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国際人権ひろば No.72(2007年03月発行号)

アジア・太平洋の窓【Part1】

日タイ関係の過去・現在そして未来 -日本・タイ修好120周年に思うこと-

松尾 カニタ (まつお かにた) FM CO・CO・LOプログラムスタッフ

  07年3月に入って、タイからの友人がたてつづけに日本へやってくるようになりました。3月から5月半ばにかけては、学校が長い夏休みに入り、中流階級の人たちは家族連れで海外へ出かけることが多いからでしょう。

  先日帰国したばかりの友人は、自動車販売代理店を経営していて、昨年の売り上げが評価され、同僚200人とともに名古屋、京都、そして大阪へ招待されて来ました。皆さんは食べ物も、まちも、そして人もいいと、日本のことが大好きだと口を揃えます。「日本が好きだ」という意見は、日本の当局の調査結果にも現れているようです。2002年11月、日本の外務省が発表した「日本に関するASEAN(6カ国)世論調査」によれば、89%ものタイ人が日本を友好国と見なしているとして、対日感情は良好でその要因のひとつとして「日本はアジアの一国としてアジアの発展のために積極的に役割を果たしている」との評価があったと、外務省は結論づけています。ちょっと役所ぽい見方かなあとも思いますが、確かに日本政府の努力もありましょう。同時に、長い歴史のなかで培われてきた交流から生まれた、友好関係も大きいように思います。

■琉球泡盛とシャムのラオロン(廊酒)


  日本とタイ両国の間には、長い歴史があります。600年以上前、まだ「シャム」と呼ばれていたアユタヤ王朝と琉球王朝の間には、貿易船が頻繁に往来し、交流が盛んでした。日本からは絹や陶器などがタイに運ばれていたのに対して、タイからは鹿の皮、象牙、動物の角、錫、鉛などのほか、香花酒、椰子香花酒が輸入されていました。一説よれば、沖縄の泡盛はもともとタイのラオロン(廊酒)を原点とするものだとか。大正時代から日本政府は、「泡盛」のためタイから特別に砕米の輸入を認めて、このタイ米と黒麹菌によってはじめて沖縄・琉球泡盛がつくられ、合致した伝統的な味になったとも言われています。一方、タイには昔から伝わる「プラー・リュウキュウ」と呼ばれる魚のみりん干しがあります。その由来について定かな資料は残っていませんが、琉球王朝から伝わったものではないかと考えられます。タイのラオロンとみりん干しの魚の組み合わせは、なかなか合いそうです。

■山田長政や政尾藤吉が大活躍していました


  時はアユタヤ王朝後期の1600年代。駿州沼津の城主大久保忠佐の轎夫だった山田長政(?-1630年)が、朱印船に便乗してアユタヤに渡り、貿易業に従事していました。やがてアユタヤの外国人居留地に形成された日本人町の頭領に就任し、当時のソンタム王の信頼を得て「オークヤー・セーナー・ピムック」との称号をもらい日本人傭兵隊長として活躍していました。日本人町には、最盛期に凡そ1500人もの日本人が住んでいたと言われます。しかし、ソンタム王の死去後の1630年、政局争いが勃発、長政は反乱制圧のために赴いた南部のナコーン・シータマラートで毒殺されたと伝えられています。
  幕府の鎖国政策実施まで、両国の間に数回の使節団の派遣があったようですが、その後の200年にわたる鎖国の結果、アユタヤの日本人の数も減り、やがて日本人町も消滅してしまいました。この山田長政の話は日本を含めて様々な国から外国人がアユタヤを拠点にして国際貿易を行い、アユタヤがたいへん繁栄していた証であるとして、今でもタイの中学生の歴史教科書に記されています。現在のアユタヤ市内に残っている日本人町といわれる場所には、日本の関係者によって石碑が建立されており、時々日本人観光客の姿を見ることができます。

  アユタヤ王朝から約300年後のバンコク王朝時代、日タイ関係史のなかで山田長政に劣らないくらい、名を残している人物がもうひとりいます。愛媛県出身の法律の専門家で、1901?1912年までの12年間にわたってタイのラーマ5世王政権の法律顧問補佐をつとめた、政尾藤吉(まさおとうきち:1871-1920年)がその人物です。当時、日本とタイは国交を結んで互いに公館をそれぞれの首都に置いていました(1897年)。政尾はタイの駐在公使・稲垣満次郎の招きで、タイへ渡り、後にタイの近代法典を起草する政府委員の一人に任命され、タイの刑法の基礎づくりに貢献しました。そして、1901年からは、タイの法務省の司法顧問に就任し、退任の1912年にはプラヤー・マヒトーンマヌーパコーンとの称号をもらいました。政尾はその後、日本に帰国して立憲政友会に入党、代議士をつとめた後、1920年に再びタイ駐在公使としてバンコクに赴任したが、現地で脳溢血に倒れ、死去しています。

