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国際人権ひろば No.138(2018年03月発行号)

特集 「人権」のとらえ方再考-権利を理解する学びを

「ビジネスと人権」と人権教育の接点

松岡 秀紀(まつおか ひでき)
ヒューライツ大阪特任研究員

ビジネスと人権

 企業対象のセミナーなどで話を始める前に「人権は難しいと思う人は?」と尋ねると、9割以上の人が手をあげる。尋ね始めたこの5年ほど、ほとんど変わっていない。おそらく数十年前から変わっていないのかもしれない。

 世界人権宣言70周年を迎える2018年は、「ビジネスと人権に関する指導原則」が国連人権理事会で承認されてから7年という年でもある。この7年の間、企業に関わる人権をめぐる動きは激しく、とりわけ大手のグローバル企業では、CSRの中で人権の尊重を掲げるところが従来以上に多くなってきた。

 「ビジネスと人権」という枠組みの中心にある「指導原則」は、国連事務総長特別代表であったハーバード大学教授のジョン・ラギーらによってまとめられた。そこでは、国家には企業による人権侵害から個人を「保護」する義務を、企業には人権を「尊重」する責任を求めている。そして人権侵害から「救済」する仕組みの必要性も示している。企業が人権尊重責任を果たすには、取引先や消費者との関係も含めて、事業活動のあらゆる面で「人権リスク」はないか、つまり人権を侵害していないか、あるいは侵害する可能性はないかを洗い出して問題を特定しなければならない。そして具体的に誰のどのような人権をどのように侵害しているかを評価し、人権を侵害することがないよう対処(防止、軽減)することが求められる。その際、前提となる人権は「国際的に認められた人権」、つまり世界人権宣言、国際人権規約、ILO中核的労働基準などからなる「国際人権基準」とされているものだ。

 この国際人権基準は、ISO26000やGRIなどのCSRに関連する国際的な基準でも、不可欠のものとして言及されている。さらに、SDGs(持続可能な開発目標)が含まれている「持続可能な開発のための2030アジェンダ」では、世界人権宣言などに言及しながら、人権の尊重がSDGsの17目標の大前提であることが述べられている。国連グローバル・コンパクトなどによって書かれたSDGsの企業行動指針である「SDGコンパス」でも、人権の尊重が「企業の基本的責任」として重視されている。

人権の理解は共有されているか

 さてしかし、日本企業において「ビジネスと人権」の取り組みが問題なく順調に進んでいるわけではない。「壁」とも言ってよい、いくつかの困難が存在する。冒頭の「難しい」はそれを象徴している。実際、企業の担当者と話をすると、さまざまな課題がときに「悩み」として表れる。

 困難の要因の一つは、CSR基準やSDGsでは当たり前のように語られる人権についての理解が、企業の中で必ずしも共有されていないことにあると筆者は考えている。個々の従業員から経営者に至るまで、ある人は人権といえば差別のことをイメージするかもしれないし、ある人はハラスメント、女性や性的マイノリティの労働といった職場での問題を想起するかもしれない。最近では、児童労働の問題を思い浮かべる人も増えてきているかもしれない。人権のイメージは、それぞれの人生での経験や学んできた内容、生きてきた世界の文化的背景などによってさまざまである。

 さらに、人権問題の解決に至る方途として、「人権意識の高揚」や人への「思いやり」、そのための人権啓発の必要性が想起される場合もあるかもしれない。しかしそれは、上述した「ビジネスと人権」における、人権侵害からの回復をめざす「救済」の概念とはかなり距離のあるものである。

 企業の取り組みにおけるこうした壁は、企業以外の場での人権教育における壁と通底している。その「底」には「権利(rights)」がどうしても「腹落ち」しないことがあると筆者は考えている。このことをもう少し考えてみたい。

