MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.76(2007年11月発行号)
  5. Part1 インド映画に見るインドの寡婦問題

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.76(2007年11月発行号)

特集 インドの多様性 -人権の視角から

Part1 インド映画に見るインドの寡婦問題

高倉 嘉男 (たかくら よしお) ジャワーハルラール・ネルー大学ヒンディー語博士課程在籍

■寡婦に科せられる再婚禁止の足かせ


 インドは男尊女卑の社会だと言われ、女性の人権に関わる数々の問題が取り沙汰されるが、その中でも特に寡婦・未亡人を巡る問題は、インド社会の大きな病巣のひとつである。インドでは女性の幸せは夫と共にある。家族や社会の中でステータスを保つには、夫の存在が不可欠である。女性は幸運を呼び込む女神として婚家に嫁ぎ、年を取ると女主人として家庭の一切を取り仕切る。だが、夫に先立たれた女性は一転して不吉な存在とされ、家族の中で居場所を失う。寡婦は、派手な色の衣服を着ること、装飾品を付けること、甘いお菓子を食べること、外に出て遊ぶことなど、一切の快楽と自由を禁じられる。かつてはサティーと呼ばれる寡婦殉死の習慣があり、夫を亡くした女性は夫の遺体と共に生きたまま焼かれることがあった。サティーの習慣はほぼ消滅したとされる今、寡婦に科せられる最も残酷な仕打ちとなっているのが再婚の禁止である。夫を失った女性は再婚することが出来ず、一生寡婦のまま、家族から邪魔者扱いされながら生きて行かなければならない。インドの伝統的社会では、寡婦は生きた屍なのである。通常、インドの寡婦問題の中で最も問題視されるのがこの寡婦の再婚禁止の問題であり、19世紀からその改革が訴えられて来ているが、今でも完全にこの禁忌は払拭されていない。

■インド映画と寡婦問題


 インド映画は昔から寡婦問題を直接的・間接的にストーリーの中に取り込んで来た。例えば、インド映画史上最大のヒット作として今も語り継がれる伝説の作品「Sholay(炎)」(1975年)でも、寡婦のヒロインが出て来た。ヒロインの夫は警察官だった父親の宿敵の盗賊に殺され、彼女は若くして寡婦となってしまう。主人公の2人組は村に用心棒として雇われてやって来るのだが、その内の1人が寡婦と恋に落ちる。だが、結局寡婦に恋したヒーローは盗賊との戦いの中で命を落としてしまい、寡婦の再婚は実現せず、寡婦問題の解決はうやむやのままに終わっている。いかに伝説的作品と言えど、この時代にはまだ寡婦の再婚を完全に肯定的には描けなかったようだ。逆に言えば、この問題に深入りしなかったおかげで、「Sholay」はより多くの観客から受け入れられたとも言える。
 ところが21世紀になり、映画で描かれる寡婦像にも多少変化が表れた。例えば「Hum Tum(僕と君)」(2004年)のヒロインはモダンな考えの女性で、夫を亡くした後も伝統的な寡婦の衣服である純白のサーリーを着ない。そしてフランスに渡ってブティックを経営し、経済的に自立した生活を送る。クライマックスでは昔からの知り合いで悪友とも言える仲だった主人公と再婚し、ハッピーエンドを迎える。「Hum Tum」の中では、寡婦の再婚は全く問題視されず、むしろ運命で結ばれた2人がゴールインするまでの紆余曲折がコメディータッチで描かれていた。これだけを見るとインド人の考え方もかなり変わったように思われるが、それでもまだインドの社会には寡婦の再婚に対する反発が根強いようで、それを反映するように寡婦問題をテーマにした映画はむしろ以前よりも多く作られている。
 「Baabul(父)」(2006年)の主人公は若くして寡婦となった女性の義父である。義父は、夫を亡くして以来ふさぎ込んでしまった嫁の元気を取り戻すために、かつて彼女に恋心を抱いていた男性を探し出し、寡婦の再婚禁止という因習に囚われた家族を説得して、彼女をその男性と再婚させる。寡婦の実の父親ではなく、義父が再婚を応援するという構図が新しかった。実の父親とその家族は、寡婦の再婚など問題外とする保守的な人々で、それに対し義父は、「寡婦の再婚禁止は形を変えたサティーだ」と痛烈な批判をぶつける。「Baabul」からは、保守的な家庭では未亡人の肩身は今でも狭いのだということが分かる。

 ところで、先月10月に東京で開催された東京国際映画祭およびその共催・提携企画では、合計4本のインド映画が公開された。偶然ながら、その内の2本は寡婦問題を取り上げた作品であった。「Dor(運命の糸)」(2006年)と「Water(ウォーター)」(2005年)である。両作品を詳しく見てみよう。

