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国際人権ひろば No.172(2023年11月発行号)

特集:国内人権機関設立への課題

韓国国家人権委員会-独立性を確保するための市民社会の苦闘

申 蕙 秀(しん へす)
社団法人国連人権政策センター理事長、元韓国国家人権委員会委員

 2023年は、「国内人権機関の地位に関する原則」(パリ原則)の国連採択30周年にあたる。パリ原則は、国内人権機関(NHRI)が満たすべき主な基準-法律による設置、広範な職務、独立性、多元性、十分な財源-を定めている。韓国でこのような機関を設立し、維持しようとする過程は、政府による支配を阻止し、これらの基準を満たすための苦闘であった。

国内人権機関設立の過程

 韓国における国内人権機関設立の要求は、1993年に市民社会から表明された。ウィーン世界人権会議への出席を控えていた多くの韓国の人権弁護士や市民社会組織のリーダーが、政府に提案したのである。過酷な軍事独裁政権が何十年も続いた後、韓国はようやく勝ち取った民主主義を享受し、人権が尊重され守られる社会への希望に満ちていた。国内人権機関設立の機運は1997年12月の大統領選挙で熟した。第一候補の金大中キムテジュンは、大統領当選後の国内人権機関設立を約束した。しかし、さらに4年の歳月を経て2001年にようやく設立された国内人権機関は、一定程度の独立性を備えたものにとどまった。
 1998年9月、金大中新政権は「人権法」の草案を発表した。しかし、この案は非常に憂慮すべきものであり、国家人権委員会の地位は、法務部(省)の管理下にある「特殊法人」として想定されていた。委員会の構成は、11人の委員のうち、4人の職権上の委員(あて職)は関連省庁の次官が務め、残りの7人は法務部の推薦に基づいて大統領が任命することになっており、これは独立した国内人権機関の必須条件を裏切るものであった。法案は1999年3月の閣議で承認され、採択に向けて4月に国会に送られた。
 市民社会は迅速かつ決然と行動しなければならなかった。すでに約30の市民社会組織が「共同行動委員会」を結成し、国内人権機関の設立を推進していた。法務部の法律案への対応のために、共同行動委員会は1999年4月に再編成され、70もの市民社会組織が参加するまでになり、「正しい国内人権機関実現のための民間団体共同対策委員会」と改称された。法案を阻止するため、人権活動家34人が、民主化運動の中心地として象徴的な場所である明洞聖堂の前でハンストを開始した。
 共同対策委員会は、政治情勢の変化や、国会や政党と政府との交渉の過程で修正を重ねる法案に対処するため、緊急会議を何度も開いた。また、市民社会はオーストラリアから専門家を招き公開討論を実施した。
 こうした真剣な取り組みが実を結んだ。2001年4月の臨時国会で、賛成137、反対133、棄権3で国家人権委員会法が成立したのだ。国家人権委員会は、行政、立法、司法のいずれの権力にも属さない国家機関として設立された。国家人権委員会法の第3条2項は、「委員会は、その権限の範囲内で独立して業務を遂行する」と定義している。理想を言えば、国家人権委員会は憲法改正によって独立機関として設立されるのが良いが、それは不可能であったため、次善の策として、立法によって設立されることになった。

独立性確保のための取組み

 2001年11月25日、ついに大韓民国国家人権委員会(NHRCK)(以下「人権委」とする)が設立された。人権委は独立して機能し、委員会の決定は4人の常任委員と7人の非常任委員の計11人の委員によって行われる。委員は3つの異なるルートから選出される:国会が4人(2人の常任委員を含む)を選出し、大統領が4人(委員長と1人の常任委員を含む)を任命し、大法院長(日本の最高裁長官)が残りの3人を推薦する。委員の任期は3年で、再任は1回のみである。女性団体の要求に従い、委員の4人以上は女性でなければならないとされ、これは後に「特定の性別が10分の6を超えてはならない」と修正された。これらは、一連の交渉の末に定められた韓国の人権委の特徴である。


