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国際人権ひろば No.94(2010年11月発行号)

特集2 国際開発協力の現場から日本社会に問う Part 2

タイにおける事業を事例として政府開発援助(ODA)を振り返る

木口 由香(きぐち ゆか)
NPO 法人 メコン・ウォッチ事務局長

政府開発援助(ODA)とタイ

 ODA の理念を表明した政府開発援助大綱(2003年改訂版)では、目的は「国際社会の平和と発展に貢献し、これを通じて我が国の安全と繁栄の確保に資することである。」となっている。その重点課題は、(1)貧困削減(2)持続的成長(3)地球的規模の問題への取組(4)平和の構築、であるという。重点地域として ASEAN などの東アジア地域について取り上げ、持続的成長のため、日本としてこの地域と経済連携の強化を考慮すると続く。援助実施の原則として「環境と開発の両立」も謳われているが、筆者が2000年ごろから活動しているなかで、その原則とは異なった事業に出会うことがある。
 触れられることが少なくなったが、元々ODA は第二次世界大戦の戦後賠償から始まっている。1954年、「日本・ビルマ平和条約及び賠償・経済協力協定」を結び、日本はビルマに第1号の賠償を行った。これはバールーチャン(バルーチャウン)第2水力発電ダムの建設という形でビルマに提供された。計画を立てたのは今でも国際協力機構(JICA)の ODA 事業の受注トップを走る日本工営で、鹿島建設などが建設に携わった。この事業は、日本の初期の ODA のモデルとなったと言われている。
 その後、日本はフィリピン、インドネシア、ベトナムと賠償協定を結び、カンボジア、ラオス、マレ-シアなどに対して無償援助などを実施した。この戦後賠償を引き継ぐ形で、円借款が1960年代から始まる。日本が何もないところから善意で援助を始めた訳ではなく、被害を与えた代償として開始していることを記憶に留めておきたい。
 一方、タイとは他国と違った問題を抱えていた。日本とタイは大戦中同盟関係にあり、日本軍のタイでの軍費は日本銀行に特別円勘定が設けられて調達され、日本の敗戦で借り越しが残っていた。タイとの間で「特別円問題解決に関する日本国とタイの間の協定」が1955年に結ばれ、残額の支払いと共に96億円を限度額とする借款、あるいは投資をタイ側に供与すると決まった。タイは協定締結後にこれを「無償」と解釈したと主張、結局、1962年に新たな協定が締結され、日本側が「タイの国民感情に配慮」して、無償資金として支払いを行ったという経緯がある。
 タイに対する最初の円借款は1967年、ラムドムノイダム(後にシリントンダムと改名)などに充てられている。その後、円借款はマプタプット工業団地の整備など、タイのインフラ整備に利用されてきた。近年では新空港の建設などにも供与されている。
 急速に工業化したタイではやはり日本と同様に、様々な環境問題が発生している。その解決にも ODA は供与されているが、時に目的とその結果に、大きなかい離を発生させている。

