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国際人権ひろば No.157(2021年05月発行号)

アジア・太平洋の窓

ミャンマー(ビルマ)問題を読み解く

宇田 有三(うだ ゆうぞう)
フォトジャーナリスト

 「予想外」のクーデター

 ミャンマー国軍が2021年2月1日、突然のクーデターを起こして3ヵ月が経つ。この事態は、この国に関わってきたメディア関係者・研究者・支援団体等にとって、おしなべて予想していなかったことだった。筆者もその一人である。

 この予想外の出来事には既視感がある。テインセイン元将軍が大統領として政権に就いた2011年、国内外のミャンマー・ウォッチャーの多くは、タンシュエ元上級大将(前の独裁者)がテインセイン大統領を背後から操り、ミャンマーの民主化は程遠いだろうと想像していた。ところがテインセイン大統領は、武装抵抗少数民族との停戦合意や政治囚の釈放などを実行し、ミャンマーの政治改革を世界に見せつけることになった。その変化は、アウンサンスーチー氏が党首を務める国民民主連盟(NLD)が勝利した2015年の総選挙の結果へとつながっていく。

 今回の民主化デモに先立つ1988年、独裁者ネウィン将軍(当時)による強権政治への反発や疲弊した経済による生活苦によって、ビルマ(当時)の人びとは街頭に繰り出し抗議運動を始めた。その運動はやがて、社会改革を求める民主化要求デモへと急速に拡大し、国軍がクーデターを起こし新しい軍部体制を発足させる契機となった。

 1988年のデモが社会の閉塞感を発端としたクーデターにつながるなら、今回のクーデターの背景は何なのか。国軍は、前年の2020年11月に行われた総選挙(NLDの大勝)に不正があったという、極めて無理筋の主張を一貫して押し通している。国軍は、憲法条文を曲解した上で「憲法の枠内」でのクーデター(救国行動)を起こし、不正選挙の結果のまま議会が開かれるなら国が崩壊しかねかなかったという、矛盾した主張を続ける。

 「国民」に向けられてきた国軍の銃口

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ミャンマーに暮らしていても、自動小銃の引き金に指をかけた
国軍の兵士たちの姿を見ることは極めて限られている。
少数民族地域で軍の活動が続く前線に向かう国軍兵士たち
(カヤー州、2015年)筆者撮影

 日本の報道では、今回のクーデターの背景を次のように解説している。国軍側とスーチー氏側の間には修復しがたい対立や権力闘争があった。また国軍最高司令官ミンアウンフライン上級大将が、個人的な野心を抱いて大統領を目指している、とも取り沙汰している。一見すると、それらの説明は、話の筋が通っている。だが筆者には過去2回、ミャンマーという国の動きを読めなかった反省から、これまでとは異なった枠組みでミャンマーを見なければ、と考え込んだ。

 そこで辿り着いたのが次のような考えである-ミャンマーという国は、テインセイン政権の5年間とそれに続くスーチー政権の5年間の計10年間に自由を感じさせる期間があったとしても、実は1948年の独立以来、70年間以上も内戦が続き、いまだに銃火が止むことがなく、国内が完全に統治されていない。

 国軍は国を守るためにある、とされる。注意しなければならないのは、ミャンマーの文脈では、国軍とは、外敵から国を守るのではなく、国内の「破壊分子」や「抵抗勢力」から国の分裂を守るために存在しているのだ。銃口は国民に向けられてきた。つまり、国軍側は自らの国づくりの政策に反対する者、その方針に異議を唱えて立ち塞がる者を「敵」と見なしてきた。例えば、人口の約3割強を占める複数の少数民族は、多数派のビルマ民族(ミャンマー民族)の同化政策に抵抗してきたために、国軍に対して武装抵抗闘争を続けるしか道はなかった。そのため、ミャンマーでは長年、戦闘が続いてきたのだ。実際、2020年末から現在に至っても、カレン州・カチン州・シャン州では、国軍と武装抵抗少数民族の戦闘により、数千人に上る国内避難民が発生している。国際社会はその事態を、このクーデターが起こるまで、どこまで意識していたのだろうか。

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少数民族地域では今も戦闘が続く。
武装抵抗を続けるカレン民族解放軍(KNLA)が
武装抵抗闘争70周年の記念式典を催した
(カレン州、2019年)筆者撮影

