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国際人権ひろば No.166(2022年11月発行号)

特集:「性と生殖に関する健康と権利」と中絶

産むか産まないかを『選択する権利』が合衆国憲法上の権利から転落? 2022年の合衆国最高裁判所の判決を理解するために

紙谷 雅子(かみや まさこ)
学習院大学法学部教授

 合衆国最高裁判所の2022年6月24日ドッブス判決は、アメリカ社会だけでなく、非常に多くの国でニュースとなり、反響を呼んだ。必要なときにアボーション(人工妊娠中絶手術、以下「中絶」)を選び、きちんとした医療施設を利用できるかを女性の権利の進捗の尺度としてきたアメリカが時計の針を50年も後戻りさせたショックは大きい。1973年のロゥ判決以来、合衆国憲法が保障するはずの『選択する権利』が9人の合衆国最高裁判所裁判官のうちの5人の判断で、そもそも最初から憲法上の権利ではなかったのだと宣言されたことに世界は呆然とした。

2022年のドッブス判決

 中絶は非常に危険であるので胎児の生存を含む医療上の緊急事態のときに限られるとして妊娠15週以降の中絶を禁止する州法に関し、下級裁判所はロゥ判決を参照し州法の執行停止を認めたが、ドッブス判決はロゥ判決の根拠である合衆国憲法「適正手続条項」に関する最高裁判所のそれまでの「実体的」解釈が問題であり1973年から根本的に間違っていたと断言した。
 ドッブス判決の多数派は、『選択する権利』のように憲法の解釈に関して見解が分かれるときには人々の代表、すなわち議会に判断を委ねるべきと、一見もっともな意見も述べる。裁判所が判断する場合には、憲法のその条文ができたときに理解されていたように解釈すべきであり、裁判官の恣意的な思い入れを許してはならないともいう。だが裁判所は、州議会に送られた政治家が行う恣意的な選挙区割のチェックについては消極的である。

ロゥ判決とその問題点

 『選択する権利』を憲法上の権利と宣言した1973年のロゥ判決は、「先例」に従って、家族という私的な事柄についての個人の判断を優先し、『選択する権利』は州が制限できない憲法上の権利と宣言した。
 ロゥ判決の「先例」にあたるのは、夫婦の避妊を規制する州法に対して、私的な事柄についての個人の判断に州は介入できないという意味でのプライヴァシィを憲法上の権利と宣言した1965年のグリズウォルド判決である。グリズウォルド判決が根拠としたのは、1)憲法に明文の根拠がなくても、憲法上の権利であることは認められる、2)憲法の複数の規定が私事、家族に関する判断を尊重していること、3)1920年代に子どもの養育に関する親の選択の権利を憲法上保護するという判決である。つまり、婚姻や家族など親密な関係に関する個人の判断は、憲法に明記されていなくても基本的な権利と自由であるとした過去の裁判所の判断を根拠に、裁判所は『選択する権利』を憲法上の権利と宣言した。
 しかも、ロゥ判決は無条件で『選択する権利』を保護すると宣言したのではなかった。ロゥ判決の多数派の意見は、当時の医学知識に基づいて、妊婦と胎児の生命と健康の保護という観点から妊娠期間を3期に分け中絶の是非を検討し、妊婦の選択という個人の自由と、妊婦の生命・健康の維持と胎児の生命保護という州の利益を比較したうえで判断を示した。妊娠段階を問わず、妊婦の生命が危機にさらされていない限り、他の要素を考慮することなく中絶を全面的に禁止する州法は、1973年、このようにして違憲と判断された。
 ロゥ判決にはいくつか弱点があった。まず、宗教的な理由などから、生まれる前の胎児の生命は妊婦の生命と同等以上に重要であると信じて、生命の比較を拒絶する立場からは受け入れ難い判決であった。また、妊娠期間を3つに分ける説明はわかりやすかったが、医療技術の進歩で胎児が早期出産でも生きられる時期が前倒しされると、基準としては曖昧であるとの批判を受けることになった。
 憲法にぴったりの条文がない(婚姻関係に基づく)プライヴァシィを保護すると宣言した1965年のグリズウォルド判決は、憲法にはない内容について、解釈で憲法上の権利と宣言したと非難された。憲法上のプライヴァシィを根拠にしたロゥ判決は、グリズウォルド判決以上に非難されたが、合衆国最高裁判所が否定しない限り、先例として解釈の基礎とせざるを得ないというのが今までの判決の流れであった。突如として、ロゥ判決をそもそも最初から間違っていたと断罪したドッブス判決の結果、同じく憲法上の明文規定による保護がない夫婦間の避妊や同性カップルの法的婚姻は憲法上の拠り所を失った。州の制限や禁止が復活する危険はゼロではない。

『選択する権利』は女性の権利?

