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国際人権ひろば No.114(2014年03月発行号)

人権の潮流

人権博物館を考える

ジェファーソン・R・プランティリア
主任研究員 ヒューライツ大阪

 台湾の台北で2013年11月21日から24日、第4回人権教育国際会議が東呉大学張佛泉人権研究センターと同大学政治学部人権プログラムの主催で開催された。世界各地の人権および人権教育に関わる研究者や大学を中心として組織されたこの会議は、第1回はオーストラリアのシドニー(2010年)、第2回は南アフリカのダーバン(2011年)、第3回はポーランドのクラクフ(2012年)で行われている。今回の会議には研究者、NGOスタッフや学生を含む38カ国からの538人が参加した。筆者も政府職員に対する人権教育について報告するため、参加した。会議では、女性、LGBT、多文化主義、死刑制度、法の支配など人権教育に関わるさまざまな課題についていくつものパネルや分科会が同時に開催されたが、ここではその中で取りあげられた人権博物館のパネル討議や、会議中に訪れた台湾の人権記念公園を紹介し、人権博物館について一考したい。
 
 

 人権博物館に関するパネル討議

 
 4日間の会議中に行われた討議の一つが人権博物館の役割に関するパネル討議であった。そこでは、ヨーロッパ、南米、北米の人権博物館の代表がそれぞれの施設を紹介する報告があった。
 最初のパネリスト、ドイツのベルリン・ホーエンシェーンハウゼン記念館のクナーベ所長は、ソ連占領下の東ベルリンの収容所として始まり、東ドイツの国家保安省(シュタージ)の収容所と強制労働施設であった建物の跡につくられた記念館の写真を示しながら報告した。報告によると、収容所跡は1992年に史跡として認められ、1994年に現在の名称となった。記念館の目的は、1945年から1959年の収容所としての歴史を調査し、一般の人に展示やイベントなどを通して紹介し、共産党独裁の下での政治的迫害や抑圧の手法や結果について批判的な視点を促すことである。
 記念館では、1990年代初期に収容所として放置されていたままの状態が保存されている他、保安省の秘密警察が容疑者について作成した写真や密告者による情報1に基づく文書なども集められている。記念館の内外でのセミナーや教育的活動も行っている。記念館の活動には元収容者も関わっており、2012年には国内から35万人、外国からはそれを上回る来訪者があったという。
 二人目のパネリストはチリのサンティアゴ記憶と人権博物館のブロッズキー所長であった。彼の報告によると、チリ全国には軍事独裁下の大規模で残虐な抑圧の犠牲者のために200以上の記念碑がある。サンティアゴの博物館の設立は、軍事独裁時代の人権侵害を調査した真実和解委員会(レティグ委員会)の勧告に基づいており、ユネスコが、チリの人権組織の文書を世界の記憶の一部として保管しなければならないと述べたことに後押しされ、2010年に開館した。博物館の目的は、軍事独裁政権の文書などの記録を保管すること、所蔵品や文書を増やすこと、一般に公開すること、教育プログラムを開発すること、チリの経験を批判的に継続的に考察していくことを促すこととされている。博物館には文書センター、視聴覚資料アーカイブ、デジタル・ライブラリーがあり、研究プログラムもある。写真、法文書、出版物などのほか、収容所でつくられた工芸品なども所蔵されている。学生や教員のためのガイド・ツアーやワークショップも行われている。サンティアゴ博物館は人権侵害の残虐さを見せて人を圧倒しようというのではなく、人びとが自分で考え、結論を導きだすスペースをつくりだそうとしているのである。「生きた博物館」として経験の再解釈にも開かれており、芸術表現の重要なスペースにもなっている。この博物館には月平均1万6000人が訪れている。収容所跡を残す形でつくられたベルリン記念館とは違って、サンティアゴ博物館は新しい、現代的な建物である。
 三人目のパネリストは、カナダ・マニトバ州のウィニペグで2014年9月開館予定のカナダ人権博物館のマレー理事長であった。この博物館の設立は2008年の博物館法に基づき、「カナダおよび世界の人びとが憎悪と抑圧に関して議論し、行動をとることを決意できる学びの中心」として考えられている2。カナダの博物館は、カナダに関連して、あるいはカナダに限定せず、人権について人びとの理解を拡大し、他者への尊重を促し、考察や対話を促すことを目的としている。世界で唯一、人権の啓発と教育に特化した博物館である。この博物館は「理念」の博物館であり、カナダの人権に関する取組の物語を伝え、その課題に関する考察や対話を促そうとする。カナダや世界各地の人権に関連するイベントなどが開催される予定であり、2013年に既にレクチャー・シリーズが開始されている3。博物館は昔から人びとの交通の拠点であった場所にあり、西暦750年?1500年頃の工具、焼き物の破片や魚の鱗が発掘された場所にたてられた現代的なデザインのビルである。
 3つの博物館ともそれぞれの政府によって支えられている。
 報告後の質疑応答の際、筆者はカナダが2014年に大きな人権博物館を開館する一方で、日本では同時期にアジアで最も古いと言われる大阪人権博物館(リバティおおさか)に対して、大阪府と大阪市が2013年3月末で補助金を廃止したことから、存続の危機に陥っていることを述べた。人権博物館を運営することによって、さまざまな人権問題をわかりやすく展示するとともに、市民に対する教育・啓発や、市民の記憶にとどめることができる。
 そのような取り組みへの反対にどのように対応しているのか筆者は尋ねた。三人のパネリストは、博物館に対する反対はあったが、人権侵害を繰り返さないために過去を振り返り、特に若い世代が人権問題を理解する機会や情報、そして場所を持たなければならないことを主張し続けるべきではないか、と異口同音に答えた。
 
