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国際人権ひろば No.144(2019年03月発行号)

特集 世界人権宣言誕生から70年

国際人権基準の進歩・成果・課題と日本

林 陽子(はやし ようこ)
弁護士

 国際権利章典(International Bill of Rights)から世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)へ

 1945年10月に国際連合が発足してから3年後、パリで開かれた第3回国連総会において世界人権宣言が採択された。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と高らかに宣言するこの文書は、その後歴史上最も多くの言語に翻訳された文書であるとも言われている。宣言の起草に大きな役割を果たしたエレノア・ルーズベルト(米国のルーズベルト大統領夫人)は、「人権はみんなのものだから、誰もがわかるやさしい文章で書かれなければいけない」という信念を持っていた。

 世界人権宣言の当初の草案は、International Bill of Rightsと題され、国際社会において国家が人権を守ることをお互いに約束する体裁をとっていた。しかし国連人権委員会での85回もの会合を経てできた宣言案は、普遍的な(Universal)価値を持つ人権を国家だけではなく個人も組織も守らなければならないという内容に形を変えて採択がなされた。

 世界人権宣言は宣言であり法的拘束力はないというのが通説であるが、この宣言の中身に法的拘束力を与えた国際人権規約(自由権規約と社会権規約)が1966年の国連総会で採択された。また1965年の国連総会で採択された人種差別撤廃条約をはじめとして、第二次大戦後に成立した人権条約は、その多くが締約国による条約の実施を監視するための委員会を持っており、草創期の国連人権委員会が目指した「法的拘束力のある国際的な人権基準」は徐々に形を整えていった。

 日本と国際人権機関

 日本は1956年に国連加盟が認められた後、1979年に国際人権規約を批准したが、国連の人権機関で目に見える形で活動を始めるのは1980年代に入ってからである。1981年に日本は初めて人権委員会の選挙に当選した。また1984年には、人権委員会の諮問機関である「人権の促進と保護に関する小委員会」(旧名称は「差別防止および少数者保護に関する小委員会」)に初めて日本から2名の委員(正委員の竹本正幸教授、代理委員の安藤仁介教授)を送り出した。

 現在、9つの国連主要人権条約のうち、日本は8つに批准(または加入)し、そのうち6つに日本人の委員が選出されている。これは委員の数としては国連加盟国中、最大である。しかし、日本が特異なのは、これだけの数の委員を出しながら、9つの人権条約すべてに成立している個人通報制度をひとつも受諾していないことである。個人通報制度になぜ入らないのかについては、国会で野党議員から繰り返し質問がなされている。政府の回答は、個人通報制度が日本の立法政策に及ぼす影響や実施体制について検討中である、ということにとどまり、説得的な説明はなされていない。日本が人権条約に関心を持ち日本人の委員を輩出していることは良いことであるが、それによって日本政府はどのような人権政策を実現しようとしているのか、もっと説明をすべきである。

 世界人権宣言からの70年

 世界人権宣言成立からの70年間に、世界は大きく変わった。1989年にベルリンの壁が崩壊し、それに伴い東西冷戦体制が終わり、東・中央ヨーロッパの独裁主義国家が崩壊した。市場のグローバル化が加速化され、新自由主義の下で弱肉強食の格差の拡大が先進国でも途上国でも見られるようになった。旧ユーゴ、ソマリア、スーダン、シリア、アフガニスタンなど武力紛争とそれに対する強国の軍事介入は後を絶たない。紛争や経済格差は移民・難民・国内避難民の激増をもたらした。また原理主義、過激主義が一部の若者たちを惹きつけている。米国同時多発テロ(2001年)や近年のフランスなど欧州国内での相次ぐテロは、「外国人」が加害者とは限らず、むしろ実行者には先進国で疎外されて育ったマイノリティが目立つ。そしてこれら過激主義のほとんどすべては女性差別と結びついており、異教徒の女性を拉致し性奴隷にするもの(ISによるヤズディ教徒への暴虐行為など)、学校を襲撃して少女たちを拉致する勢力(ナイジェリアのボコ・ハラムなど)の存在も明らかになっている。ノーベル平和賞を最年少で受けたマララ・ユスフザイが、パキスタンのスクールバスの中でタリバンから銃で襲撃されたことは記憶に新しい。

