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国際人権ひろば No.182(2025年07月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

敦煌を歩く-交差する歴史と祈りの地で

大城 尚子(おおしろ しょうこ)
北京工業大学外国語学院講師

 北京で職を得て3年目が経とうとしている。中国語や歴史にあまり馴染みがなかった私が、中国で働くことになるとは思わなかった。きっかけは知人が「中国で働いてみたら?」という言葉だった。沖縄がかつて琉球国と呼ばれた時代から深い関わりがあった中国に身を置くことで、自分の研究に新たな視点を得られるのではないかと考え、就職活動をした。北京工業大学に縁があり、2022年8月から働いている。最初は言葉や文化だけでなく、大学文化も分からず、戸惑いの連続だった。しかし、翻訳アプリや周囲のサポートに支えられながら、少しずつ生活に慣れてきた。

 ここに来てよかった、と感じる瞬間はたくさんある。現在、私は米軍基地に故郷を奪われた人々の帰還権の研究をしている (1 。琉球国の役人や留学生たちが北京で故郷の発展のために尽力したこと、また、清代の政府が北京で亡くなった琉球人たちの魂がもと来たルートで故郷へ帰れるようにと、かつて北京への入口だった通州の張家湾に墓地を建設したことを知った。中国政府が亡くなった異国の人々に対してそのような措置を取ったという視点から、故郷がいかに大切なものなのかを改めて教えてくれた。

 また、現在私は日本語や日本社会・文化などを大学生に、日本思想と日本民俗、中日文化比較を大学院生に教えている。授業で使用する文献だけでなく、ここで開催されるシンポジウムや学会に参加し、様々な研究を通して、特に近代、日本と中国の間では、民間企業から研究者まで多様なアクターによる文化的・思想的交流があったことを学んだ。

 日常生活では、市場へよく買い物に行く。そこでは中国の伝統菓子ではなさそうなもの(クッキーやビスケット、ウェハースなど)をよく見かける。以前、中国の友人に「これらのお菓子は、いつ頃中国に入ってきたのか」と尋ねたところ、シルクロードを経由して伝わったと話してくれた。大陸ならではの文化流入の経路に興味を抱き、以前から興味を持っていたシルクロードの交差点の街を訪れてみたいと強く思った。そこではミックス文化を持つ沖縄とどのくらい共通性があるのかをとりわけ知りたかった。そこで、2025年4月末、北京でできた友人と3泊4日で敦煌を訪れた。


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北京工業大学南門からの外観(筆者撮影)


 敦煌の街と「ゴビ砂漠」

 敦煌は、シルクロードの要衝で、仏教文化と砂漠やオアシスの大自然が交差する地だ。旅行前に大阪の友人から井上靖の『敦煌』(1959年)を教えてもらった。事前にその小説を読み、それを原作として制作された映画を観て、敦煌のイメージを膨らませた。

 北京から敦煌へ行く間、機内から見える広大な「砂漠」地帯を眺めた。空港を降り立った瞬間、目に飛び込んできたのは、地平線の彼方まで続く荒涼とした大地だった。これが「ゴビ砂漠」だねと友人に伝えると、中国では「ゴビ砂漠」とはいわないということだった。そこで初めて「ゴビ」は特定の砂漠名ではなく、地形の種類を指すことを知った。ネットで調べたところ、砂漠とは、植物などがほとんど見られず、小石や細かな砂粒が波のように連なる大地を指し、ゴビはモンゴル語で草がまばらに生える砂地を意味するという。同じ「乾いた土地」でも、その手触りや足で踏む感覚は異なるという。

 砂丘とオアシス

 旅の初日、私たちは敦煌の代表的な景勝地である鳴沙山へ向かった。そこは、巨大な砂丘群が連なり、かつて旅人たちが風に吹かれた砂の音を「鳴く砂」として聞いた場所だという。実際に耳を澄ますと、砂粒同士がこすれ合う音がかすかに聞こえる気がした。

 続いて訪れたのは月牙泉だ。その名の通り、砂丘の中にぽっかりと浮かぶ三日月形の泉で、乾燥した大地にありながら、今も澄んだ水をたたえている奇跡のオアシスだった。周囲には小さな楼閣が建ち並び、旅人たちの安らぎの場であったことがうかがえた。私たちは泉のほとりに座り、水面を眺めた。遠い昔、ここで幾千ものキャラバン隊が休息したのだろうかと想像を巡らせた。


