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国際人権ひろば No.51(2003年09月発行号)

ヒューマンインタビュー

大阪から見つめる故郷-からだに染み込んだスリランカの思い出

ガマメッダゲ・シリナンダさん(Gammeddage Sirinanda) FM CO・CO・LO プログラム・スタッフ

プロフィール:
スリランカのマータラ出身のシンハラ系スリランカ人。大阪イーグル自動車協同組合に勤務。FM CO・CO・LOでは、毎週火曜日の深夜24:30-26:00の「LANKA RASANGA」(スリランカの音楽を楽しもうという意味)を担当している。

聞き手:野澤 萌子(ヒューライツ大阪研究員)


野澤:まず、シリナンダさんの来日の経緯を教えてください。

シリナンダ:1992年10月に初来日しました。きっかけは僧侶である兄が日本にいたことから、日本に興味を持つようになったからです。当時、スリランカの田舎では日本の情報は殆どなかったので、兄が帰国した際に聞く日本語や日本の話がとても珍しかったのです。また、兄が土産に持ち帰った桜や雪景色などの日本の四季のカレンダーがとても美しく、本物の自然の写真ではなくきれいな絵のように思えました。スリランカは暖かい国だから日本とは風景がぜんぜん違います。これは一例ですが、スリランカで雪といえば、冷蔵庫の霜ぐらいしかありません。5~6年前に大阪で大雪が降りましたが、あの朝会社に着いたらあたり一面真っ白に雪が積もっていました。それでうれしくて、仕事場の車の上に積もった雪を下ろしながら雪を食べました。「おいおい!何を食べてるんだよ」と先輩たちに言われましたが、自分が初めて雪を見るという事情を分かってくれて、「これも食べろ」とどんどん勧めてくれたり、雪合戦をしたりすごく楽しかったです。

野澤:お兄さんは日本にあるスリランカのお寺の住職でいらっしゃるのですか?

シリナンダ:そうです。兄は高野山大学の大学院などで学んだ後に、伊丹市にスリランカ寺関西を設立しました。また、自分も関わっていますが、スリジナラタナ社会福祉協会というNGOも設立して、日本とスリランカの人々の交流を中心に、教育、福祉、生活を支援しています。例えばスリランカで5月に大きな洪水がありましたが、被災者のために義援金を集めたりしました。

野澤:私は5年ほど前にコロンボを訪問しましたが、その前に滞在していたインドのチェンナイと比較して社会資本が充実し、自動車をはじめとする外国製品の種類や数が多いのに驚きました。また、女性の社会進出が進んでいて、ずいぶん都会だなという印象を受けました。

シリナンダ:コロンボはたしかに都会で何でもありますが、コロンボと地方とのギャップは大きいですよ。私は南のマータラ出身ですが、中学ぐらいまで電気もなく灯油ランプで勉強していました。中学のときに初めてコロンボに行ったのですが、動物園や博物館、プラネタリウムなどはコロンボにしかありません。夜、外に出るとものすごく明るくて驚きました。いまでもその感動というか驚きを覚えていますよ。田舎では夜は真っ暗だし、星は手に届きそうですよ。自動車も列をなして走っていて驚きました。僕が子どもの頃は、自動車がきたら、「あ!自動車が来た!」と友人らと走って見に行っていたほど珍しかったですから。

野澤:マータラの高校を卒業後、大阪にこられたのですよね。大阪も大都市ですが何か驚くようなことがありましたか?

シリナンダ:今は吹田市に住んでいますが、以前は東大阪市、その前は大阪市の生野や谷町に住んでいました。日本に来てずっと大阪ですが、大阪では緑を見たことがないなと思っていました。それが吹田市に移ってきて、こんな緑のあるところが日本にもあるということに驚きました。吹田市に引っ越した翌朝、なんか違うなと思って目が覚めました。鳥の声がするし、一瞬、「スリランカにいるんちゃうかな?」と思いました。急いで妻と子どもを起こして「ほら、聞いて、聞いて」と言ったけど、むこうは何も反応がなく、「なんや?」ってかんじで。自分は生まれ育ったマータラでの感覚が身体に染み込んでいるからね、すごくうれしかった。

野澤:スリランカのことを伺いたいのですが、一般にカースト制度はヒンドゥ社会に特有なものと思われていますが、仏教徒の多いシンハラ社会ではどうでしょうか?

