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国際人権ひろば No.181(2025年05月発行号)

人権の潮流

『部落フェミニズム』-呼応する「私」 著書紹介

のぴこ
会社員

 不可視化に抵抗する、9人の執筆者が描き出す「私」

 2025年3月に「フェミニズムの本を届ける出版社」エトセトラブックスから『部落フェミニズム』が出版された。熊本理抄 編著、藤岡美恵子・宮前千雅子・福岡ともみ・石地かおる・のぴこ・瀬戸徐映里奈・坂東希・川﨑那恵 著。被差別部落にルーツをもち、部落女性との自己認識をもつ女性9人である。誰かが代表になるのではなく、ビビッドな表紙に、9人の名前が並ぶ。私もそのうちの一人だ。幅広い年代の様々に関心を持つ者が、部落フェミニズムを軸に文章を執筆している。詳しい執筆者紹介(1が書籍にもウェブにも公開されている。ぜひ参照してほしい。


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部落フェミニズム(表紙)


 本書の内容を一言でいえば、被差別の位置で、抑圧され、不可視化されてきた存在を可視化しようとするものである。

 しかし、この一行を記した途端に、では、誰がどの立場から何をどのように可視化しようとするのか、部落フェミニズムは編者・執筆陣たちだけのものでも、2025年になって突然に現れたものでもないのではないか、そのような声が聞こえてくるような気がする。この声が時にマイノリティ女性を不可視化するような声だと分かっていて、なお、「これは私たちの内なる大事な、大切な声だ」と感じ、この声が痛切に自分の身体を突き刺すのを随所に感じながら、それぞれの文章が織りなされていく。

 どういうことか。

 本書の特徴としてもっとも重要だと感じることは、執筆者、それぞれの「私」や「私」の母、祖母、家族のストーリーが必ずどこかで出てくることだ。目次に目を通してみて、実に6個も「私」という字が見える。

  「私」を描き出さねば、―自分がどういう者なのかを書き出さずには、そして自分が今いる位置に連なる者(母、祖母、家族)がいることを記さずには―、部落女性を、部落フェミニズムを、不可視化された存在や状況を、描き出すことは難しいのではないか。そういう風に「私」を描き出すことをもってしか、部落フェミニズムは編者・執筆陣たちだけのものでも、2025年になって突然に現れたものでもない、いう声に応えたことにはならないのではないか。そういう風に感じるということだ。

 もちろん、そこにいる「私」は様々である。読者によって読み取れる「私」も様々ではないだろうか。

 各章点描

 藤岡美恵子による第1章は無知/無関心としてのレイシズム(人種主義)という概念を使って部落女性の不可視化を説明する。一方で、1980年代から1990年代にかけて、マジョリティ女性と部落女性、マイノリティ女性と部落女性のそれぞれの間にありえた連帯の可能性についても言及したうえで、今後の在り方を示唆する。

 宮前千雅子による第2章は、1920年代、婦人水平社にかかわりつつも、運動・学ぶ場・働く場・家族の場で、「二重三重」の苦闘を生きた部落女性が、描き出される。

 福岡ともみによる第3章は、部落解放運動・新左翼運動の中では語れなかった性暴力被害を軍隊と戦争の性差別性を看破する沖縄女性や、フェミニストカウンセリングとの出会いにより、福岡自身や家族をとらえなおしていく様子が描かれる。

 石地かおるによる第4章は、障害者運動、自立生活運動、ピアカウンセリングを通じて、石地の母や祖母の受けた部落差別に思いをはせる。

 のぴこによる第5章は、石地のインタビューを通じて自身の出自をとらえなおす。

 瀬戸徐映里奈による第6章は、「混血」である経験と部落民、朝鮮民族としての経験の欠落を感じながらも、部落出身の祖母や朝鮮出身の母の食卓を通じて、ムラの集合的な食の記憶にせまる。ムラの産業が工業化・産業化され、部落が一方でまたマイノリティになる外国人も取り込んでいく中で、幻になっていく料理。

 坂東希による第7章では、坂東が深くかかわる二つの部落が時代を超えて描かれていく。

 部落差別の被差別者が発していた言葉をひきこもり当事者が発する。「踏まれたもののいたみはふまれたものにしかわからない」。差別の/ひきこもりの経験をしていない、お前らにはわからない、坂東はこの言葉を、個人間のコミュニケーションを遮断するものととらえるのではなく、コミュニティとして受け止めて、何が起きているのかを紐解いていく作業を志向できる言葉として受け止めることができるのではないかととらえる。