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敦煌郊外にある鳴沙山のオアシス月牙泉(筆者撮影)


 仏教芸術と砂の冒険

 二日目は、楽しみにしていた莫高窟へ行った。世界遺産にも登録されているこの石窟群は、4世紀から1000年以上にわたり仏教信仰の中心として繁栄した。内部に足を踏み入れると、壁一面に広がる鮮やかな壁画、壮麗な仏像群に圧倒された。古代の職人たちは、限られた材料と技術の中で、これほど豊かな表現を作り上げたのだ。莫高窟には、小説『敦煌』の最後の場面に登場する第16窟と第17窟がある。そこは、1900年に敦煌文献が発見された場所だ。また、修行僧が過ごしたと言われる場所もあり、厳しい環境の中で過ごした彼らの営みに、静かに思いを馳せた。

 ガイドの説明によれば、ここは単なる宗教施設ではなく、東西交流の中継点でもあり、様々な文化や様式が交じり合っているという。ギリシャ風の葡萄文様、インド風の仏陀像、中国風の山水画などだ。それらが一堂に会する空間は、まさに「世界の交差点」だった。

 歴史の扉を開けて

 三日目は、さらに西へと足を伸ばした。そこには陽関と玉門関という関所がある。陽関は、唐代に西域へ、あるいは西域から中国を訪れる旅人たちが通った関所であり、盛唐の詩人である王維の詩にも詠まれた別れの地だった (2 。その後、玉門関へ行った。こちらも古代シルクロードの重要な関所であり、かつては絹や香辛料を運ぶ隊商たちが行き交った場所だった。二つの関所ともシルクロードの敦煌区間の軍事的要衝であるとともに、道中の宿場でもあり、西域へ通じ、アジアとヨーロッパを繋ぐ重要な玄関口である。両関所とも現在は遺跡のみが静かに佇んでいるが、かつてここで交わされた無数の別れや希望を想像すると、胸にじんわりとしたものが湧き上がった。

 敦煌の食

 敦煌の有名な食べ物と言えば、沙葱と呼ばれるネギ、羊肉、新疆ウイグル自治区のナンや羊肉包みパイ、ナツメや杏子を使ったお菓子だという。敦煌でとれる沙葱さこの炒めものを見かけるたびに注文した。沙葱は砂漠でも育つ植物で、独特の歯ごたえがあった。様々な文化が交差する地で見つけた焼き菓子の多くは、北京でイメージしていた中国文化と融合した西洋的な焼き菓子ではなく、砂漠・ゴビ地帯の環境の中で1000年以上もかけて育まれた西アジア色の濃いものだった。

 敦煌には夜市があり、周辺はとても賑わっている。夜市の露店で働く人々の顔立ちは中東系で、目の色も淡く見えた。おそらく、新疆ウイグル自治区の人だろう。私たちはそこで、ナンや羊肉包みパイを購入した。そのナンは、北インドやパキスタンなどで食べるナンとは少し違い、例えるなら厚めのピザ生地といったところだ。塩味がついており、そのまま食べても美味しい。そのほか、私たちはロバ肉が入ったラーメンを注文した。さっぱりとしたスープの中に独特の甘みとコクがあり、クセになる味だった。さらに、炭火でじっくり焼かれた羊肉の串焼きを注文し、スパイスの効いた味付けの食べ物を夜市の喧騒の中で食し、敦煌の「今」と「昔」が交差する瞬間を楽しんだ。


 沖縄が破壊と再生を繰り返し、「新しい文化が日々生成されるサンゴの海」とするなら、敦煌は、乾いた風ときらめく砂が、遥かな歴史と古代から続く人々の営み、そして祈りの軌跡を保存する「シルクロードの博物館」とたとえることができよう。いつかまたこの地を訪れ、今度は砂と風の物語に耳を傾け、この地の静かな息づかいをもっと深く感じたい。そんな思いを胸に、私は敦煌を後にした。


<脚注>

1)
研究概要は、拙著「帰還権と沖縄」上下 『琉球新報』2024年2月15、16日を参照。

2)
CRI online「別れを描く唐詩の世界」(2013年3月4日)
https://japanese.cri.cn/941/2013/03/04/181s205426.htm