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国際人権ひろば No.138(2018年03月発行号)

特集 「人権」のとらえ方再考-権利を理解する学びを

障害者の権利回復を目指して

藤原 久美子(ふじわら くみこ)
自立生活センター神戸Beすけっと事務局長/DPI女性障害者ネットワーク代表

分離社会-別世界に住む障害者

 「障害者には人権がない」ーそんなことを言ったら、大きな反発が来ることが想像される。

 街中にはユニバーサルトイレが普及し、点字ブロックが貼り巡らされている。

 以前、歩きスマホをしている人にインタビューしているのをテレビで見たが「向こうがよけてくれるから大丈夫」と答えている人がいた。私のような単独で歩くこともある視覚障害者は自分からよけることができず、安心して歩くことができない。また一時的に車いすに乗った時、初めて気づいたことがある。私の自宅からは駅の西改札口が近く、駅のエレベーターも西口にある。ところが、自宅から西口改札口までの間に階段があり、一旦東口から迂回しないといけないのだ。歩ける人の利便性は考えられているが、歩行困難な人のアクセスなど考えられていないのが現状だ。

 これまで障害者は家の中や遠くの施設などに収容され、公共交通機関などは使わないものと思われてきた。それゆえ、街づくりの中に障害のある人は想定されてこなかったのだ。

 そこで起こったのが2016年7月の津久井やまゆり園障害者殺傷事件だ。施設の元職員が「障害者はいないほうがいい」として、19名もの障害者の命を奪い、26名が負傷した。

 この事件以来、街を歩いていても恐怖を感じ続けているが、社会は彼が精神障害により特異な考え方をもったと片づけようとし早くも風化していこうとしている。自分たちとは別世界の隔離された障害者世界での話なのだ。

権利に基づかない福祉

 皮肉にも事件の同じ年の4月に障害者差別解消法が施行された。これは2006年に国連で採択された障害者権利条約(CRPD)を日本が批准すべく新たに策定された法律である。

 この法律では入店を拒否するなどの直接差別と、合理的配慮の欠如が差別とされている。合理的配慮は、CRPDの英語原文では『reasonable accommodation』となっていて、障害当事者と建設的対話を行うことにより、個々のニーズに沿った対応を検討することである。相手にとって「これがいいだろう」と思って行うことではなく、どうしたらいいかを障害当事者に聞き、その当事者がどうやったら目的を達成できるかを一緒になって考えることが本来の意味である。

 しかし、「配慮」と訳してしまったために、「心配り」といった余裕のあるものが相手を思いやって行うもののように理解されてしまっている。

 障害者は「福祉」の対象と捉えられ、その中でしか生きていないように思われているのではないか?福祉というのは人としての尊厳を保つための最低限の生活を保障するため、社会的援助を提供することである。確かに車いすなどの用具や介助者派遣などは「障害者福祉」で行う。しかしその障害者が一人の人として生きていく場合、福祉の枠だけでなく、例えばDVに遭ったらDV防止法で守られるはずである。ところが、障害者はDVシェルターではなく福祉施設に送られることになっており、障害者福祉が優先されてしまう。このように常に障害者は恩恵や庇護をうける対象でしかなかった。

 CRPDは国連で採択された人権条約の中で一番新しい条約で、「人種」や「女性」のような「差別撤廃条約」ではなく、「子ども」の条約と同じく「権利条約」となっている。障害者や子どもは一人では何もできない、能力がない、未熟で謝った判断をする。だから守ってあげないといけない保護や庇護の対象だと思われてきたからではないかと私は思っている。

 常に安全に守られるということは、管理されるということだ。そうなると管理者がコントロールしやすいように矯正・強制される。障害者は「あなたのため」と言われながら、自由を奪われ、健常者に近づくことをよしとされてそのままでいることを否定される。

 子どもの頃「自分のことができるようになってから文句を言え」と言われてきた、小学校で「権利」の反対語は「義務」とも習ってきた。だから、障害があって「義務」を果たせないのに、権利がないなんて言えないと思ってきた。ちなみに人権を保障する「義務」があるのはまず「国家」である。

 しかし、「権利」は英語で『right』、つまり「正しい」=『そこにいていい。当たり前』ということのはずなのに、権利を主張するとまるで権力を振りかざすもののように捉えられる。

 「権利」の反対語は「排除」であり、その最大のものが「そこに居てはいけない」とされ、命を奪われるということだ。

強制不妊手術の被害者が声を上げ始めた!

