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国際人権ひろば No.71(2007年01月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

「陸の孤島」スリランカジャフナ-紛争地の「日常」

小野山 亮 (おのやま りょう) アジア太平洋資料センター(PARC)ジャフナ事務所代表

■ジャフナ(ヤールパナム)へ赴任


  2005年3月、私は所属団体による漁業支援活動の現場駐在員として、スリランカ北端のジャフナに赴任した。ジャフナは20年以上も続くスリランカ内戦の激戦地となった場所であり、この支援活動はその内戦からの復興を目指したものである。ジャフナは3方を海に囲まれた大変美しい半島であるが、その海岸沿いにも、地雷注意の標識、有刺鉄線、破壊された建物などが目に付く。
  内戦は主にスリランカ政府(多数民族はシンハラ人)と少数民族タミル人武装勢力「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)によって戦われてきており、またムスリムの人たちもこの紛争に巻き込まれている。ジャフナは現在、政府領域となっているが、少数民族タミル人が多数を占める場所である。南方にLTTE領域をはさむため、政府領域としては飛び地となっている。2002年2月に休戦協定が結ばれてからは、和平交渉や戦後復興も進んでいたが、赴任後に暴力の拡大、戦闘、事実上の内戦状況を目の当たりにすることになった。
 

■拡大する暴力


  赴任した年の10月、事務所のほんの百メートル先の交差点で、白昼、バイクに乗っていた男性が銃で撃たれて殺害される事件が起こった。倒れたバイク、ヘルメットをかぶったまま・不自然な姿勢のまま動かない男性、道路に流れる大量の血。人間がこんなに簡単に殺されていいのか、とショックを覚える。和平交渉の停滞とともに、ジャフナではこうした事件が起こるようになってきていた。
  12月になると爆発物により兵士を乗せた車両が狙われ、多数の死傷者を出す。これ以来、一気に緊張が高まり、町の要所にも兵士が増員されていく。
  2006年4月には軍の車両を狙った爆発物により、すれ違いざまにNGO車両も被害を受け、死傷者が出た。亡くなった2人のNGO職員は、私もお世話になっていた人たちであった。葬儀の日、遺体の損傷が激しく、会場に2人の遺体がついたのは、何時間も後になった。式服に身を包んだ2人が棺の中にいる。信じられないが事実なのだ。
  7月になるとスリランカ東部で大規模な戦闘となった。その中でまた別のNGO職員と家族17名が至近距離で打たれて虐殺される事件も起こった。
 

■戦闘


  8月11日、ジャフナで激しい戦闘が始まった。砲撃音が聞こえたとの携帯メールが入るが、その後、携帯電話は不通となる。そして爆音が2回。爆発物かと思い緊張すると、地元の人たちが砲撃音だと言う。何度も同じような経験をしてきた人たちにはクリアに聞き分けられるのだ。
  砲撃音は一晩中響いた。発射音の後、空気を切り裂くような音が続き、少し後に着弾音がする。上空ではうなるような飛行音がする。政府軍本拠地方面には閃光が見えた。この日午後7時より外出禁止令が出されたと近所の人に知らされた。突然の展開に眠れぬ夜を過ごす。
  激しい戦闘はその後も続き、最初の10日間ほどで、政府・LTTE両者の死者は1,000名にも上ると報じられた。戦闘のため陸路も空路も不通。ジャフナは文字通り「陸の孤島」となった。避難民は数万人に上り、町周辺にも避難所ができたが、外出禁止令の間、救援もままならず、物資不足などから問題が続出した。一部戦闘地には市民がまだ残っており、また避難を始めたものの、途中で身動きが取れなくなっている人たちもいるとの報告や、負傷者や戦闘に巻き込まれて亡くなった人びとの遺体も運び出せないという話も聞かれた。
  外出禁止令は、3日目になってはじめて、昼の2時間だけ解かれ、その後少しずつ延長されるようになった。外出禁止令が解除されると、人びとは先を争って商店へと急ぎ、長い列を作る。外出許可の時間が終わると、あふれていた人びとの姿が消え、町全体が静まり返り、ゴーストタウンとなる。孤立したジャフナでは、次第に物資が不足し価格が急騰、次第に備蓄も底をつくようになった。外出禁止令、携帯電話の不通とあわせ、一般電話回線も頻繁に不通。電気も全く来ないか、1日1時間ほどしか来ない日が続いた。
  直接交戦以外にも、暗殺、強制的失踪、襲撃などの事件がこれまで以上に増加、人びとは恐怖と不安をかきたてられる。また、これまで犯人や責任者の逮捕・処罰に至った例は稀である。
 

