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国際人権ひろば No.52(2003年11月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

ふたたびもらった命で、東ティモールにこだわって

徳 恵利子 (とく えりこ) 日本カトリック司教協議会東ティモールデスク・現地駐在員

ティモール・ロロサエ注)(日出る国)へ


 2000年12月、私は東ティモールで働く友人を訪問した。99年8月に東ティモールでは「独立か、インドネシアに属して自治権の拡大か?」を問う住民投票が国連によって実施され、80%以上の人が独立を選択。その結果が発表されて間もなく、結果に不満を持つインドネシア軍と軍に後押しされた民兵達によって焦土作戦が展開され、国土のほとんどが破壊された。それからすでに1年以上が経っていたが、街のいたるところに焼けたままの建物が残っており、破壊のすさまじさを物語っていた。
 2週間の短い滞在中、海岸沿いの村である親子の風景に出会った。夕方の海岸で母親は薪を集めていた。その傍で子どもが3人、沖から戻ってくる小さなカヌーに向かって大声で何か叫んでいる。カヌーで戻ってきたのは子どもたちの父親らしかった。カヌーが岸に着くと子どもたちがはしゃいで駆け寄る。少し魚が獲れたようだ。魚を子ども達が取り合い、薪を背負った母親も一緒に並んで夕日の中を一家は家路についた。荒廃した街の雰囲気とは対照的に、今は平和な夕暮れ時を過ごす一家の光景を私は感慨深く見つめていた。東ティモールの人々が体験した過酷な過去を想像しながら。
 翌年初頭、「日本カトリック司教協議会東ティモールデスク」から現地駐在スタッフにならないかという話が舞い込んだ。海岸で出会った親子の姿に強く惹かれていた私は二つ返事で引き受けた。新しく国が建設される過程で、あの親子が手にしている平和や自由を継続していくための支援・関わりを自分なりに体現したいと思っていた。

ふたたび日出る国へ


 01年3月、東ティモールに派遣された私は期待していたのは、国連の暫定統治のもとで、02年に主権が移譲されることを目標に、人々が希望の中で新しい国づくりに邁進している姿だった。
 そんな私を待っていたのは厳しい現実だった。「直面している現実」への人々のやるせない思いが高まっていた。ディリ市内には外国人客を当てにしたスーパーやレストランが何軒かある。店内は、ここが東ティモールかと見紛うほど品数も量も豊富なオーストラリアやシンガポール、インドネシアなど外国からの輸入品ばかり。外国人向けに価格が設定してあり、東ティモール人ならば、国連などで働くごくわずかな人たち以外は手にできる物などなかった。
 砂糖、塩、油や石鹸、灯油など人々の基本的生活物資のほとんどは国内で生産する術がなく、輸入に頼らざるを得ない。インドネシア時代は「国内流通」であったのが、今は「輸入」になり関税もかかる。当然価格も跳ね上がる。米の価格はインドネシア時代から約2.5倍になったという。
 01年当時、失業率は80%と言われていた。物はあるが、人々の生活は苦しかった。そんな時、一人の友人がこう言った。「独立することになった。インドネシア軍の監視と暴力から解放された。それは自分達がずっと望んでいた事だった。しかし今、目の前で東ティモールを援助するためにやってきた外国人は車に乗り、ドルを稼ぎ、高いレストランで食事をしているが、自分達の生活は依然苦しい」。
 国連暫定行政の仕事は、国の枠組みづくりであった。しかし東ティモールの「国づくりのプロセス」に、当の東ティモール人がほとんど関与せず、外国人だけで進められるのは問題ではないか、という批判や不満が常々あった。
 一方、東ティモールの人々も緊急支援時のままの感覚であった。つまり外国の団体であろうが国内のNGOであろうが、援助団体である限り支援物資を持ってくるのは当然で、それを待っているのである。私は決して国連暫定行政の進めかたを支持することはできないが、東ティモール人の中に、長年の外国支配によって依存心が深く根付いてしまっている事を認めざるをえない。
 「東ティモールデスク」は、人々がこの「依存心」を断ち切るような支援を目指してきた。そのためには経済的にある程度の自立が必要である、という考えから、漁村における共同体開発(漁具をクレジットで貸し付けたり、干し魚の製造方法をトレーニングしたりする)を実施している。 また現地のNGOと協力して、国産米の精米技術の向上や流通なども行っている。東ティモールでは広く水田耕作を行っているが、精米技術の不足、流通経路が確立していない事から国産米はほとんど市場に出ていない。
 外への依存を断ち切るためには、人びとが国内にある資源や産物を生かして、自発的に「国づくりに参加する」ことが必要である。漁船用モーターをクレジットで貸し付ける話をした時、漁師たちは「あの団体ならただでくれるのに!」と文句を言った。しかし「ただでモーターをくれる団体の支援はいつになるかわからない」ので、仕方なく東ティモールデスクからモーターの貸付を受けた。それから早2年が経つ。文句をいいながらも漁に出て、魚を売っては根気よく返済を続け、返済が終わったグループもいくつかある。