 

 台湾の人権博物館

 
 会議の日程が終わった後、筆者も含めた一部の参加者は台湾の人権博物館の一つがある緑島(リュイタオ)を訪れた。台湾には緑島の人権記念公園と台北の人権景美(ジンメイ)園と2か所の人権博物館がある。台北にある人権博物館は、57年から67年まで軍の学校として、後には軍事法廷、91年までは政治犯の収容所として使われていた施設である。緑島記念公園にも2つの政治犯の収容所があり、長期刑を科せられた人が「再教育」(教育的リハビリテーション)のため収容されていた。
 緑島は、台北から台東市まで飛行機で1時間、さらにフェリーで45分のところにあり、ダイビングなどができる観光地である。2人の元収容者が私たちのツアーに同行した。2つの収容所のうちの「ニューライフキャンプ」とよばれた施設は人権博物館になる前から既に廃墟となっていたが、当時の状況を示すレプリカなどの展示を置いた新しい建物がつくられていた。もう一つの収容所「オアシス・ビラ」は、当時の施設他がそのまま残されている。また記念公園には収容されていた人びとの名前を刻んだ大理石の壁がたてられている。2人の元収容者は、自分たちのような人たちが、反政府活動に関わっていないのに逮捕され、長期間収容されたこと、収容所での生活や解放後の困難などについて語った。例えば、収容の記録が彼らの個人記録に記載され、雇用などでの差別につながっている。
 元収容者の困難な現況を知って、会議の参加者は台湾政府に対して公式の謝罪、社会復帰への支援、収容に関する公的記録へのアクセス、人権侵害の加害者の訴追、真実委員会の設置や刑事記録の抹消を行うなど元収容者の人権を尊重するよう呼びかける決議を採択することにした。
 (訳:岡田 仁子) 
 
緑島人権記念公園 収容所.jpg
緑島人権記念公園:収容所内のレプリカ
 
名前を刻んだ壁.jpg
緑島人権記念公園:元収容者の名前を刻んだ壁
 
 
(注)
1: クナーベ所長自身も当時西ドイツ人であったにもかかわらず、東独で禁止された書物を持ち込み、保安省の監視下にあったこともある。
2: Canadian Museum for Human Rights (CMHR), http://museumforhumanrights.ca/about-museum.
3: Programs and Events, Canadian Museum for Human Rights (CMHR), http://museumforhumanrights.ca/stop-1.