シリナンダ:だんだん薄れていますが、シンハラ人の中にもカーストはありますね。カーストの起源は王政時代にさかのぼります。スリランカは、イギリスがスリランカ全島の支配を確立する1815年までは王国だったのですが、王様に仕える人、例えばお米をつくる人、食事を用意する人、音楽をする人、洗濯をする人など、王様の世話をする人の職業区分によってランクが決められていました。現在ではそのような明確なランクはありませんが、太鼓をたたく人や洗濯をする人のカーストは今でも低いとされています。例えば、太鼓をたたく人は結婚式の時などにきますが、その時に彼らが座るときは自分たちより下に座りますし、家に来ても中に入らないで外で待っています。そして彼らが使った食器は、ものすごくきれいに洗います。そのような事をするのは自分はすごくいやですが、特に昔の人は意識しているようです。

野澤:スリランカでは多数派のシンハラ人と分離独立を求めるタミル人組織との対立から激しい内戦が続いていましたが、2002年に停戦合意となりました。現在では日常生活においてテロなどの心配はなくなりましたか?

シリナンダ:スリランカの民族対立の歴史は古く、政治家が問題を解決せずにおいたままにしてきたから、武力による争いにまで発展したように思います。特に1983年には、ゲリラが軍隊のトラックを爆破し、そのニュースが流れた途端に、シンハラ人がタミル人の商店などを襲撃したり放火するという大暴動になりました。現在は停戦合意で表面上は対立はおさまっていますが、実際はまだ続いています。

野澤:コロンボを訪れたときに、空港での入国検査の厳しさやバスを止めて検問されるなど、非常に緊迫した空気に驚きましたが、現在でも厳しい検問がおこなわれていますか?

シリナンダ:停戦合意の後に検問はなくなりましたが、最近はまた事件が起きているので、検問をする場所もあるようです。政府軍と抗争している「タミル・イーラム解放の虎」のことを私たちはタイガーと呼んでいます。日本では今、阪神タイガースが強いので、土産に阪神グッズを買っていきたいけど、空港でみつかったら絶対ゲリラと間違われて捕まりますよ。これは冗談ですが、しかしそれぐらいテロに対する警戒が厳しいということです。

野澤:20年あまりにわたって激しい内戦が続いてきたわけですが、一般の人々の生活にはどのような影響がありましたか。

シリナンダ:内戦がなければスリランカはあらゆる方面において発展していたと思います。政府は戦争に使うお金でかつかつみたいですね。発展のために必要な物が忘れられているようです。日常生活では、軍事費の圧迫のせいで消費税が上がったり、国のサービスが悪くなったりしています。それから、スリランカの人は爆弾テロを雷と同じように感じるほどなじんでしまった。つまり恐怖感が無くなっている面があります。特にいま何が悪くなったかというと、将来の見通しがたたないことですね。今は停戦していますが、いつどうなるかわからない。ですから将来への不安が皆にある。

野澤:最後になりますが、今後の希望や抱負などを聞かせてください。

シリナンダ:日本の大学で自動車工学を勉強して、そして自動車関係に就職したので、この経験をいかしたいと考えています。日本人と結婚して、現在3歳半になる男の子がいますが、子どもの教育について心配なのが、日本の学校に行かせるか、それともインターナショナル・スクールに行かせるかを考えています。友人の子どもなどを見ていると、日本の学校になじむ子もいればその逆もあります。自分の子どもに適した学校を選ぶことは、今一番大きな希望と課題ですね。