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国際人権ひろば No.159(2021年09月発行号)

特集:反人種主義を議論した世界会議「ダーバン会議」から20年

世界会議時代・NGO隆盛期のダーバン会議を振り返る

藤岡 美恵子(ふじおか みえこ)
ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン共同代表

世界会議の時代

 21世紀幕開けの2001年に開かれたダーバン会議(人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に反対する世界会議)は、さまざまな意味で20世紀との連続性とそこからの変容を象徴する会議だった。1990年代、リオデジャネイロで開かれた地球環境サミット(1992年)を皮切りに、人権、人口、社会発展、女性、居住をテーマに次々と国連主催の世界会議が開かれ、宣言や行動計画が採択された。ちょうど冷戦終結後、大国による覇権争いの政治から多国間協調主義による地球規模の課題解決をめざす政治への移行に期待が高まった時期であった。
 ことに注目されたのが市民社会や草の根の社会運動の参加である。どの会議でも市民社会団体が準備段階から本会議まで参加を認められ、市民社会の意見を会議成果文書に反映させるための活動を精力的に行った。この時期、特定分野で専門的な知見とスキルをもつ政策提言型のNGOが台頭したが、そうした団体が政府と伍して専門的な議論を展開した。数万人のNGO参加者が政府間会議と並行してNGOフォーラムを開いて多様な課題を話し合い、交流と連帯を築く場が創出された。「地球市民社会」という語がもてはやされた時期であった。
 ダーバン会議以後、このような規模の世界会議は開かれていない。NGOや社会運動体の参加を快く思わない米国などが見直しを要求したためである。その後、各世界会議の成果がどこまで実施されたかをフォローアップする会議も開かれたが、多くの場合その規模は縮小を続け、世界会議の実効性が問われることとなった。
 ダーバン会議の直後に起きた9.11事件は、1990年代に出現した楽観主義や高揚感に冷や水を浴びせることとなる。米国主導の対テロ戦争の中で、テロ容疑者の拷問が容認されるなど人間の平等原則が否定され、正当な社会運動が対テロの名の下に弾圧されるなど、20世紀までに勝ち取られた人権保障の基盤が掘り崩される事態が進行した。

他の会議とは異質だったダーバン会議

 ダーバン会議もそれまでの世界会議と同じ方式で行われ、NGOも約2000団体が参加した。日本ではNGOの連絡・連携組織として「ダーバン2001」(筆者は事務局次長を務めた)が結成され、事前の政府との交渉やNGOの共同行動を調整した。
 しかしダーバン会議にはそれまでの世界会議とは本質的に異なる特徴がある。それは、会議のテーマが現在の国民国家体制の根本に関わる不正義の問題、すなわち植民地支配とそれに連なる人種主義という問題だったからだ。単に人種差別はいけない、奴隷制は許されないという表面的な議論ではなく、今日の人種差別が歴史的にどのように形成されてきたのか、だれが奴隷売買をしたのか、そこから利益を得たのはだれか、植民地支配の被害が救済されたのかといった根本的な問題が問われたのだ。だからこそ、日頃は途上国(旧植民地)の人権侵害を批判する欧米諸国が自らの植民地支配責任を認めることに激しく抵抗したのである。この姿勢は欧米諸国だけでなく日本政府も共有していた。自らの植民地支配責任を追及されることを恐れた日本は、消極的姿勢に終始し会議でもほぼ沈黙を保った。
 もうひとつの違いは、人種主義の被害当事者が多数参加したことだった。ダーバン以前から長年にわたり植民地支配と奴隷貿易への補償を要求してきた世界各地のアフリカ系の人々、インドのダリットや日本の被差別部落民、先住民族など、被害を受けてきた当事者が、専門家集団としての「NGO」(多くは欧米諸国に本拠を置き、高学歴のエリート欧米人によって構成される)に代弁されるのではなく自ら声を挙げた。
 高度な専門性と豊富な人材、資金、コネクションをもつ専門家集団化したNGOは世界会議や国際機関、各国政府の意思決定機構に入り込み、市民社会の声を反映する役割を果たせると期待された。その反面、それは政府や国際機関の決めた議題=アジェンダの枠組みの中での改良活動にとどまるという限界がある。むしろこうしたNGOが既存の体制に取り込まれて被害当事者や一般市民が政策決定過程から疎外されるという懸念、政府が市民社会の声を聞いたという口実に使われるのではないかとのおそれは、ダーバン以後さらに強くなっていった。
 歴史的不正義に対する責任を追及する運動、社会において優越的地位にある多数派人種/民族に鋭い批判を向ける人種主義撤廃運動は、そうした短期的な政策改良志向の営みとは本質的に異なる。それを象徴するのが、会議場の外で繰り広げられたさまざまなイシュー(課題)をめぐる抗議デモである。自国開催なのに会議参加費を払えず参加できなかった南アフリカの黒人のデモもあった。その姿勢は政府の「パートナー」として「グローバルガバナンス」に参加することをよしとするエリートNGOとは根本的に異なっていた。

