MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 国際人権基準の動向
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.184(2025年11月発行号)
  5. イタリアの「移民・難民」をめぐる状況-移動を捉え直す

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.184(2025年11月発行号)

肌で感じたヨーロッパ

イタリアの「移民・難民」をめぐる状況-移動を捉え直す

山本 恵理(やまもと えり)
イタリア・ボローニャ大学大学院 国際人権協力専攻、ヒューライツ大阪インターン

 「悲劇の語り」を超えて

 イタリアの「移民・難民」の状況と聞いて、2013年10月に相次いだ大規模なボート沈没事故、「ランペドゥーザ島の悲劇」を思い起こす人もいるだろう。10月3日、リビア沿岸からイタリアを目指すアフリカ諸国の人々を乗せたボートがイタリアのランペドゥーザ島沖で沈没し、360人以上が亡くなった。さらに10月11日にはマルタ領海内でも沈没事故が起き、少なくとも34人が死亡している。当時私は10代前半で、詳しい報道や社会の反応を知らなかった。しかし、イタリアの大学院で移動の人類学を学ぶ中で、「移民・難民」が「悲劇の語り」のなかで、緊急事態に巻き込まれた「被害者」、あるいは例外的な状況に置かれた存在として描かれる場面に幾度も出会った。悲劇は共感や連帯を生むが、感情で受け止めるだけでは私たちは涙する観客の位置にとどまる。強い感情を寄せながらも、その背景にある政治が問われないまま幕が閉じれば、国家の「国境管理」や「安全保障」に関する言説は見えにくくなる。

 ランペドゥーザ島の事故についていえば、直接の原因はエンジントラブルによる火災や、乗船者が船の片側に集中したことによる転覆といった「不慮の事故」かもしれない。だが、なぜ人々はあえて危険な海路を選ばなければならなかったのか。なぜ人の移動は、強化され続ける国境規制によって制限され、安全な経路が閉ざされているのか。こうした問いに着目すると、この悲劇が国家による移動管理の仕組みと絡み合い、人為的かつ政策的に生み出されたものであることが見えてくる。

 移動は人々の営みであり、そのルートや手段は固定的ではなく、政策や状況に応じて流動的に変化する。本稿では「悲劇の語り」を超え、国家がいかに移動を管理し、「移民・難民」を国家統治のなかでどのように位置づけているのかを検討したい。

 国民国家の鏡としての「移民」 -サヤドから考える

 アルジェリア出身の社会学者、アブデルマレク・サヤドは、移動を政治的事象(res politica)として捉え、「移民」は国家の在り方を映し出す鏡であり、「移民」について考えることは国家について考えることだと論じている。なぜなら、国家は誰を受け入れ、誰を排除するかという政治的な線引きを通じてしか、自らの境界や存在を定めることができないからである。また「移民」は、国民国家が前提とする統一された言語・社会・文化などがつくる「神話的単一性」を脅かす存在とされる。

 サヤドは主にフランスの植民地期および独立後のアルジェリア人労働移民を分析したが、この枠組みは難民にも適用できる。たとえば難民認定制度は、国家が国境をどう定義し、誰を保護対象とみなすかを選択する、人道性の操作を伴う政治的行為である。したがって、「移民・難民」というカテゴリーは自然で普遍的なものではなく、国家の権力構造の中で政治的に構築されたものである。さらに「移民・難民」は、労働力として迎え入れられたり人道的保護を受けたりしても、「国民」や「市民」と同等の市民権や社会的権利、経済的利益を享受できず、常に社会の周縁に置かれる存在である。

 イタリアの「移民・難民」をめぐる状況と 安全保障の論理

 イタリアの外国籍人口は2025年1月現在約542万人(総人口の9.2%)で、主な出身国はルーマニア、アルバニア、モロッコなどである。メローニ政権の「移民政策」は、受け入れ拡大と排除という二面性をもつ。2023年7月にはEU域外からの就労ビザ枠を拡大し、2023~2025年に約45万人(2022年約8万3000人)を受け入れる政令を承認した一方で、市民権や国籍付与を厳格化している。国家は自ら定める「正規性」(基準)に基づき、外国人労働者を条件付きで受け入れながらも、「移民」というカテゴリーにとどめ、市民権を容易に与えない。これは国家による境界の再定義であり、「移民」は国家の自己定義を映し出す鏡となっている。