独立! しかし、困難な問題


 02年5月20日、東ティモール民主共和国は主権を回復した。人々は歓喜の声を上げ、長く待ち望んでいたその日を祝った。それから1年。私達は手探り状態で支援のあり方を考え、東ティモールの人々は国の、自分達の生活のあり方を模索しながらの日々をすごしてきた。人々は淡々と生活を重ねているが、国連暫定統治時代と変わらず生活は苦しい。いや、さらに苦しくなっているだろう。国連開発計画(UNDP)の統計によると、人口の約4割が1日1人あたり55セント以下の貧困状態にある。
 現在は「国連東ティモール支援団」に雇用されて、給料をもらっている人も、04年6月の国連撤退と同時に失業する。05年には、ティモール海で開発がすすむ石油による歳入が見込まれているが、それでも外国から2000万ドルの援助がなければ、財政は破綻するとされる。相変わらず輸入に頼らざるを得ない脆弱な産業基盤に加えて、いまだインドネシア領西ティモールに残る3万人の東ティモール人(インドネシア時代の公務員とその家族や、元インドネシア統合派とその家族)の問題がある。残っている人の中には、元統合派の民兵として99年の焦土作戦への参加、犯罪に加担した者もいる。被害者が過去を背負って生きている一方で、加害者がインドネシアで訴追されずに生きている現実。
 受容真実和解委員会などが、帰還促進のための働きかけを行っているが、小さな国を分断した過去の溝は深い。問題が山積みで、頭を抱えたくなるような状況である。そんな中ある友人は「新しい国なんだから、困難にぶつかって当たり前。自分達で選択したことなんだから、自分達で乗り越えなきゃね」。この言葉から一人一人がゆっくりと、でも確実に「依存心」を乗り越えつつあるのだ、と感じて嬉しくなった。

それでも東ティモールに関わり続けること


 希望に胸をふくらませてこの国にやってきた私は、最初から壁にぶつかってばかりだった。今でも、外国人である私に「依存心を断ち切る関わり」など可能なのかと悩む毎日である。それでも東ティモールに関わっているのは、大きな事故を体験した事が影響している。02年、ディリ市内でオートバイを運転していて転倒。頭部を強打して、意識不明の状態が3週間続いた。その間2回、開頭手術を受けた。事故から3週間の事は全く覚えていない。目が覚めたら突然日本だった。周りに日本の家族がいて「あれ?なんで私こんなところにいるの?東ティモールの仕事は?」と聞いているのである。それから少しずつ元気を回復し状況を把握し始めた。その時ふと考えた。もし私が東ティモール人だったら、こんな風に助かったであろうかと。
 東ティモールではもちろん、医師も医療器具も不足している。私はたまたま日本人で、保険もあり、施設の整っているシンガポール経由で日本まで搬送された。同じ人間でありながら、24年間のインドネシア時代に命を落とした20万人と言われる東ティモール人と、大事故に遭いながらも生きながらえている私。東ティモールで再度もらった命は、無念にも亡くなった人の分まで生きなければ、とその時思ったのである。自分は何かができるというわけではないが、そういう気持ちで東ティモールに関わろう、と。02年は約1年間日本にいたが、元通り回復した私はまた東ティモールの人々と頭をつき合わせ、ああでもない、こうでもない、と悩む日々を再び生きている。

注)ロロサエとは、東ティモールで一般的に使われているテトゥン語で「日が昇る」という意味。"東"を表す。ティモール・ロロサエは東ティモール。ちなみに西はロロモヌ「日が沈む」である。

松野明久「東ティモール受容真実和解委員会」『国際人権ひろば』No.48(03年3月号)参照。

東ティモールデスク事務局の連絡先 06-6941-3533、Eメール:et-desk@gaia.eonet.ne.jp