■アジアのなかで日本と最初に国交を結んだのは、タイです


  日本とタイ両国が国交を結んでから今年で満120年になります。1887年当時、ロンドンのビクトリア女王即位50周年祝賀式典に参列したタイ外務大臣テーワウォン・ワローパコーン親王は、ヨーロッパ諸国やアメリカを視察後、日本に立ち寄りました。この時、日本側は公式な外交関係樹立を申し出、1887年9月26日東京にて「日タイ修好条約」が調印。つづいて1897年、バンコクで「日タイ修好通商航海条約」が締結され、互いに公館が設置されることになりました。アジアの中で、日本が修好条約を結んだ初めての国がタイということになります。

  両国が早い時期に条約締結に合意した背景には、互いの思惑が合致したためと見られます。当時、アジア諸国は西欧列強の植民主義に脅かされていた時代でした。日本は1853年のペリーの来航によって開国をせざるをえず、幕府政権もついに崩壊し、明治維新のもとで近代化が始まりました。2年後の1855年、タイもイギリスとボウリング条約を締結、王室独占貿易が禁止され、イギリスが定めた税率で貿易をせざるを得なくなるほか、治外法の権限も認めなければなりませんでした。当時のラーマ4世王政権が取った対策は、日本と同じく「近代化」で国を発展させることでした。その後、日本は急ピッチで近代化を進め、欧米列強が力を及ぼしていたアジア諸国においても、自らの存在を示そうとして、欧米列強と同じようにアジア諸国にも通商条約の締結をつきつけることになります。一方、タイは法整備などの近代化が遅れ気味であるなか、国の独立を保つためには、特定の国だけにとどまらず広くそして多くの諸外国と同じ条約を結んだ方が、バランス・オフ・パワー的に得策と判断し、日本との条約締結が不平等であることが分かりながらも、外交政策の上では、国の独立につながるもの判断、合意したものです。

  このように、両国にはさまざまな思惑があったなかでの条約締結でしたが、1897年、日本政府はバンコクに公館を設置し、初代駐タイ公使には条約締結を自ら推進していた稲垣満次郎が任命されました。タイに赴任している間、稲垣満次郎は法律顧問の政尾藤吉を派遣したり、タイの農務省に蚕業課を設置させ、外山亀太郎など10名の専門家や、教育家の安井てつとらを送り、ラーチニー女学校の設立に当たらせるなど、精力的に活動をしました。同年、タイからはプラヤー・リッティロン・ロンナチェート少佐が初代駐日公使に任命され、東京に第5番目となる在外公館、アジア域内では第1番目となる公館を設立しました。

■太平洋戦争のなか、日タイの関係は微妙なものに


  太平洋戦争が勃発する寸前の1941年12月まで、タイは中立国を表明していたが、日本帝国軍のタイ上陸を目前に、当時のピブーン政権は日本軍の駐留を認め、日タイ同盟条約に調印、日本軍の物資調達に協力、翌1942年1月に英米両国に宣戦布告しました。と言ってもタイ側の一連の行動はあくまで表向きでありました。当時、ピブーン首相よりも、実権を掌握していたのは、ラーマ8世王の輔弼役をつとめたプリディーで、彼を中心に「自由タイ」組織が結成され、そのもとで抗日運動が終戦まで平行して展開されていました。終戦後、タイは英米に対する宣戦布告が無効であると宣言し、認められたため、敗戦国扱いを免れることとなりました。そして、日本軍とも交戦せず、他のアジア諸国のように戦後処理の問題を引きずることもなく、戦後から友好関係を再開することができました。タイ人の間で、日本を「友好国」と考える人が多いのは、太平洋戦争の最中での日タイ両国のこのような微妙な関係に起因するところが大きかったと思われます。

■あこがれの国・日本/駐在員天国のタイ


  1985年の「プラザ合意」以降、日本企業は相次いでタイに製造工場を設置し、2007年現在では、進出した日本企業は約3500社に上りました。日本企業の進出によって、雇用をはじめ、不動産の有効利用、輸出増大などがもたらされ、経済も成長しました。また、年間約120万人の観光客が日本からタイを訪れ、タイの基幹産業のひとつである観光産業にも大きく貢献しています。バンコクの都心・スクンウィット通りの一角には、日本人向けの高層マンションやスーパー、病院、語学学校、飲食店などが軒を連なり、アユタヤ王朝の日本人町を思わせる「日本人街」が形成されています。さらに、インターネットの普及でタイの若者の間では日本のファッション、音楽、アニメ、日本料理などが大ブレークになり、日本は多くのタイ人にとってあこがれの国として位置づけられています。駐在員そしてタイを訪れた日本人の多くからは、「タイは住みよい国だ」と口を揃えます。

■国境を越えて行き交う時代へ


  2006年現在、日本を訪れたタイからの観光客は約11万人。タイを訪れた日本人観光客の人数には及びませんが、両国の間に人々が行き交う時代がやってきたのは間違いないです。先日、私と同じマンションの男性は俳句仲間でバンコクから帰ってきたばかりの報告をしてくださったかと思うと、また昨晩には、4月に家族連れで2週間お花見に東北地方を訪ねる友人一家や、今年の春から東京の女子高に約2ヶ月交換留学で来る予定の近所の娘さんからも相次いで連絡をもらいました。

  これまで、政府や民間企業の果たす役割も大きかったかも知れないが、これからはひとの交流が中心となる日本とタイ両国の関係になります。日・タイ修好120周年の今年こそ、「ひと」を中心とする、新たな交流が深まることを願いたいものです。