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国際人権ひろば No.145(2019年05月発行号)

人権の潮流

女性や移民の立場から見るハーグ条約-条約締結5年のいま

石井 眞紀子(いしい まきこ)
弁護士

 ハーグ条約とは

 ある日本人女性が米国人男性と国際結婚をし、米国に移住した。慣れない環境の中、専業主婦として子育てに励んでいたが、夫婦仲が悪化してしまう。とりあえず別居をしようと子どもを連れて日本の実家に戻ったところ、夫が子どもを返せと言ってきた-

 こんなときに適用されるのが、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」(通称「ハーグ条約」)である。

 ハーグ条約が日本で発効してから、2019年4月1日で5年を迎えた。条約そのものは1980年に作られ、当初の加盟国は欧米の数か国であった。日本は長年、欧米諸国から締結を求めるプレッシャーを受けていたが、2014年にようやく締結に至り、同年4月1日から発効した。現在の条約加盟国は、99か国であり、アジアでは日本を含む8か国が加盟している。

 条約の概要

 条約の基本的な考え方は、親権や監護権など子どもに関することは、子どもが生活していた国の裁判所で決めるべきというものである。だから、子どもが慣れ親しんだ場所から違う国へと連れて行った親は、直ちに元の場所に子どもを返し(一緒に親も帰国してもよい)、その国で裁判するべきである、という考え方に立っている。そのように決めることで、親が自分に有利な法律がある国を選んで移動すること(フォーラム・ショッピングと呼ばれる)を防ぐとともに、子どもを親の都合でむやみに移動させることを未然に防ぐことができるというのである。

 子どもの連れ去り・留置の時点から1年以内であれば、原則は元の国へ返還しなくてはならないが、いくつかの例外も条約に定められている。

 冒頭の例でいえば、アメリカ人の父親が子どもを返せと言ってきたら、日本人の母親は、例外が認められない限りは直ちに返さなくてはならない。具体的な手続きとしては、話し合いで解決しなければ、父親は日本でハーグ条約の裁判をし、裁判所が母親に対して子の返還を命じることになる。それでも母親が返さない場合は、父親が強制執行の手続きを裁判所に申し立てて、強制執行が行われる。

 返還を命じられた母親は、父親に子を渡す必要はなく、自分で子を連れてアメリカに帰ってもよい。しかし、多くのケースでは、父親に子を引渡し、それ以上裁判もせずに事実上、父親が育てることになっているようである。

 ハーグ条約の利点

 冒頭に挙げた例は、日本では最も数が多いと思われる典型的なケースであるが、国際結婚ばかりでなく、日本人同士の例もあるし、日本からどこか外国へ連れ去られたり、父親が母親から子を引き離したりという例ももちろんある。

 各加盟国には、条約の円滑な運用のために中央当局が置かれる。日本の中央当局である外務省領事局ハーグ条約室が毎月公表している「ハーグ条約の実施状況」 注1によれば、2014年に条約が発効してからちょうど5年が経過する2019年3月現在、日本から外国への子の返還申請は通算104件、外国から日本への子の返還申請は96件となっている。相手国は、米国が最も多いが、続いて豪州、タイ、英国、フィリピン、カナダなど多岐にわたる。

 また、ハーグ条約のもう一つのカテゴリーとして、日本にいる親と外国にいる子(または外国にいる親と日本にいる子)との面会交流を支援するというものもある。その申請も、5年間の合計は132件に上る。

 国境を越えた子の連れ去りについて、それだけ助けを求めたい人がいるということであり、その解決の方法が増えることは評価できよう。また、統計はないものの、ハーグ条約の存在そのものによってある日突然子どもが海外へ連れ去られ、それきり会うことができなくなるという悲劇も、ある程度は防げているのではなかろうか。

 さらに、ハーグ条約に加盟していなかった頃は、外国から里帰りのため日本に一時帰国したくても、「日本はハーグ条約未加盟である」ことを理由に、外国の裁判所からの渡航許可が出ないという問題があったが、加盟に伴い一時帰国をしやすくなったという点も忘れてはならない効用である。