■「Dor」


 「Dor」は、ヒマーラヤ地方に住むムスリムの女性ズィーナトと、砂漠の州ラージャスターンに住むヒンドゥー教徒の女性ミーラーの物語である。ズィーナトの夫アーミルと、ミーラーの夫シャンカルは同時期にサウジアラビアに出稼ぎに出掛け、偶然現地で出会って同居していた。だが、シャンカルはマンションのベランダから落ちて死んでしまい、アーミルが殺人犯として逮捕されてしまった。アーミルには死刑が宣告された。サウジアラビアの法律によると、刑が執行される前にシャンカルの妻から免罪状を受け取るしかアーミルを救う手はなかった。シャンカルの死は事故だと信じたズィーナトは、アーミルとシャンカルが写った写真だけを手掛かりにラージャスターン州へ単身向かい、ミーラーを探し出す。
 ミーラーは明るい女性で、家族からも愛されていたが、夫が死んだ途端、家族の不運と悲嘆の象徴となっていた。腕輪も首飾りも外され、死神のような黒い衣服しか着ることを許されなくなり、外出も寺院への参拝以外は出来なくなる。稼ぎ頭を失い、経済的に困窮した家族は、彼女に売春をさせようとまでする。自立した女性だったズィーナトは囚人のようなミーラーの生活と考え方に心を痛め、自分の人生を自分で決めて行く生き方を教える。「Dor」のメインテーマは寡婦問題ではあったが、そのメッセージはもっと普遍的なもので、「自分で決断して生きること、そして自分の決断に責任を持って生きること」の重要性が訴えられていた。

■「Water」


 一方、「Water」は寡婦問題を徹底的に掘り下げた映画である。具体的には、幼年寡婦の問題、そしてヴィドヴァーシュラムと呼ばれる寡婦の収容所の問題が取り上げられていた。寡婦の再婚を禁じる因習が最も女性の人権を踏みにじるのは、幼児婚の習慣とセットになったときだ。現在では廃れて来ているが、インドでは幼年の子どもを早々にお見合い結婚させてしまう幼児婚の習慣がある。多くの場合、幼少時に結婚式だけ挙げておいて、お互いの子どもが十分に成長した後に正式に花嫁を婚家に嫁がせる。幼児婚自体の是非はここでは論じないが、それが深刻な問題となるのは、許嫁の夫が幼くして死んでしまった場合である。いかに幼年でも、「夫」に先立たれてしまった女の子は寡婦扱いとなる。そして今後一切の再婚を許されず、事実上未婚のまま、顔も見たことがない「夫」の寡婦として一生を過ごさなければならなくなる。「Water」の主人公チュイヤーも、8歳にして寡婦になってしまった不幸な少女である。
 チュイヤーは家族に捨てられるように、寡婦収容所に入れられる。そこでは多くの寡婦たちがただ死を待つだけの生活をしていた。映画に出て来るような寡婦の集住する場所は実際にインドに存在する。その多くは宗教的聖地に建てられているが、それはなるべく神様の近くで死ねるようにと考えられているからだ。寡婦収容所は寄付金によって運営されていることが多いが、「Water」で描写されているように、寡婦たちが乞食をして集めたお金や、若い寡婦に売春をさせて稼いだお金も運営資金に回されることがあるようだ。

 「Water」で最も印象的なシーンは、寡婦の老婆がラッドゥー(甘い団子状のお菓子)を食べる場面である。先にも述べたが、寡婦はお菓子を食べることを禁じられている。「Dor」にも、ミーラーが隠れながらお菓子を食べるシーンがあった。チュイヤーが入った寡婦収容所には、ラッドゥーが食べたくてたまらない老婆が住んでいた。彼女は事あるごとに最後に食べたラッドゥーの味を皆に話して聞かせていた。だが、寡婦であり、しかも高齢過ぎて外に出られない彼女に、ラッドゥーを食べる機会が巡って来るはずがなかった。お菓子を食べたい、そんなささやかな夢すら彼女には許されなかった。それを見たチュイヤーは可哀想になり、乞食をして集めたお金でラッドゥーを買って、眠っている老婆のそばに置いておく。目を覚ました老婆は夢か現実か分からぬままにそのラッドゥーを口にし、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。その日、老婆は亡くなってしまう。
 「Water」は、寡婦を蔑ろにするインドの社会が引き起こす最も深刻な問題とその結末を美しい映像と共に赤裸々に映し出すことに成功した作品であった。

 インドは広大かつ多種多様な国で、寡婦問題ひとつをとってもその在り方は地域や階層によって全く異なる。「Hum Tum」のようなモダンでハッピーエンドな寡婦もいれば、「Water」のような幼く不幸な寡婦もいる。都会の富裕層の中では寡婦の装飾禁止、再婚禁止などは前時代的なものとして扱われるようになって来ているが、農村部ではそれらの因習は法律よりも強い拘束力を持っている。インド映画は、寡婦問題を含め、多様でユニークなインド社会の一側面を垣間見ることの出来る、ひとつのツールとなるだろう。