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国際人権ひろば No.173(2024年01月発行号)

特集:植民地主義の克服のあり方を考える

植民地主義はなぜ克服されないのか?-問われるべき日本社会のあり方

上村 英明(うえむら ひであき)
市民外交センター共同代表、恵泉女学園大学名誉教授

植民地と植民地主義

 あまりやったことはないが、一般的な市民が検索する辞書が明記する「植民地」と「植民地主義」をまず紹介してみよう。

  • 「植民地」(『デジタル大辞泉』小学館)
    「ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従属する地域。武力によって獲得された領土についてもいう。」
  • 「植民地主義」(同『デジタル大辞泉』)
    「植民地を獲得・維持し、拡大しようとする政策。または、それを正当化する思想。植民地支配が被植民地の近代化を促進するという考え方が背景にあった。」

 また、こうした「植民地」を日本は持っていたのだろうか。

 同じく小学館が刊行した『日本大百科全書』の「太平洋戦争」の項で、筑波大学名誉教授で、歴史学者であった荒井信一は次のように書いている。

 「日本は日清(にっしん)・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太(からふと)を植民地とし、南満州(中国東北)を勢力範囲化して、アジアにおける唯一の帝国主義国として自立するに至った。」(ジャパンナレッジHP)

言葉は知っていても、考えたことがない課題

 さて、この「植民地」「植民地主義」認識をどう考えればよいだろうか。

 話は飛ぶようだが、近代日本は言葉を巧みにすり替えることで、物事の本質を議論する可能性を葬った。また市民は、発展したと自認する教育制度で育てられ、このトリックに引っかかりやすい。日本の教育は暗記が中心で、考えることや疑問を持つことを嫌ってきたからである。1942年8月に始まった「ガダルカナルの戦い」で、大本営は「撤退」を「転進」にすり替えた。現在でも、福島第一原子力発電所事故に使われた冷却水の海洋放出で、「汚染水」を「処理水」と読み替えている。その点、政府は公式には「植民地」という言葉を使ったことはなく、「外地」という言葉にすり替えた。

 外務省条約局が1955年に編纂した『外地法制誌』第1巻・第2巻によれば、異人種を支配する欧米型の「植民地」は日本にはない。政府の定義によれば、1890年の大日本帝国憲法の施行以前の領土が「内地」と呼ばれ、それ以降の領土が「外地」とされる。その理由は、「外地」に憲法を適用するには法域が異なる(異法地域)ことの調整が必要だからだ。よく考えれば、「外地」「内地」の区分は日本政府のご都合主義的な法制度上の区分に過ぎない。しかし、連合軍を含めて、先述した荒井信一をはじめ多くの研究者が、この「外地」を「植民地」と読み替えてきた。その中で、アイヌモシ?や琉球のような大日本帝国憲法以前の植民地には「内国植民地」・「国内植民地」という言葉が使われた。そして、第二次世界大戦ですべての「植民地」を失い、植民地問題が終ったという言説が拡がった。その後、独立後の旧植民地の旧宗主国との不平等かつ抑圧的な関係を問う「ポスト・コロニアリズム」が議論されるようになった。他方、戦前の大学では、北大や東大に「殖民政策」という科目があり、佐藤昌介、新渡戸稲造、矢内原忠雄などが教鞭を取った。こうした学問は、入植者の目線から植民地の経営を考えるものであり、ここで我々が課題とする住民の自己決定権を奪い、資源を収奪し、人権抑圧と差別の場所としての「植民地」を想定していない。「殖民政策」の授業は戦後GHQに禁止されるが、その意味でも、「植民地」とは何か、日本では実はきちんと議論されていない。