■救援活動の限界と一時退避


  在ジャフナの諸団体などは救援活動を始めたものの、活動には困難が伴った。一部地域はアクセスが難しく、正確な状況が分からない。戦闘地域に残る住民の救援活動に向かった司祭がそのまま失踪してしまう事件もあり、安否が懸念されている。激しい戦闘状況や様ざまな活動規制などから、NGOの活動には大きな限界がある。戦闘が続く中で動きが取れず、安全の確保も危ぶまれ、活動もままならない。その後、多方面からの助力を得て、8月26日、他のNGO職員とともにジャフナから一時退避することとなった。タミルの人たちも合わせて約150名が、赤十字国際委員会(ICRC)の旗の下での退避となった。実は、こういった海路の移動もジャフナの人たちの中には経験している人がかなりいる。以前も戦闘があった際に、船で逃れた人、またジャフナ外にいたため、家族のもとへ何とか戻ろうと船で戻った人、色々なケースがある。船も、小さな漁船から、一定の運行取り決めによる中・大型の船まで様ざまである。いずれにしても、こうした場合、戦闘下命からがら、拘束されたり、実際に命を落としたりした人も多い。
  船での移動は過酷である。私たちが乗った船は比較的小型のものだった。夕方5時30分ごろ出発。荒い海の中、高速で進むのだが、激しい揺れは避けられない。この間の疲れもあったからか、すぐに気分が悪くなり、甲板で激しく嘔吐した。嘔吐は全くおさまらず、吐き続けた。歩いて中に戻ることもできない。数時間後に中に戻ったときには、すでに多くの人が同じように嘔吐しており、また、限られた床のスペースは横になって気分をおさめようとする人たちでいっぱいである。私も何とか横になるスペースを確保したが、海水がひっきりなしに入ってきて水びたしになった。まだ着かないかと心の中で叫ぶ。朝方3時30分ごろ、東部トリンコマリ港付近に到着するも、治安上の理由で、5時頃にならないと入港が許されないとのことでしばらく停泊。さらに夜明け前、砲撃戦が始まり、闇の中を閃光が飛び交った。結局港に着いたのは6時ごろだっただろうか。

避難所となった学校の教室で食事をする人びと (写真提供:PARC)
避難所となった学校の教室で食事をする人びと (写真提供:PARC)

■「社会的に破壊」されたジャフナ -「民主的な声」に向けて


  ジャフナで戦闘が始まってからすでに4ヵ月。ジャフナに通じる陸路はいまだに閉鎖、状況は悪化し続けている。ジャフナは「社会的に破壊されている」と言われる。声高に異を唱えていると見なされる者はいずれかの勢力に殺害され、人びとは諸勢力の間で息を潜め、声を上げることができない。物資も自由もない閉ざされた空間の中であえぐ。こうした空間が20年以上もジャフナを支配している。
  11月27日。LTTEの戦死者を悼む日である「ヒーローズ・デー」。LTTE代表によってこの日行われる恒例のスピーチでは、極端なシンハラ人中心主義の非妥協的態度により残された道は独立しかなくなった、と述べられた。休戦協定は消滅、和平交渉は失敗、とも述べられている。人びとは状況のさらなる悪化におびえ、不安な日々を送っている。
  人びとが自分たちの将来を決めていくことができるようになるためには、少なくとも、息をつき、自由にものが言えるようになることが必要である。そこに住む人たちのための救援、人権保護、安全確保、生活環境回復を続け、暴力ではなく、民主的な声を上げられるようになるための後押しが求められている。「陸の孤島」スリランカ・ジャフナにて、紛争地の「日常」を垣間見、こうした後押しのための具体的な行動をあきらめずに、続けていく必要を強く感じている。

(支援に関する情報はアジア太平洋資料センターのサイトを参照ください。)