サムットプラカン汚水処理事業
 

 そのひとつが、サムットプラカン汚水処理事業だ。この事業は、深刻化するバンコク首都圏の汚水問題を解決するために計画されていた。1997年時点での総事業費は約229.5億バーツ(約640億円)。日本が強い影響力を持つアジア開発銀行(ADB)から2億3000万ドル、旧海外経済協力基金(OECF、その後国際協力銀行(JBIC)を経て現在は JICA に統合されている)からツーステップローンで70億円の融資を受けており、残りはタイの国家予算で建設された。この事業には、日本の2国間と国際機関を通じた援助の2つの ODA 資金が流れ込んでいる。
 1995年12月に閣議決定され、1997年に事業実施者である公害管理局によってプロジェクト地がクロンダン区に移転された後、1998年2月から建設が始まった。関連施設に300㎞以上に及ぶ下水管網を持ち、東南アジア最大規模の処理能力を持つと言われていた。
 この事業には様々な面で欠陥があった。まず、工業廃水を対象としていたにも関わらず、生活廃水処理のための設計で、重金属などによる海洋汚染が懸念された。建設予定地のクロンダン区周辺は、首都圏にありながら豊かな海辺の漁場が残り、2000年当時、クロンダンの人口3万人の約70%が漁業関連で収入を得ていた。ここに大量の淡水が流入すれば、塩分濃度低下で生態系に深刻な打撃を与える恐れもあった。また、汽水域にある事業地は、激しい浸食と地盤沈下の起きる場所だった。更に、その建設は地域住民が誰も知らないうちに始まっている。
 このように不可解な事業が進んだ理由は、請負企業がターンキー契約2を結んでいたことに起因している。その中で、タイの有力政治家とつながる企業の土地が購入され、本来予定されていた工業地帯近くの場所から、事業がクロンダンに移された。移転に伴い巨大な送水網を持つことになり、工事費も跳ね上がるが、それを受注する企業の利益になった、という訳である。
 住民の血のにじむような努力によって、事業の裏にあった不正の主要な点は解明され、最終的に当時の環境大臣が事業の契約に不備があったという理由で工事を中断、事実上の事業中止に繋がった。タイ政府によれば、約97%が完成していたというが、今も施設は放置されたままである。この結果、機能しない汚水処理場の費用はタイの国民が負担し、日本からの借款も返済された。だが、肝心の工業廃水の問題は未解決のままである。

地盤沈下で歪んだ事業地の門扉(メコン)2.jpg

地盤沈下で歪んだ事業地の門扉(筆者提供)

サムットプラカン事業に対する ODA 供与側の問題
 

 この事業の円借款部分には、ツーステップローンと呼ばれる資金が用いられた。これは、相手国の政府系金融機関等に融資を行い、そこがさらに中小事業者等に融資を行う方式で小規模な融資を可能とし、金融機関の能力向上も目指すものだ。サムットプラカンに供与された資金はもともとタイの環境基金へ融資され、小規模工場などが低利の融資を受けて汚水処理施設を整備することが期待されていた。
 しかし、ほとんど利用されなかったため、タイ政府は基金の使い道の変更を申し出る。日本政府側はそれを承認する際、現地調査をして承認、その後プロジェクト地が変更されても、無条件で承認した。2000年に入りこの事業が問題視されてからも、当時円借款を担当していた国際協力銀行(JBIC)は住民の話は聞くものの、対応としてはタイ政府に改善を求めるに留まった。また、住民が融資中断を求めた際、融資契約を理由に拒否し、更にその内容は公開されなかった。
 一方の ADB は2001年、住民からの申し立てを受け、政策違反について専門家が調査・勧告を行う異議申し立て制度を初めて使用した。ADB 理事会はパネル報告書を検討、勧告は承認したものの、自身の政策違反の有無に関しては合意に達することができなかった。3
 この事業は、被害住民にとっての援助機関の制度上の様々な欠陥を浮き彫りにした。事業の失敗だけでなく、円借款部分は、本来の援助目的から外れた使途でもある。また、2010年になった今でも私たちがこれを問題視している理由は、事業が中断したために日本側の制度で公的な評価が行われていない点だ。これでは、このような失敗が繰り返される恐れがある。
 今や、環境や人間の安全保障に軸足を移したように見える ODA だが、事業名から想像がつかないような実態を持つものもある。国民がその内容をチェックできるような情報公開、失敗をした場合に事業を止め、更に教訓化して検証ができるシステムを構築することが不可欠だ。その一部は実現してきているが、賠償から始まった ODA が、世界の人々のためのものに変わっていくには、市民側の更なる監視が必要とされている。


1 軍事政権下で正当な補償を得られず移転させられた影響住民は、30年経ってタイで一番民主的と言われた1997年憲法を盾に補償を要求し、10年以上たった2010年にようやく解決を見ている。ODA 事業の影響の重さが伺える。
2 建設事業を行う際の運営や請負方式の1つ。建設業者が企画から完成まであらゆることを一括して請負う。
3 詳しくはメコン・ウォッチのウェブサイト
http://mekongwatch.org/)を参照されたい。

【参考】
第040回国会外務委員会第2号 昭和37年2月9日(金曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0082/04002090082002a.html
(2010年9月24日アクセス)