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国際人権ひろば No.71(2007年01月発行号)

特集・アジアと大阪の教育者が対話した「人権教育国際会議2006」 Part3

アジア・太平洋地域の人びととの対話を通じて、この国の人権教育を相対化する

阿久澤 麻理子 (あくざわ まりこ) 兵庫県立大学教員

■なぜ、「対話」するのか


  ヒューライツ大阪が1998年に開始した「アジアの学校における人権教育」のプロジェクトは、すでに8年を経過した。ポスト冷戦期、各国では民主化の進展とともに、市民社会からの要求を受けて、人権を実現するためのさまざまな改革が進んだ。人権教育もそのひとつである。各国では、独裁政権下での人権侵害がふたたび繰り返されることがないように、市民が自らの権利を学ぶための人権教育と、市民の人権を実現する責務を負う人びと(公権力を有する人びと)の研修が始まった。なお、市民を対象とした人権教育を実施する場合、公教育はもっとも重要な手段である。というのも、公教育、とりわけ義務教育はもっとも多くの対象者に対して行われ、将来その社会を担う世代に、人権教育を実施する場となるからである。したがって、学校における人権教育は、人権を普及するためのもっとも有力な手段である。ポスト冷戦期に、各国で学校における人権教育が始まったことは、こうした点から評価することができるし、ヒューライツ大阪がこのような重要な取り組みを8年にもわたってサポートし続けてきたことは、特記すべきことである。
  とはいえ、ヒューライツ大阪のプロジェクトが開始した1998年当時は、人権教育をテーマにした現場レベルでの対話の機会もまだ少なかった。当初は、参加者は各国の経験や課題を持ち寄り、その共通点やちがい、これから協力すべきことは何かと、まさに「手探り」の対話を始めたのであった。
  私じしんも、初めて北東アジア地域の会合に参加した際、あまりに異なる各国の社会的文脈に面くらい、対話の難しさに途方にくれた。しかし、それは私が他国の状況を知らなさすぎたからである。国や社会が違えば、そこで起こっている具体的人権問題は違うし、アプローチの仕方も異なってあたりまえである。しかし、もっと大切なことは、「ちがい」にとらわれず、多様な実践の中に埋め込まれている、重要な「視点」や「原則」を見つけ出すことだと気づいた。これらこそ、日本で行われている人権教育を相対化し、検証する視点を与えてくれるからである。今回のワークショップも、こうした視点を私たちに与えてくれたように思う。
 

■グローバル化の中で、共通する人権課題


  今回とくに印象的だったのは、各国で生起する人権問題の固有性や相違よりも、共通点のほうがより強く認識されたことである。マレーシアのチャム・ヘン・ケンさん(国家人権委員会委員)からは「キーアスー」という言葉を例として、教育における競争の激化が、子どもにとっての圧力となり、いじめや暴力、こころの病気を生み出しているという報告があり、韓国からも、競争社会の中での格差の拡大、家族の変化と崩壊、それらの結果としての孤立、自殺、暴力などの社会問題が報告された。そこから浮かび上がるのは、グローバル化の進展による競争の激化が、人々の人間らしい暮らしと、心の平和を奪っている状況である。
  皮肉なことに競争が激しくなるほど、教育に対する人々の期待は高まる。教育を通じて獲得した学歴、資格、知識、技能などが、職業的地位と収入に結びつくからである。その一方で経済的困難層やマイノリティに配慮した教育は、「教育レベルを落とす」とか「競争力が落ちる」といった主張によって社会の支持を得にくくなっている。
  こうして、発展途上国か先進国かにかかわらず、また、競争の渦中にいる子どもも、競争から排除された子どもも同様に「人間らしく生きる権利」を侵害されている。一方が他方を抑圧するという単純な構造に還元できない、「誰が敵なのか」が明確ではなく、解決を構想することが困難な状況に、私たちは共通してさらされている。こうした時代にあるからこそ、人権教育は分断された一部の課題だけを論じるのでもなく、ノウハウだけに関心を奪われるのでもなく、教育全体の制度設計を議論する枠組みとなるべきだと痛感した。
 

■学校における人権教育の民主化


 《国内人権機関が関わることの意味》
  第二に、この8年間の間に各国で(「日本以外の国々で」という限定がつく)、「学校における人権教育じたいがずいぶんと民主化した」という実感を持った。民主化の進展とともに広がった人権教育であるのに、その人権教育が民主化するとはいったいどういう意味か、と不思議に思う方もおられるだろう。

人権教育の教材に関する分科会のもよう (撮影:金井宏司)
人権教育の教材に関する分科会のもよう (撮影:金井宏司)