 国軍がめざす「規律ある民主主義」への市民の抵抗

 もうひとつ、ここで立ち止まらなければならない。国軍もスーチー氏も「民主主義体制」を目指している。しかし、その民主主義の内容は全く異なる。スーチー氏側は、議会制民主主義の確立を目指している。そのため「軍は国防のために必要だが、軍が政治に関与するのは認めない」との原則を譲らない。一方、国軍側は、国の体制として「規律ある民主主義」(disciplined democracy)を唱えている。

 ある欧米の軍事専門家が次のように言い表している。

 「世界を見渡して見ると、軍隊を持つ国や持たない国などさまざまある。しかし、ミャンマーを見ると、そこには"軍隊が国を持つ"という特異な例がある」と。つまりミャンマー国軍とっての民主主義とは、軍が国を統治する形でのみ成り立つのである。武力を持った官僚組織(人事・予算・情報の独占)が国を統治する政治体制の確立を目指している。

 クーデターが発生してから約1ヶ月、“治安警察”を前面に立てた国軍による抗議デモ者への対応は、ある程度の抑制が見られた。しかし、公務員による「市民的不服従運動(CDM)」による抗議が広がるにつれ、国軍の対応は目に見えて激しくなった。

 ミンアウンフライン司令官による3月8日の「抗議者は銃で撃たれて抑えられる(Protesters are shot to be cracked down)」という発言以降、死者の数は数倍に達した。まさに、国軍に刃向かうのは、たとえそれが武器を持たない非暴力の者であっても、国軍を政治の舞台から排除しようとする者は敵であった。これまで少数民族を敵と見なしてきた同じ発想と行動がそこに見られる。国軍による抗議者の殺害シーンが今回、インターネットのSNSで拡散されることによって、国際的にも可視化された。2月1日のクーデター以後に突然、国軍が変わったのではない。

 国軍側は、76歳という高齢のスーチー氏さえいなければ、再び国軍が政治力を発揮できると読んでいたのであろう。しかし、2011年の民政移管後、自由な社会の風通しの良さと豊かさを享受した人びとは、ミャンマーで見られた上意下達の政治文化に疑問を持つようになっていた。若い人びとを中心とした新しい市民層が誕生したのだ。さらに、人口の7割に及ぶ農村部の人びとも、インターネットの拡大を背景に当局からの押しつけではない情報に接するようになっていった。そんな新しい人びとは実際、NLDやスーチー氏の方針をも批判するようになっていた。

 国際社会にできること

 ミャンマー社会はこれまで、軍事独裁体制とスーチー氏という二項対立で語られることが多かった。そこには、武装抵抗少数民族や農村に暮らす人びとの姿にはあまり注意が払われてこなかった。新しい市民層はその存在を、2020年11月の選挙で示したのである。国軍は、選挙でスーチー氏を排除すれば、再び軍主導の政治を行うことができると踏んでいたのだろう。だが、民主化以降、ミャンマーには次世代の指導者を選び出す新しい市民社会が生まれつつあった。それは、スーチー氏が軟禁状態にされている現在の人びとの動きをみれば明らかである。スーチー氏を排除すればよいという国軍の認識は外れてしまったのだ。

 3月27日の「国軍記念日」(1945年抗日蜂起の日)、国軍は武装抵抗少数民族カレン人の地域を空爆した。クーデター以後、国軍の動きに注視していた外部の人はようやく、迫害されてきた少数民族の存在に改めて注意を向けるようになった。

 ミャンマー国内で続いている、国軍による殺戮を前にして国際社会がとれる方策には、確かに限界がある。国軍の次の動きは誰も予測できず、我々は絶えず後手の対応を採らざるを得ない。だからといって手をこまねいているわけにはいかない。

 ミャンマー国外にいる我々は、国軍の行動に右往左往する必要はない。国軍の掌の上で踊らされ続けるわけにはいかない。こちらが人権や民主主義を大切にするのだという原理の姿勢を崩さず、国軍に政治的・経済的な圧力をかけ続けるしかない。70年も続いてきた内戦にいきなり終止符を打つことは極めて難しい。まずはこの間、どうして我々はこのミャンマー問題を見誤っていたのかを率直に認めて対処していかなければならない。それはミャンマー軍政を30年近く取材してきた筆者が今、いえることである。