、1976~77年頃、周囲の村を国軍が攻撃したため、姉の家族を含め住民は避難を余儀なくされた。父親が病死したため、長女であった姉は家族を支えるために、当時、ジェネラルサントス市にあったドール系のバナナ園で働き始めた。生産するのは日本輸出向けバナナである。捨てられた規格外のバナナを家に持ち帰り、糊口をしのぐこともあったという。バナナ園では農薬禍で健康被害にあう労働者もいた。そこで出会った同じ苦しみを共にした労働者の一人と結婚し、以来ジェネラルサントス市に住み続けている。私たちの食卓に並ぶバナナに、姉のような生産者のストーリーがあることを、私たちは知らない。また、ミンダナオ島で日本輸出向けに開園したバナナ園の一部は、もともとはムスリムなどの先祖伝来の領域であったことも忘れ去られている。
1990年代半ばに私が姉を訪ねたころには、「モロ女性センター」の役割は、避難民支援から海外労働者支援に移っていた。武力紛争の影響で、ムスリムが居住する地域はフィリピンで最も貧しい。ムスリムの教育水準は低く、ジェネラルサントス市周辺ではキリスト教徒による差別偏見もあり、地元の労働市場で職を見つけることは困難である。このような状況を背景として、ムスリムの女性が中東諸国の家事労働者として働き始めた。ところが、給与未払い、長時間労働、休日なし、虐待などの搾取や人権侵害にあう女性が多発した。姉はこうした人たちを放っておくことはできなかったのである。
そして私は今、姉の弟にお世話になって、フィリピン政府とMILFとの和平合意のゆくえを追っている。実は弟は2002年にジェネラルサントス市でショッピングモールの爆破事件が起きたとき、警察当局により容疑者にでっちあげられてしまった。指名手配され、その後は保釈の身になるが、約8年後に無実が確定するまで地元では安全が保障されず、ジェネラルサントス市を離れて、MILFの指導者のもとに身を寄せた。その指導者は、フィリピン政府とMILFが署名した2014年のバンサモロ包括的和平合意(*バンサは国と民族の両方を意味するマレー語)にもとづいて設立された暫定自治政府の基礎・高等・技術教育省の大臣をつとめ、2025年にはMILFの第一副議長に就任した。その後、弟も修士号まで取得し、2024年からは同省の正規職員として働いている。>
バンサモロ包括的和平合意の実施は、政治トラックと正常化トラックという二本柱で進められている。政治トラックとは暫定自治政府から新自治政府の設立までを、正常化トラックとはMILF兵士の武装解除と社会経済的支援、軍事基地の民事転用、移行期正義(和解や社会正義などの実現を目ざして行われる過去の大規模な人権侵害への取り組み)のを実施するものである。このうち、政治トラックは、予定よりも大幅に遅れているとはいえ、進んできている。ところが、正常化トラックは、武装解除された兵士への社会経済的支援が十分ではなく、それ以外も進んでいないとの理由から、2025年7月にMILFは問題が解決するまで次の武装解除を開始しないと決定した。和平合意履行の最終局面に入って、その出口が遠のいている。これからも弟にお世話になりながら、この過程に密着していきたい。