  先に述べたとおり、学校教育における人権教育は、非常に大きな影響力を持つが、その一方で、「注意」をもって見守る必要のあるものである。アジア・太平洋地域の学校教育はほとんどの場合、中央集権的(あるいは中央集権に限りなく近い)体制であるし、学校教育とは、いわば「国家事業」である。それゆえ学校では、学習者が権利意識を高め、人権の実現を国家に対して要求するようになることや、国家を批判的に検証するようになるような人権教育は歓迎されない。むしろ学校における人権教育は、表面的な憲法学習や、価値教育、道徳教育に読み替えられやすい。また、「政策的思考」(法や政策を提案できる力)を育成することよりも、「規範意識」や「道徳意識」の醸成によって、問題を解決しようとする志向性が強い。そこで「人権教育」といいながら、実は権利そのものを教えていない、ということが、まま起きるのである。それゆえ、学校における人権教育はモニターされる必要がある。
  こうした視点に立つと、今回の会議でマレーシアの国内人権機関の取り組みが報告されたことには大きな意味がある。国内人権機関とは、法に根拠を持つ公的機関であるが、三権からは独立した第三者機関である。日本では救済機関というイメージが先行しているが、実は人権教育もまた、重要な機能である。1993年の国連総会で採択された「国家機関(国内人権機関)の地位に関する原則」(パリ原則)[1]によれば、国内人権機関の権限および責任には、人権に関する教育・研究プログラムの作成を支援し、学校、大学および専門家団体がプログラムを実施する際に、そこに参画することが含まれている。したがって、国内人権機関のある国では、人権教育のカリキュラムづくりや教員養成・研修には教育省だけではなく、国内人権機関が関わっている。そのことによって、人権教育が安易に「読み替えられる」ことに一定の歯止めがかかっている。
  また、その国が批准・加入している国際人権条約が、国内できちんと履行され、促進されるよう確保することも国内人権機関の役割である。こうした役割によって、学校教育の中に国際人権条約(たとえば子どもの権利条約)の学習が組み込まれ、子どもたちが、自らの権利について学ぶ人権教育の実施が担保される。また、国内人権機関は権限のある機関に対して勧告や提案を行うこともできるので、もし人権教育の恣意的な「読み替え」があった場合、学校や教育行政に対して、改善を要求することも可能である。こうした第三者機関の存在が、「学校の人権教育を民主化するシステム」として機能している。
  なお、教材に関する分科会では、マレーシアの国内人権機関が「子どもの権利条約」を学校現場に広げるために行っている取り組みが報告された。一般に、教員養成課程では、国際人権条約など法学に関わる学習は(憲法や教育関連法規をのぞいては)、あまり取り上げられない。人権条約などに関する知識や教育のノウハウを、こうした機関が学校に対してインプットすることは、重要なことだと痛感した次第である。
  ちなみに、今回ゲストとして招聘された12人の国・地域のうち、7カ国にはすでに国内人権機関があるとともに、香港には性、障害、家族の地位に基づく差別の撤廃に焦点をあてた機会均等委員会がある。日本の人権教育の「民主化」のためにも、同様の機関の設置がのぞまれる。

 《学校教育に、市民社会が関わるためのシステム》
  学校で使われる教科書や教材づくりのプロセスに、市民社会組織が関与する体制づくりも進んでいる。たとえばマレーシアの国内人権機関は、ヒューライツ大阪が2003年に作成した"Human Rights Lesson Plans for Southeast Asian Schools"(東南アジアの学校のための人権レッスンプラン)というテキストをマレー語に翻訳して全国の学校に配布したほか、アムネスティ・インターナショナルなどのNGOが作成した教材を、学校に紹介している。日本のNGOにとって学校の壁は厚く高いことと対照的である。

松原市立布忍小学校を訪問した海外ゲスト (撮影:ヒューライツ大阪)
松原市立布忍小学校を訪問した海外ゲスト (撮影:ヒューライツ大阪)


  ポスト冷戦期に人権教育が始まって間もないころは、多くの国では教材が不足していたため、NGOの教材が受け入れられやすい土壌があった。また、発展途上国においては、経済的理由から教材不足がより深刻であり、政府が資金力のあるNGOが開発した教材を配布するようなケースもあった。しかし、不足を穴埋めする目的ではなく、NGOを積極的に評価し、そのノウハウを活用しようとする動きが進みつつある。たとえば、韓国のクァク・スッキさん(アジア太平洋国際理解教育センター)から聞いた話では、韓国では、教員研修を実施することができる機関を政府が認定しており、そこには地方自治体やNGOも含まれるとのことである。学校における人権教育は、決して国家の独占事業ではなく、そこに市民社会の意向が反映されるシステムができつつある。
  このことの重要性は、人権の原則に立ち返って考えてみるとわかりやすい。人権の内容を規定し、その実現を国家に対して要求するのは市民である。したがって人権教育についても、学校がどんな権利をとりあげ、教えるのかということを、国家が一方的に規定することには問題がある、と私は考えている。「人権教育はこうあるべきだ」と提起するのは市民社会を含む多様なステークホルダーの役割である。しかし残念ながら日本では、こうした意識はそれほど強くないように思われる。

 《大学の役割》
  最後になるが、午前中の全体会において、ジョン・パチェさん(元国連人権高等弁務官事務所シニアオフィサー)が、EUにおいて、人権を専門的に研究・教育する大学院のプログラムが始まったことを紹介していたので、大学の役割についても若干ふれておきたい。
  「学校の人権教育」というと、幼・小・中・高校における実践と、教員養成課程のありかたが議論されることになるのだが、こうした領域における人権教育を発展させるには、大学の役割(教育学部や教員養成課程に限らない)が極めて重要である。
  学校における人権教育を、学校と教員養成機関という枠組みの中だけで論ずる限り、学校という中央集権的なシステムの限界を超え、市民社会の視点から人権教育を推進していくことは難しい。大学は、学問の自由を保障されているのだから、異なる領域を研究する多様な専門家や学部が協力をして、現代社会における緊急の人権課題、いまこそ政策提言が必要とされているような課題を率先して研究し、政策提言を行ったり、その研究成果を社会に還元するべきではないか。そのことが、結果として学校における人権教育の内容を豊かにし、変えていくことにもつながると思うのである。こうした学際的人権研究のプログラムをもつ大学が今、世界で増えているが、日本でもこうした取り組みがのぞまれるところである。

1. 全文はhttps://www.hurights.or.jp/archives/institutions/post-1.html