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国際人権ひろば No.70(2006年11月発行号)

人権さまざま

「美しい国」

白石 理 (しらいし おさむ) ヒューライツ大阪所長

  日本人であることを誇りに思う、われわれの国、日本を皆がそう言えるような美しい国にしたい。日本の新しい内閣総理大臣の掲げる目標である。日本がそんな国になることに私も異論はない。ぜひ、そうなって欲しい。問題は、「誇りに思える国」、「美しい国」とはどういう国なのかということである。

  何かを「誇りに思う」というとき、それは、それぞれの人の価値観、人生観、人間観、ひいては世界観によって決まる。大切に思うことが実現したとき、たとえば、権力の頂点に上り詰めたとき、巨万の富を手に入れたとき、世界的業績を学問の分野で成し遂げたとき、人は、自分の成し遂げたことを「誇りに思い」、周りの人もそのような人を「誇りに思う」ことがある。また、世間的な出世はしないけれども、人に思いやりを持って正直に生きる親を、子どもは「誇りに思う」かもしれない。それでは、「誇りに思える」国とはどんな国だろう。「国」がどうあるべきか、それぞれの考えがあろう。

  「美しい」という言葉についても、同じである。「美しい」ものには誰もが惹かれる。ただし、美的感覚、感性も人によって違う。ある人が「美しい」と思っても、ほかの人が「美しくない」と思うことは、日常生活ではしばしばあること。それぞれの人の感覚である。「美しい」国も人によってそれぞれかもしれない。

  いろいろの価値観、考え方、感覚を持つ人々が集まるのが社会であり国である。それ自体多様性を抱える社会や国が成り立ち、うまく機能するためには少なくともどういう原則が必要なのか。どういう社会の形、国のあり方が良いのか。それを具体的に提示するのが政治の目標である。

  民主主義は、社会と国を支えるこのような原則の一つである。これと対峙するのが、全体主義であり、また独裁制である。世界のほとんどの国が、実際はともかく、建前として民主主義を標榜している。日本も民主主義体制をとっている。

  民主主義では何かを決めるとき多数の人の意見に拠るといわれる。けれども民主主義の真髄はそれだけではない。少数の意見を聞きその立場を尊重することであり、多数の力で何でも出来るとしないことでもある。多数の力に頼らず、まず対話と説得を求める。少数の抹殺は許されない。そこでは、一人一人が社会と国のありかたを決めるために声を持っている。人である限り一人一人が、等しく、かけがえのない、たいせつな存在であるということを良しとするのである。これまで、このような民主主義を超える政治原理はなかった。それでは、民主主義による政治がおこなわれる「誇るべき国」、「美しい国」とはどういう国であろうか。

  日本は古くから海外と交流があり、人の行き来があった。外からの貢献と受容によって日本文化は豊かになってきた。稲、紙、文字、仏教、茶、陶磁器、近代科学技術、など、日本文化の形成発展のもとになったものには海外からもたらされたものが多い。また大和朝廷の時代から、その支配が日本列島でしだいに広がっていった過程で、文化的にも多様なものを取り込んでいったことは否めない。日本文化は今も、消えかかっている文化的伝統を見直す動きと共に、新たな貢献と刺激を受けて発展し、変化し続けている。日本文化の独自性、日本の美、日本人がつくりあげた文化遺産のすばらしさを強調するあまり、それが、海外との交流、また内外の多様な文化圏からの貢献と受容によって発展してきた側面のあることを忘れてはならない。同じように、日本から海外に出て貢献してきた人々も多い。今では、国を越えた人と文化の交流は、取り立てて話題にするほど特別なことではない。日本の人が海外に出かけて住み、多様な文化的背景を持つ人が日本に住んでいる。異なる文化の共存がやがては新たな文化的受容と発展につながっていくということであれば、日本人として日本文化を「誇りにおもう」ことは、異文化の豊かさを大切にすることにもなろう。

  さきに触れた民主主義が社会を律する原則であり、そこに生きる人々が、互いに尊びあい、支えあうというのは、どの国、どの社会でも目指すべき理想である。それは、人種、国籍、言語、宗教、性別などを超えて、多様な価値観や世界観、さらには多様な文化について、理解や賛成はできなくとも、互いにちがいを認め尊び合い、寛容に対処することを必要とする。それは、多文化共生を可能にする国であり社会であろう。

  ここで断っておきたい。私は、日本人としての自覚を持つ人が、日本人であることをやめて、どこの国、どの文化にも絆を持つことのない「国際人」あるいは「地球人」になるようにと勧めているわけではない。私は、長年海外に住んで仕事をしていたために、ほとんど日本語を使うことがなかった。時がたつと共に、日本語に飢えて行く自分に気づいた。病気で入院していたとき、そこで出される食事はのどを通らなくても、おかゆと梅干がおいしかった。ものを考えるとき、しばしば読み返したのが、聖書とともに、論語であり、万葉集であり、松尾芭蕉の「奥の細道」、新渡戸稲造の「武士道」、内村鑑三の「代表的日本人」などであった。海外生活が長くなればなるだけ、日本人としての自覚が強くなっていく自分を感じていた。この体験から私は、育まれてきた文化的環境をはなれて生きる多くの人が、私と同じような思いを抱くことがあろうと想像する。

  多様な背景を持つ人々が集まる社会で、共に生きることを求める多文化共生は、一人一人が持つ主体的自覚、帰属意識をすてて、皆同じように文化的、民族的根無し草になれというのではない。それぞれの持つ独自性を尊重しつつ、共に支え合い補い合う社会、それが多文化共生社会である。日本が民主主義に基づき、そういう社会になるとき、私は日本人であることを心から誇りに思い、日本を「美しい国」と感じるであろう。