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政府間会議場の前で職業と世系に基づく差別を
「宣言」「行動計画」に盛り込むよう求める部落解放同盟の参加者
(ヒューライツ大阪撮影)

ダーバン会議の遺産

p6-7_img1.jpg政府間会議における「行動計画」の起草委員会
(ヒューライツ大阪撮影)

 ダーバン会議の公式の成果はダーバン宣言と行動計画だが、その内容を各国政府が実行に移しているとは全く言い難い。国連でアフリカ系の人々の常設フォーラム設置決議が採択され(2014年)、人種差別に関する国連特別報告者が賠償問題で報告を作成(2019年)するなど、目立たないながら会議が生んだ成果もある。それでも、人種差別問題にとりくむ被害当事者団体でさえ、ダーバンに言及することは少ない。
 植民地支配の責任を追及し過去の不正義を正そうとする運動はダーバンの以前も以後も存在してきた。ここ数年世界的に広がるブラック・ライブズ・マター(BLM)運動や、奴隷貿易・植民地支配を象徴する人物の銅像の撤去運動、植民地支配犯罪を掘り起こしその責任を問う運動とダーバン会議との直接の関係を見出すことは難しいかもしれない。むしろ、ダーバンはその歴史的プロセスの一つの通過点として考えるべきであろう。主権国家から成る国連が近代国民国家体制の根幹を揺るがしかねない問題を取り上げた国際会議を世界レベルで(欧米諸国も参加する形で)開催したことは、ある意味で奇跡と言えるかもしれない。そこで欧米諸国(および日本)が頑として責任を否定したのも、ある意味で必然である。ダーバン後も植民地支配の責任を認めようとしない国家が大半という中、不十分に終わったとは言え、参加各国はダーバン宣言に合意した。市民社会はそのコミットメントを破棄するな、と国家に迫ることができる。
 市民社会にとっては、ダーバンは単純な国家対市民という構図には収まらなかった。会場内でパレスチナ人とイスラエル人の参加者が激しく衝突した出来事が示すように、人種差別や植民地支配をめぐっては市民同士も鋭い対立関係にあることが如実に示された。植民地支配の責任を旧植民地宗主国の市民が自らの課題として追及し、人種差別を社会全体の問題として捉えて運動を起こす必要があることをあらためて確認できた会議であった。
 世界会議のフォローアップは、成果文書が国内でどこまで実施できたかをモニターすることに終始すべきではない。成果文書に入らなかった(国家によって拒否・無視された)問題を追求することをやめ、現実的に可能なことの範囲に自分たちの活動を狭めてしまう危険性があるからだ。ダーバンは短期的な政策や制度改良では解決しえない課題に取り組んだ会議だったからこそ、そのフォローアップは、まさに植民地支配の負の遺産を清算し人種差別を撤廃するという長期的な歴史的運動を前へ進めることにほかならない。
 微力ながらその運動の一翼を担うべく、ダーバンに参加したNGO活動家や研究者が今年「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン」注)を開始した。ダーバンの意義を振り返り、反レイシズムがあたりまえの社会をつくるための活動を行っている。読者の皆さんにも是非参加してもらいたい。



注:
「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン」https://durbanplus20japan.blogspot.com/