 庇護希望者について、2024年の難民申請数は15万8605件で、認定率は約35.9%。主要な手段である海路でのイタリア到着者は前年比58%減の約6万6300人だった。2013年のランペドゥーザ島の事故以降、地中海での人命救助は政府から欧州国境沿岸警備機関などに移り、次第に越境者の監視と国境管理強化が目的となった。2015年以降、NGOも海上捜索・救助(SAR)活動に関与してきたが、2017年頃から政府やEUは、SAR活動が非正規移動を助長するとして、NGOに警察官の同乗義務やリビア沿岸警備隊との協力を課した。違反すると船舶押収や活動停止、罰金などの制裁が科され、救助ごとに指定港への直行義務も課されたことにより、従わないNGOの活動は犯罪視されてきた。それに対し2025年7月、国境なき医師団、SOS Humanity、Sea-Watchなど32の人道支援団体が、国家によるSAR妨害が命を奪っていると訴え、非人道的措置の停止を求めた。しかし国家は、庇護希望者を「脅威」とみなすことで、その対応を「国境管理」と「安全保障」の名のもとに正当化している。

 「移民・難民」というカテゴリーは、特定の人々をラベル付けし、社会的に周縁化する政治的な装置である。サヤドが指摘するように、「移民」は近代国家の「神話的単一性」を揺るがす存在であり、国家は、誰を「内部」に取り入れ、誰を「外部」とするかを決め、内部に受け入れながらも周縁化するという排除や管理の制度を通じて移動に応答している。

 北東イタリア・ラヴェンナから見た国境の姿

 私が住む北東部ラヴェンナの港にも、2025年5月13日、庇護希望者125人を乗せたNGOの救助船Humanity 1が入港した。現場には多くの警察官が配置され、入港を見守ろうとした人道支援者は身分証の提示が求められ、プラカードの文言も記録された。普段は目に見えない「国境」は警察の動員によって強調され、人道支援者さえ安全保障の文脈で管理されていたのであった。

 2025年5月の海路到着者7,178人のうち、74%はイタリア南部のランペドゥーザ島に上陸している。ラヴェンナが北東部に位置することを考えると、救助場所から遠く離れた港を指示し続ける当局と、それに従わざるを得ないNGOやボランティア、無駄な航海を強いられる人々の姿が浮かび上がる。そうしたなか、ラヴェンナ市長のバラトーニ氏は人道的対応に当たる団体への敬意を示しつつも、国が定めたルールに従うことでNGOやボランティアが国境管理体制に組み込まれ、さらにはその強化に加担している可能性に言及し、救助の現実は「非人道的」と批判している。


no184_p12-13_img1.jpg

ラヴェンナ港に入港したNGOの救助船Humanity 1を警備する警察官
(撮影:市民団体Romagna Welcomeアランツァ・フローレス氏)


  「移民・難民」をめぐる「問題化」-日本の場合

 サヤドの議論とイタリアの「移民・難民」をめぐる状況は、決してヨーロッパ特有のことではない。視点を日本に移すと、出入国在留管理庁の「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」は、国家がルールを守らないとみなす者を排除することを目的としている。重要なのは、「移民・難民」というカテゴリーのもと、いかに選別され、管理・排除の対象とされているかという点である。

 サヤドの議論を踏まえれば、これは国民国家が前提としてきた「神話的単一性」、すなわち虚構の「日本国民像」を守ろうとする国家的試みの一端として理解できる。人間の営みである移動を「解決すべき問題」として扱う背後には、国民国家と対にある排除の論理が潜んでおり、「国民を守る」というレトリックによる「移民・難民」を安全保障の文脈で語ることについて問い続けなければならない。

 国家を捉え直すための想像力

 大学院の授業で、担当の教授が「ランペドゥーザ島の事故後に見られた国際的な連帯は、いまどこにあるのか」と問いかけた。大きな悲劇が起きても、生まれた共感はなぜ持続せず、制度や政策にも変革をもたらさないのだろうか。私は国家が描く「内」と「外」の境界こそが、私たちの連帯を阻害している要因の一つだと感じている。この境界線は、私たちの日常生活や法制度に深く根付き、移動する人々に対して継続した共感を持つことや、制度の根本に立ち返ることを困難にしている。

 「悲劇の語り」を超えるには、国籍が異なる故に権利の保障がなされない現行制度に目を向ける必要がある。国家は移動者の生を人権の空白地帯に追いやりながらも、その排除の装置を正当化してきた。だからこそ、私たちは現行の国家や制度の枠組みを超えて、誰もが共に生きられるオルタナティブな社会を想像する必要性がある。その想像力のもとでこそ、制度改革に向けた共感と連帯を構築し、人権を基盤とする社会をつくっていけると私は考える。