 そのほか、気候変動や感染症、核兵器の拡散など、人類に対する脅威は新しい形で再生産されており、それに対抗するためには、国際人権法もより強靭で効果的なものに深化されなくてはならない。

 生ける文書(a living instrument)としての国際人権法

 それでは、国際人権法は過去70年間にどのように発展してきたのだろうか。私は次の3つが最も重要な到達点であると考える。

 第一に、「人権を保障する国家の義務」とは何なのか、その中身についての議論が進んだことである。国家は人権の主体である個人を差別しないだけではなく、過去から続いている差別を積極的に解消する義務があることが、条約機関のガイドラインや多くの国の法令や実践で確認されてきた。歴史的、文化的、社会的につくられてきた差別をなくすためには、ポジティブ・アクションによって被差別集団を後押しすることや、社会の各層に向けた人権教育が必要であることも、国際社会の共通の認識となりつつある。

 第二に、差別を考える際に、対極にある「平等」を実質的に捉えることを人々は学んできた。誰の権利がどう守られ、どう侵害されているのかについて、法律の条文を見るのではなく、社会に及ぼす実態を見ることの重要性が認識され、「実質的な平等」(substantial equality)が判断の基準とされるようになった。

 第三に、複合差別への理解が進んできたことが挙げられる。差別は交差し、複合することでより深刻化する。女性差別についても、人種や国籍、皮膚の色、宗教、障害の有無、性的指向などさまざま状況に応じた救済や支援のあり方が必要となる。まだ日本社会において複合差別という言葉が定着していなかった時代から、女性差別撤廃委員会に地道なロビーイングを展開したIMADR(反差別国際運動)、部落解放同盟女性運動部の活動は特筆に値する。

 女性差別撤廃条約の発展的な展開

 同様に、「生ける文書」としての女性差別撤廃条約も、1979年の国連総会で採択されてから40年間の間に現代世界におけるジェンダー認識を基礎として、大きな発展があった。

 一般的に、近代の女性運動が始まった18世紀後半から第二次大戦直後の20世紀半ばまでは、第一派フェミニズムの時期と呼ばれ(時期については論者により相違がある)、参政権・雇用の権利・教育の権利という「女性三権」の獲得が目指された。日本国憲法の施行(1947年)により、日本では一応これらの権利は形式的には獲得された。続く第二波フェミニズムは1960年代後半から始まり、女性たちは男女の間の役割分業の見直し、リプロダクティブ・ヘルス・ライツ、女性への暴力からの自由などを求めて闘った。米国でベティ・フリーダンの「新しい女性の創造」(原題はFeminine Mystique)やボストン女と健康集団による「からだ 私たち自身」(原題はOur Bodies Ourselves)などが発刊されたのもこの時期である。そして、21世紀に入り、第三波のフェミニズムの実践が始まっていて、それは多様な主体を巻き込んだ、複合差別を克服するための運動である。

 日本における人権課題

 世界人権宣言80周年に向けて、この先10年の日本の人権課題は何だろうか。包括的な差別禁止法を作り、救済制度を持つ国内人権機関を作ること。人権条約の個人通報制度を受諾すること。質の高い人権教育を実践すること。人権侵害の当事者を支援する市民社会組織を物心両面で支援すること。いずれも古くて新しい課題であるが、何周年という節目の年に意味があるとしたら、過去を振り返り達成できたことと足りなかったことを認識して次の節目につなげることだろう。世界人権宣言80周年には、皆さんと共に、この10年の間に個人通報が受諾できた、国内人権機関もできたということをお祝いしたいと思う。