 日本には今から約20年前まで「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という目的を持った『優生保護法』(1948?1996)という法律があった。

 宮城県の飯塚淳子さん(仮名)は、17歳の時に何も告げられないまま不妊手術をされ、結婚もしたが子どもができないことを理由に離婚、自分の人生を返してほしい、と2015年6月に日弁連に対し人権救済を訴えた。翌年3月には国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)から、被害者への謝罪と補償、そして加害者への訴追を求める強い勧告を出された。国連自由権規約委員会からは過去2回勧告が出ており、2017年2月には日弁連が、優生手術が憲法違反であるとの見解を示して国に意見書を提出した。こういった動きを受けて、2016年4月から厚労省は被害者と支援者との意見交換会をこれまでに6回にわたり行っているが、その中で「手続きは厳粛に行われ、当時は適法だった」としてきた答弁に疑念が出てきた。

 被害者の一人、佐藤由美さん(仮名)は15歳の時、遺伝性精神薄弱として本人や家族の同意なく、強制不妊手術を受けさせられた。しかし、障害者手帳には「遺伝要因(-)」と記載されている。この法律は遺伝性であれば、本人や保護者の同意なく、医師の診断と優生保護審査会の決定により強制不妊手術を行うことができた。由美さんの体には当時の手術の跡が痛々しく残り、今でも体調不良を訴えると、義姉の路子さん(仮名)は語る。まだ十代の少女たちに行われた、その人生を大きく変える手術が、あまりにもずさんな審査基準で行われ、強制不妊手術被害者は厚労省が把握しているだけで16,500件(約7割が女性)にも及ぶ。さらにこの法律で認められていない放射線照射や子宮摘出などもあり、中には、月経介助の負担を軽減するために行われたものもあった。

 2018年1月30日、佐藤さんは国に損害賠償を求めて仙台地裁に提訴した。手術された身体はもとには戻らないけれども、今も声をあげられずにいる被害者たちが声をあげられるように、そして「これが過ちだった」ということを広く知らしめること、それこそが障害者の人権の回復につながるのだと期待している。

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強制不妊手術に対する国の賠償を求めて提訴する弁護団と原告支援者
(2018年1月30日、仙台地裁前)

インクルーシブ社会は、権利を正しく知ることから

 私は障害を持ってから2004年に妊娠をした時、「障害児が生まれるリスクが高い」「障害があったら育てられない」として、医者と親族に中絶を勧められた。それは私が苦労しないように、という思いやりの言葉だったのである。私が住む兵庫県には、かつて「不幸な子どもが生まれない県民運動」というのが知事の肝入りで行われ、その背景に優生保護法があった。

 優生手術に関わった人たちの中にも「よかれ」と思ってやった人たちも多くいただろう。誰も相手を傷つけようなんて考えてもいないのに、常に「医者と障害者」であったり、「施設職員と障害者」であったり、違う立場にある者が対立させられる。しかしこれはこのような社会構造のためであって、個人の問題ではない。

 障害者だけが権利を奪われているとは思わない。障害の無い女性も男性も、障害者のように「能力がない」と判断されたら、いつでも切り捨てられる社会なのだ。認知症になった人たちの現状は、まさにそのことの証明である。正しく「権利」の意味を知ることで自覚し、そうすることでまた他人の権利にも敏感になれるのだと思う。

 お互いの権利を尊重し、合理的配慮を行い共生すること。それこそがCRPDが目指す真のインクルーシブ社会なのだ。