「権利」を「腹落ち」させるために

 『人権の擁護』という冊子が毎年改訂されて法務省から発行されている。その中の「主な人権課題」の章では、「女性」「子ども」「高齢者」「障害のある人」「同和問題(部落差別)」「アイヌの人々」「外国人」…と列挙が続く。行政などが主催する市民対象の人権啓発などの催しでは、こうした個別イシューに沿ったテーマ設定が少なくない。おそらく企画する段階ですでに、こうした枠組みに基づく人権イメージが前提されている。行政の施策枠組みや意識調査にもこれは反映され、そこでは『人権の擁護』の個別イシューがそのまま列挙される場合が多い。

 間違っているわけではない。人権侵害を受けやすい当事者ごとに列挙されたこうした個別イシューベースの課題設定は、具体的な問題に即して人権を考えるという点で多くの人に分かりやすいものでもある。しかし、問題はその先にある。問題は、施策を考える行政職員や意識調査の設問に回答する人びとの人権のイメージが、個別イシューの段階でとどまり、それぞれのイシューにおいて具体的にどのような権利が侵害されているか、というところにまで行きつかないのではないか、という点にある。

 例えば「障害のある人」がまっとうな教育を受けられないとしたら、それは「教育を受ける権利」の侵害だし、職場での「合理的配慮」の取り組みは「労働の権利」や「職業選択の自由」に関わるものだ。これらは、さまざまな場面で人間として尊厳を持って生きるのに不可欠な当たり前の権利、つまり誰もが本来もっているはずの人権の問題だ。こうした「あらゆる人権及び基本的自由」(障害者権利条約)の視点まで行きつくことで、「かわいそうだから」といった、陥りがちな上から目線の温情主義(パターナリズム)にも歯止めをかけ、本来の当事者目線で問題を捉えることができる。

 また、例えばさまざまな人権侵害に結びつく長時間労働の問題は、こうした個別イシューからは想起されにくい。つまり、個別イシューにとどまっていると応用問題に弱くなり、人権侵害に気づく感度は鈍くなる。自分とは関係ないと思ってしまえばそれまでだし、翻って自身が生きにくさを感じても、場合によってはそれが自身の人権の問題であることにも気づきにくくなる。そして、人が生きる権利である人権までもが義務とセットで捉えられがちで、同調圧力から「我慢」を強いられがちなこの社会の雰囲気が、それをさらに後押しする。「権利」を「腹落ち」させるには、「right」には「当然の」「正当な」という含意があるように、それが人として「当たり前」であることを理解し、納得する必要がある。

「ビジネスと人権」と人権教育の接点

 「ビジネスと人権」の枠組みをまとめたジョン・ラギーは、それに至る過程の中で、数百に及ぶ人権侵害事例を分析し、「何の/誰の権利か」「どこで/どのように侵害されたのか」という視点から分析を試みている。そこでは「何の権利か」として、「仕事への権利」「安全な作業環境への権利」「休息と余暇への権利」「家庭生活への権利」「生命、自由及び人の安全への権利」「プライバシー権」「教育の権利」など、人が生きるにあたって大切なさまざまな「権利」が列挙されている。企業が「ビジネスと人権」の枠組みのもとに人権尊重に取り組むには、こうした権利の理解のもとに、誰の、どのような権利が侵害されているのかを特定することから出発する必要がある。

 まだ緒についたばかりだと言ってもいい日本企業の「ビジネスと人権」の取り組みが、今後さらに広がりを見せれば、「権利」が人として生きるのに不可欠の、当たり前の大切なものであるという認識が、ビジネス以外の現場にもじわりと浸透していくかもしれない。その意味で「ビジネスと人権」は、「権利」を「腹落ち」させるように人権教育を徐々に変えていく可能性を秘めているのではないかと筆者は考えている。

 世界人権宣言は、未曾有の被害をもたらし、人権が軽視され蹂躙された世界大戦の反省から出発している。いたるところでなお人権が踏みにじられている厳しい現実と、それに抗おうとする流れがせめぎあう中で、人権教育のあり方を含め、人を大切にすることの内実が問われている。