 『選択する権利』を平等条項から説明する立場には、1974年のゲダルディッグ判決が立ち塞がる。妊婦は全て女性であるが、全ての女性が妊婦ではないと裁判所が指摘したことが障壁となって、平等を達成するためには本人による生殖能力の管理が不可欠という平等保護条項に基づく『選択する権利』の主張は性差別・平等の問題として正面から取り上げられなかったが、その背景には、アメリカの平等保護の法理がステレオタイプの強制を否定する方向で発展してきたことがある。
 だが、裁判所の保守化は徐々に進行しており、妊娠後期の中絶手法に関する2007年のカーハート判決では、対等な市民として平等を達成するためには身体のコントロール、つまり生殖の権利と自由が認められるべきという意見は少数派にとどまり、多数派は女性には独自に重大な決断ができないとする判決を下した。本人の主体的な生殖能力の管理の保障が市民としての平等実現の鍵であるという発想には程遠い。

ドッブス判決の影響

 ドッブス判決には予兆があった。2021年9月に妊娠6週間以降の中絶禁止法は合憲の可能性が高いとの合衆国最高裁判所の判断があり、2022年5月には裁判官の間で回覧されていたロゥ判決を覆すという草稿がリークされた。
 そこで、ロゥ判決が覆されるのは時間の問題と考え、13の州は「ロゥ判決が覆されたならば直ちに中絶を禁止制限」する州法を準備した。中絶の実施を犯罪とする11州と中絶可能な施設が全くなくなった2州以外でも、胎児の心臓鼓動確認(通常5ないし6週)後の中絶を禁止する2州があり、また、妊婦の生命、健康、犯罪の結果の妊娠といった例外を認めない州、州境を越えた手術実施を犯罪とする州もある。中絶に敵対的な州では中絶可能な施設が閉鎖を余儀なくされた。
 世論調査では合衆国全体の約7割が『選択する権利』を支持しているという。州民投票の結果、州の憲法で『選択する権利』を保障することになった州も出現した。『選択する権利』に好意的な州だけでなく、隣国メキシコも、越境する妊婦を勧誘する姿勢を見せるが、それは利用できる人と利用できない人との社会的経済的格差を一層際立たせる。
 2022年11月に中間選挙を控え、 連邦議会ではドッブス判決をめぐって激しい応酬が繰り返されている。議員が合衆国最高裁判所の判決を批判して複数の法案を提出することはしばしばあるが、それが法律として成立することは滅多にない。中間選挙の結果が状況を変えるかもしれないが、民主党が上下両院で多数派を維持する選挙の結果となっても、議員に対する党議拘束はなく、議員は政党よりも選挙区の意見を尊重する。『選択する権利』を保護する連邦法成立の保証はない。
 ドッブス判決にはトランプ大統領が在任中に指名した裁判官3人の存在が大きい。裁判所の多数派の「気が変わる」、あるいは終身である裁判官が交代して『選択する権利』が支持されることは、すぐには起こりそうもなく、避妊や婚姻の権利に影響が及ぶ可能性は残る。

最後に

 国連などで議論されている生殖に関する権利と自由の主張に対するアメリカ法の影響力は、合衆国自体が女性差別撤廃条約を批准していないこともあって小さいし、ドッブス判決が世界の生殖に関する権利と自由の状況を激変させることは考えにくい。日本は、中絶した妊婦処罰を原則とする刑法が存在するものの、母性保護法により例外として中絶を行う医療従事者の刑事免責が認められている状況である。妊婦に生殖に関する権利と自由はなく、また配偶者の同意を求める慣行が維持されるなど、中絶が妊婦の『選択する権利』として保証されていないという日本の現実を確認する必要がある。