 ハーグ条約の問題点

 このように、利点もあるハーグ条約ではあるが、日本は長い間加盟しなかった。その間、欧米の国々から、「日本女性が子どもを連れて日本に帰るともう二度と子どもに会えない。日本は連れ去りのブラックホールだ」などという言い方をされ、ハーグ条約への加盟を強く要請されてきた。

 にもかかわらず、日本が加盟しなかったのはなぜであろうか。それは特に女性の権利の観点から、様々な懸念があり、反対意見が根強かったためである。また、夫婦関係が破綻した際には母親が子を連れて実家に帰るという日本の風習にハーグ条約はそぐわないという意見もあった。

 ハーグ条約における、子どもを国外へ連れて出たら、一旦元に戻して裁判せよというルールは、一見シンプルで正しくも思える。しかし、現実はどうであろうか。

 冒頭に挙げた例でいえば、米国人と結婚し、米国で暮らす母親は、米国では移民の立場にある。言葉のハンディもあるし、子が生まれたので仕事をすることもままならない。ハーグ条約の理想では、この母親が夫と別れたい場合には、まず、米国で裁判をして、誰がどこで子どもを育てるのかを決めなさいということになるが、それは言うほど簡単なことだろうか。言葉やお金のハンディを乗り越えてどうにか裁判をしたとしても、離婚後も米国で共同養育しろとなるかもしれない。しかし子育ての負担でキャリアを犠牲にした母親が、その国で夫と離れて自活するなど、ほぼ不可能に近いのではないだろうか。もし、この母親が、DV被害者であった場合でも、とりあえず祖国に逃げ帰ることすら許されないのだろうか。この母親を、ルールだからとその国に縛り付けることは、果たして正義にかなうのだろうか。

 つまりこの条約は、① 移民であり、② 女性である、という二重に弱い立場に置かれた親の立場に十分に配慮しているとは言い難いのである。言語や文化が似通っている欧米諸国間ならともかく、欧米男性との国際結婚が多い日本人女性には、条約のもつ不合理が特に顕著に覆いかぶさるのではないだろうか。

 もちろん、ハーグ条約には、先ほど触れたとおり返還の例外が規定されている。その中には、「返還により子が心身に害悪を受け、または耐え難い状況に置かれる重大な危険がある場合」には子を返還しなくてよいというものがあり、これによってDV被害者の保護が一応は図られている。しかし、これもあくまで「子にとっての将来の危険」を立証しなくてはならず、単に母親に対するDVがあったというだけでは足りない。実際に日本において、条約発効からの3年間で、DVを理由として返還しなくてよいとされた裁判例は家裁・高裁合わせてわずか一例しかない 注2

 今後について

 このように、日本の裁判所は、原則返還という決まりを律義に守っており、なかなか例外を認めない。しかし、ハーグ条約を知りながら、それでも日本に帰ってきた親には、そうするだけの理由が本人的にはあることから、判決が出たからといって「分かりました、返します」となるケースは少ない。そうなると、強制執行となるが、執行官は無理やり親と引きはがすといった子どもの心身が傷つくような行為はできないなど、その強制力に制限を設けた日本の法制度の問題 注3もあって、執行が成功せずに塩漬けになるケースも出てきているようである。近年では、この点が主に諸外国からの批判の対象となっている。「ブラックホール」批判の再燃である。

 ハーグ条約の発効から5年が経ち、世間では利点ばかりが強調され、加盟前にあれだけあった反対意見が鳴りを潜めているように思える。しかし、現在の運用を見ると、当初の懸念が解消されたわけでは決してなく、今後も活発な議論が必要である。個人的には、ハーグ条約がもともと抱えている不条理を、執行の場面で解決するのではなく、問題点を裁判所や関係者がよく理解して、例外を認めるべきときは思い切って認める運用がなされるべき、と考えている。

 

1:https://www.mofa.go.jp/mofaj/ca/ha/page25_000833.html#section1

2:「ハーグ条約実施法に基づく子の返還申立事件の終局決定例の傾向について」 東京地裁判事依田吉人、「家庭の法と裁判」2018年12月号

3:2018年10月に法制審部会がハーグ条約実施法の執行部分の改正案を法相に答申し一部改正される見込みだが、依然として不十分であるとの批判も強い。


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