日本の植民地主義の原点はどこか

 先述の『デジタル大辞泉』の表現をみれば、その説明は英国の米国やカナダ、オーストラリアやアオテアロア(ニュージーランド)など「入植者植民地」が想定されているように思われる。最近注目される「セトラー・コロニアリズム(入植者植民地主義)」は、上記の国家を主要な対象に、オーストラリア人の歴史学者パトリック・ウルフによって、1990年代末に提唱された。これは、「ポスト・コロニアリズム」に対し、侵略の構造化と「現在進行形で進む植民地主義」に分析の焦点を当てる。つまり、植民地が「本国に従属する地域」であるだけでなく、本国の中に作られた場合が対象である。最近ではアイヌ民族の歴史をこの理論で再検証しようという動きもある。但し、こうした植民地では植民地主義の「はじめ」を容易に確定できるが、アジア・アフリカの植民地では、この「はじめ」の確定が重要な課題だ。先の荒井信一は、植民地主義の拡大を日清・日露戦争とその軍事拡大と関連付けるが、これも厳密に議論されていない。

 たとえば、日清・日露以前に日本が拡大主義の怪しい国家観を持っていたことはあまり知られていない。尊皇攘夷論者、「松下村塾」で幕末・維新の逸材を育てたと言われた吉田松陰は、下田でペリーの軍艦に乗り込み渡米を図るが、見つかって、長州の獄舎に幽閉される。その時書いた『幽囚録』(1854年:原文は漢文で現代語訳)で彼は次のように言っている。

 「...国は繁栄しなければ衰廃する。よって、国をよく保つ者は、有る領土をむなしく失わないだけではなく、ない領土を増やすのである。今、急いで軍備を整え、海軍の計画を持ち、陸軍の計画も充足すれば、すなわち北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を理によって説得して国内諸侯のうちとし、威力をもって朝鮮に質を納めさせ、貢を奉らせていた古代の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、しだい進取の勢いを示すべきだ。」

 山口県出身で、吉田松陰の研究家でもある福本義亮は、1942年、吉田を指して、「大東亜共栄圏」の始祖と評している。当時の国学者あるいは尊皇攘夷論者が、古代天皇制を持ち出し、すでに日本の拡張主義そして植民地拡大を煽っていた事実に注意を払うべきだろう。近代日本は、昭和の軍国主義ではなく、明治の当初あるいは幕末からすでに植民地帝国を目標にしていたのである。それ故にこそ、アイヌモシ?や琉球国の植民地化も偶然ではないし、教育勅語など明治を礼賛することもこの意味で危険である。

近代化(文明化)と不可視化のトリック

 植民地帝国に植民地側として暮らす人々の心性には、「未開な植民地」を「文明化」してやったという時代錯誤の言説が付きまとうことは、日本を含め、いずれの旧植民地帝国にも共通する。『デジタル大辞泉』の「植民地主義」も言及する通りである。たとえば、教育者福澤諭吉は、自らの「時事新報」1894年7月29日の社説で、日清間の戦争は「文野の戦争」つまり文明と野蛮の戦争だと評した。どれだけ犠牲を払っても中国が野蛮に気づき、文明を悟るならば、日本に感謝するはずである、との論調であった。

 こうした侵略戦争ひいては植民地支配を正当化する考え方は、社会進化論に由来するが、正当化だけでなく、支配された人々を「不可視化」つまり「見えなくする」トリックをこの理論は内包している。

「文明化の使命」は、強制同化政策となって現れる。この同化政策に長年晒された人々は多数者には、見えない存在となる。1960年代、日本政府にとってアイヌ民族は同化政策の完成で「消滅」し、「消滅」したからにはと1899年の旧土人保護法の単純な廃止勧告を当時の行政管理庁が行ったのは1964年のことであった。現在も、政府によれば、「社会通念上」沖縄県民は同じ日本国民であって先住民族ではない。「社会通念」とは多数派の暗黙の了解であるから、ヤマト人の一般常識の範囲内で、琉球民族はいないのである。「社会通念」が不可視化の道具である。他方、国連の人権機関から、先住民族を含むマイノリティの人権政策の立案に、それぞれの集団に関するきちんとしたデータ収集を行うよう何度も勧告されているが、政府はこの勧告も履行していない。プライバシーの保護と言い訳をいうが、これも本来権利の対象である人々を「不可視化」するメカニズムに他ならない。

 日本で植民地主義が克服されない原因をいくつか考えてみた。いずれもとくに多数者にとって深刻な課題である。しかし、これらの点を切り開くことで、光が見える可能性を探したい。