特集:日本におけるマイクロアグレッション
2023年に福岡県人権啓発情報センターで特別展『日常の中にある部落差別~"マイクロアグレッション"ってなに?~』が開催された。これは、主に20代の様々な地域の部落出身者21人を対象にしたインタビュー調査をもとに、部落出身者が浴びがちなマイクロアグレッション事例やマイクロアグレッションについての解説をしたパネル展で、私が所属しているBURAKU HERITAGEがプロデュースしたものである。本稿では、この展示と、ベースとなった調査をもとに、部落差別におけるマイクロアグレッションについて考えていきたい。
インタビュー調査では、事前に対象者にマイクロアグレッションについての簡単なレクチャーをしたのだが、私が担当した方の多くがその段階で「ずっとモヤモヤしていた出来事に名前がついていることを初めて知ってスッキリした」「この概念のおかげで自分が経験してきた辛さがやっと説明できるようになる」と話してくれ、そのあとスルスルとマイクロアグレッションに該当する経験が語られていった。
例えば、「一丁目と二丁目がある○○という地域に住んでいる人が、『うちは○○です』とは言わずに『○○"一丁目"です』とあえて一丁目であることを強調する。二丁目は部落であるため、わざわざ自分が住んでいるところは部落ではないと言いたいのだと感じる」、「『部落の子なのに勉強できるね』と、部落の子は勉強ができないという偏見に基づく発言をされたが、発言の主は褒めていると思っていた」、「家の最寄り駅を言うと『どっち側?』とよく聞かれる。部落に住んでいるのかそうではないのか、もしかしたら探られているのではないかと不安になる」など、従来から部落や部落出身者に向けられてきた差別を、若い世代も相変わらず経験していることがわかる。
注目すべきは「部落差別なんてもうない」もしくは「そんなもの知らない」という認識の人から受けたものとして出てきた事例だ。「部落問題を知っているか尋ねると『昔あった差別でしょ』と言われる」(同様のケースとして、東日本に住んでいる部落出身者が「部落って関西とか九州とかの話だよね」と言われる)、「部落という言葉になじみがなさすぎる人が部落差別をブラック差別だと認識し『黒人差別のことですか?』と聞き返される」などが挙がった。
この、部落差別をないと思っている人からの言動に対し、傷つきはしたがどう対処していいかがわからずモヤモヤだけが残ったという経験は、何人もの調査対象者から語られた。部落差別におけるマイクロアグレッションの「あるある」と言えるだろう。自分にとっては部落差別が存在することが自明で、いつ遭遇してしまうかわからず不安や恐怖を抱えているにもかかわらず、目の前にいる人に「そんなものはない」と否定されることで自分たちの苦しみを無視されているように感じるのだ。しかし、相手に悪気はなく、無知ゆえの発言なのだということも理解できる。だからこそ、これが不当な発言だということをどのように説明すればよいのかがわからず、結果的に自分の中だけに閉じ込めることになり、傷とモヤモヤだけが残る。そして、経験する度に自分の中に澱のように溜まっていくのだ。
なぜこんな状況が存在するのか、背景まで突き詰めて考えれば、社会がそう仕向けているからである。社会全体が部落問題はもう過去のものだとして向き合わず、起きている差別を無視することで、「そんなものはもうない」と悪気なく言ってしまえる人を大量に生み出していることがそもそもの原因だ。そうやって部落出身者たちの苦しみを軽視し、向き合わず、無化する社会に生きていることを「無知ゆえの発言」の度に、部落出身者たちは突き付けられる。
このパネル展示は福岡県人権啓発情報センターでの展示期間を終えた後は貸し出しが行われており、それを実際に見に行ったという部落出身者たちからの感想が私のもとに直接届くことがある。その中で印象的だったのが、展示を通じてマイクロアグレッションについて知ったことで、自分自身の経験を「辛いと言っていいとわかってホッとした」「癒された」というものがいくつもあったことだ。差別についての展示で「ホッとした」「癒された」という感想が出てくるのは一見すると奇妙な現象かもしれない。しかし、辛いと感じている自分の経験が周囲には差別だと認識されず、それ故に自分の中だけに閉じ込めるという経験を積み重ねてきた中、マイクロアグレッションという概念によって自分の経験はやはり不当なものだったのだと知ることができたことで、「ホッとした」「癒された」という感想になったのではないかと私は推測している。
展示は三部構成なのだが、まず第一部で部落出身者が感じたモヤモヤした言葉や状況として事例を30パターンほどパネルとして並べた後に、マイクロアグレッションとは何かについて第二部で解説をするという流れになっており、解説部分はこんなパネルから始まる。
『これでは何も言えないよ!と思いましたか?』
差別は、マジョリティが自分たちだけに都合のいい社会をつくり、マイノリティが排除されている社会を運営し続けることで再生産されていくものだ。マイクロアグレッションも、マジョリティ中心社会の文化や慣習、「当たり前」を背景に生み出される。しかしその構造を理解しておらず、差別は個人のふるまいの問題だという認識のもと、「無自覚にしていた言動でも差別と言われてしまうのなら、怖くてもう何も言えなくなってしまう」と感じてしまう人が一定数存在する。だからこそ、そういう心理をあえて可視化した上で、マジョリティとマイノリティが置かれている立場の不均衡さや、その中でマイクロアグレッションが生まれていくメカニズムなど、差別は社会が生み出すものだから、なくしていくためには社会を変えることが必要なのだと、データや動画、イラストなども使いながら解説をしていくという構成にした。それらを踏まえ、第三部では部落出身者に対するマイクロアグレッションが目の前で起きた時に自分ならどんな言動をとるかを考え、会場に用意されている小さな紙に書き込む(その後会場に掲示される)という参加型の展示を設置した。社会を変えていくための一歩として、まず自分にとれるアクションを考えることから始めて欲しいという願いを込めた。また、マイノリティ性の強い人たちがこの展示を見た時に、差別の厳しさを目の当たりにしてしまうだけではなく、自分たちの側に立ってくれる人たちがいるのだということも可視化したかった。提示される言動を実際にマイクロアグレッションに遭遇した時に活用できる「カウンター集」として参考にして欲しいという意図もあった。
マイクロアグレッション展示第一部
最後に、パネル展を通して感じた、マイクロアグレッション概念が社会に拡がっていくことの意義について記しておきたい。マジョリティ側の人たちにとっては、差別の原因を個人のふるまいに帰結して、自分は関係ないと逃げることができなくなるという意味で重要な意味を持つはずだ。では、部落出身者にとってはどうだろう。私自身、マイクロアグレッションは、部落出身者たちの見えづらい、理解されにくい被害を可視化してくれる重要な概念だと感じてきたが、展示を通して様々な立場、年代の部落出身者たちから「スッキリした」「ホッとした」「癒された」という感想が少なからず出てきたことで、改めてその思いを強くした。もっと言えば、部落出身者として不当な扱いを受けたと思ったその経験は、周囲からの理解がなかったとしても、気のせいだ、些細なことだから我慢しなければ、と自分の中に押し込めなくていい、不当だと訴えていいのだと、私たちの背中を力強く支えてくれる概念だと言ってもいいのではないかと思う。自分が感じてきた不当な経験のメカニズムがわかれば、傾向と対策を練ることができる。つまり我慢して押し込めるどころか、対抗していくことだってできるのだ。この概念が拡がっていくことで、部落出身者に限らずマイノリティ性を持つ多くの人たちが、自分の尊厳を大切にしながら暮らしていける社会に繋がるはずである。