 少し脱線するが、大阪の北芝地区のような部落コミュニティにおいて、ひきこもりや不登校相談を引き受けるようになったのは、制度的には偶然だったのかもしれない。同和対策事業の法的な後ろ盾がなくなっていくなかで、2000年代後半に若者支援事業やそのほかの事業のたてつけで、一部の部落コミュニティや部落にかかわってきた社会教育の文脈で、ひきこもりや不登校相談を引き受けるようになった。

 ただ、一方で、隣保館に社会教育主事を置き、解放教育を目指してきた部落、差別による不就学や労働で苦労してきた歴史を持つ部落にとって、教育や労働からはみ出してしまう、ひきこもりや不登校という存在を考え直す力を持ったコミュニティが部落だったという点には、歴史の妙を感じてしまうところが筆者個人の感覚としてはある。

 川﨑那恵による第8章では、4人の聞き取りを通じて、部落を生きた女性の姿を描き出す。部落に生きたとするのは、部落出身者に限らない。むしろ部落出身者による、部落内での非部落、とりわけ女性、の排除をも描き出しながらも、識字教室で自らの生をつかみ取る様子が描かれる。そうした被差別という客体にとどまらないそれぞれの「私」の語りこそが、部落の系譜にある、として、部落女性という認識を、地縁・血縁にのみに限らないことをうたう。

 各章を通して読んだのちの第9章、編者の熊本による「不可視化への歴史的抵抗、主体と権利の奪還」、タイトルにこそ「私」の文字を記されていないが、それぞれの章に呼応した形で、本書全体を串刺しする「私」を展開し、部落フェミニズムとしての自己をどのように主体化するか、締めていくのは圧巻ともいえる。

 無限にあるフェミニズム‐ズの声=「私」と出会う可能性

 すべての「私」が書き出すことができているのか、そうではない面もあるだろう。

 例えば、地名については、本書でも匿名化されたものがほとんどだ。

 インターネットやSNSの存在は今や一つの世間であり社会だが、この空間にこれまで長らくこの社会に存在したあらゆる差別やマイノリティへのヘイトが噴出し、可視化され、先鋭化するようになってしまった。部落差別では地名が最もこのヘイトに曝されやすい。

 また、人権や福祉を前提にしたパブリックサービスは難しく、民間のプライベートな企業体に公共事業を委託する流れは止められない。行政と結託して利権化したイメージの中心のひとつとして部落問題はあり続けている。2023年の秋ごろから、SNSであるX(旧Twitter)において若年者女性への支援活動を行っているNPOの補助金助成が、公金を不正利用しているとして、やり玉にあげられ始めた。この騒動に、インターネット上で被差別部落の暴露を続ける個人たちは、すぐさま反応し、バッシングを続けている。

 その他にも、書けない、出せない「私」。そこに見え隠れする差別やマイノリティ性をどう可視化していくのか、聞いていくのか。

 このように「私」が濃く渦巻く書籍が、「まだ伝えられていない女性の声、フェミニストの声を届ける出版社」として、確かな地位を確立してきたエトセトラブックスから出版されることもまた重要だろう。インターネットやSNS上で先鋭化されたヘイトがある一方で、地殻変動のように響くフェミニズム-ズの声もまたネットワークの網が拾う。筆者の欲目かもしれないが、エトセトラブックスの公式X(旧Twitter)アカウントによる出版を告知するポスト(2への反応では、様々なフェミニズム-ズと出会う可能性を、感じさせるものがあった(まだ出版されていないにもかかわらず)。

 本書が、無限にあるフェミニズム-ズの声=「私」と出会い、そこからさまざまな「私」が描き出されていくことでようやく「私」が不可視化してきた別の誰かの存在や内なる自身、ひいては部落フェミニズムを不可視化してきた状況を現前させることが可能になるだろう。

 全国水平社から103年、 婦人水平社から102年。この先100年に、「私」の不可視化に抗し、可視化していく、一緒にそのバトンをつなぐような本になっていくことを願っている。



<脚注>


1)
部落フェミニズム 出版社紹介ページ https://etcbooks.co.jp/book/burakufeminism/

2)
https://x.com/__etcbooks/status/1892886773241696714