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 設立当初、人権委は非常に高い社会的評価と尊敬を得ていた。人権委の初代委員長は、独裁政権と闘った有名で尊敬されている人権弁護士であった。人権委の開所日、人々は最初のケースとして申立をするために相談センターの前に列を作った。
 20年間に、人権委の職員は180人から248人に増えたが、人事は政府の行政安全部の厳格な管理下にある。人権委の予算配分にも自律性はなく、企画財政部の統制を受ける。2021年、人権委は国家財政法を改正し、人権委の地位を「独立機関」に格上げしようと試みた。しかし、人権委の試みは、政府の反対により失敗に終わったため、予算と人事は依然としてそれぞれ企画財政部と行政安全部の厳しい統制下に置かれている。

3度の危機を乗り越えて

 これまで、人権委の独立した機能が危機にさらされた大きな出来事は3回あった。最初の危機は2008年1月、政権が進歩派から保守派に交代した時だった。大統領職の引継ぎ委員会は、新政府の組織を改編し、人権委を明博ミョンバク大統領の直属にすると発表した。当時、私は人権委の非常任委員を務めていた。たまたまスイス・ジュネーブで国連女性差別撤廃委員会の会議に出席していた私は、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)にこの状況を報告し、人権委の独立性を損なおうとする試みに迅速な対応を要請した。ルイーズ・アルブール国連人権高等弁務官が、引継ぎ委員会に深刻な懸念を伝える書簡を送り、これはメディアによって広く報道された。国際人権コミュニティからの警告や懸念とともに、この書簡は政府の試みを阻止する一助となった。
 しかし、人権委を弱体化しようとする李明博政府の意志は強く、翌年、第二の危機が訪れた。監査院が監査結果を発表し、効率化のために組織改編が必要だと発表したのだ。2009年4月、人権委の人員は44人削減され、これは総人員の21.2%に相当した。また、組織体制もほぼ半分に縮小した。このような状況下で、委員長は任期満了より4ヶ月早く辞表を提出した。
 さらなる打撃が人権委に長期的な危機をもたらした。李明博大統領は人権分野の経歴がない人物を新しい委員長に任命したのである。市民社会と人権団体はこの人事に抗議し、人権委への協力を停止した。人権委内部からも、2010年11月に3人の委員が辞任した。2011年には、人権委は職員のうち、労働組合の幹部に対する雇用契約を更新せず、抗議した11人の職員を懲戒した。このような騒動があったにもかかわらず、2012年8月、委員長は再任を果たした。2009年からの6年間、人権委はまともに機能しなかった。人権委に対する国際機関からの認定は3度保留され、パリ原則に完全に適合しているとされる"A"ランクを取り戻したのは2016年のことである。

人権のさらなる促進と保護のために

 人権委は司法機関ではない。独立機関として市民に認識されて初めて、適切に機能することができる。人権委が信頼を得てこそ初めて、申立に対する人権委の政策勧告や決定が権威あるものとなり、関連する利害関係者はそれを尊重し、実施するようになる。
 設立当初、人権委に寄せられた申立の半分は刑務所や拘置所からのものだった。アクセスしやすく、職員も献身的であったため、人権委は人々が人権救済を求めることのできる信頼できる国家機関となった。現在、韓国全土に5つの地域事務所が設置され、2022年には10,573件を受理した。人権侵害の疑いに関する申立は、依然として刑務所からのものが最も多く約20%を占め、次いで検察、そして多くの人々が収容されている「保護施設」に対する苦情が多い。人権委は頻繁に政策勧告を発表しており、2022年には33件。そのうち86.9%が受け入れられた。すべての情報は人権委のウェブサイト(www.humanrights.go.kr)にアップロードされている。
 "A"ランクが認定されたとはいえ、パリ原則の基準をすべて満たすまでにはまだ長い道のりがある。韓国社会による継続的な取組みは、真に独立した人権委への道のりを縮めるだろう。そして日本に独立した国内人権機関が設立されれば、夢のような状況になろう。韓国の人権委とともに、日本の国内人権機関は、地域的な人権機構がまだ存在しないアジアにおける人権の促進と保護に貢献することができるからだ。


・(社)国連人権政策センター https://kocun.org/