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国際人権ひろば No.136(2017年11月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

仁川(インチョン)からのパラム(風) 過去から現在へ

戸田 郁子(とだ いくこ)
作家、翻訳家。仁川官洞(クァンドン)ギャラリー館長

私を待っていた家との出会い

 韓国仁川の旧日本租界に住み始めて5年目。仁川官洞ギャラリーをオープンして3年になる。ここは日本から海を渡った大工さんの建てた木造の町屋で、その手仕事の跡が屋根裏などに残っている。

 初めてこの家に足を踏み入れたときの驚きは、忘れられない。玄関を入ると、長い廊下が奥に続いていた。中ほどに階段があり、廊下と並行して部屋が並んでいる。私が幼いころ日本で住んでいた家と瓜二つで、忘れていた故郷に戻って来たような不思議な既視感を覚えた。

 しかし、ここは韓国だ。家の主人は私を案内しながら、「使い勝手の悪い家」と苦笑した。韓国の住宅には廊下がなく、中央にある居間が各部屋とつながっている。部屋をふすまで仕切った日本家屋は、韓国人には不便なのだ。しかしなぜ、戦後70年もそのままにしておいたのか……。「この家は、私を待っていた」と直観した。

 その後、壁を隔てた隣家を入手し、1年かけて改築工事を行ってギャラリーとした。床を掘り起こしたり天井板や壁を撤去すると、過ぎた時代の痕跡が次々と現れ出た。1924年の京城日報が出てきたときには、胸が高鳴った。築年度は特定できないが、少なくとも90年はたっていることを確信した。

 日本人が暮らしたのは20年ほど。その後70年は韓国人が住んだはず。ギャラリーには過ぎた暮らしの痕跡をあちこちに残している。

 設計から施工までを、ソウルの漢陽(ハニャン)大学建築学部の冨井正憲教授が担った。韓国に住んで10年になる冨井教授は、「韓国の建築を最も深く理解する日本人」として知られ、近代建築の研究者でもある。この人と出会わなければ仁川官洞ギャラリーは誕生しなかったし、この家に対する私の愛着もここまで深くはならなかっただろう。

 終の棲家を見つけた喜びと、歴史の痕跡を守る責任を、私はこの家で感じている。

「日帝時代」へのこだわり

 私が初めて韓国を訪れたのは1979年だった。学生同士の交流で韓国の大学を訪ねると、会う人ごとに「あなたは日帝時代をどう考えますか」と質問された。初めて聞く「日帝時代」という単語に、私は立ちすくんだ。いったいどんな時代だったのか。なぜ私はその歴史を知らないのか。なんだかとても恥ずかしくなった。

 作家金素雲(キムソウン)先生の「人は生まれた国の重荷を背負って生きている」という言葉が、私を韓国へ導いた。1983年にソウルに留学し、その体験が『ふだん着のソウル案内』(晶文社・1988年)として出版されたのを機に、私は書くことを自分の仕事と定めた。

 その後、中国東北地方(旧満洲)に8年ほど住んだのも、「日帝時代」へのこだわりのためだった。その時代に朝鮮半島から中国へ渡った人たちが、後に朝鮮族となって中国に定着したことを、『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(岩波書店・2011年)にまとめた。

 思い起こせば、「日帝時代」という言葉が私を韓国へ向かわせ、そして引き留めた。留学時代もその後も、私の頭にはいつもその単語が引っかかっていた。知りたいと思う気持ちで韓国に住んだが、ときにはどうすればそのしがらみから逃れることができるだろうかと、もがき苦しんだ。

 私の過ごした1980年代からすでに、「教科書問題」や日本の政治家の「妄言」などのたびに、韓国で反日気運が高まるのは恒例だった。商店街にはためく日本製品ボイコットの横断幕を見上げては、苦しい思いにかられた。

 いつの時代もマスコミがまず煽り、世論がそれに追随した。過激な言動に走る者が出てきて、険悪ムードはまさに沸点に達するかと思いきや、「これじゃいけない」という冷静な意見が出てクールダウンする。私の体験した30年余りの日韓関係は、まさにその繰り返しだった。

 そして今、私は思う。歴史を恐れる必要はない、と。怖いと感じるのは、知らないせいなのだ。

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築90年以上の日本家屋を、暮らしの痕跡を残して
ギャラリーとして再生した

開港場の歴史

 仁川と聞けば、国際空港のあるソウルへの玄関口、という印象しかない人も多いかと思う。

 仁川広域市の人口は300万人で、釜山(プサン)に次ぐ韓国で3番目の都市だ。ソウルまでは地下鉄で約1時間の通勤圏にある。

 人口が集中しているのは、新都市と呼ばれる高層マンションの立ち並ぶ地域。私の住むのは旧市街地に当たる中区で、海に面した一帯は開港場と呼ばれている。

 町の歴史を、簡単にふり返ってみよう。

 鎖国政策をとっていた朝鮮王朝に対して、海外列強が開国を迫り、仁川沖の江華島(カンファド)を攻撃した。フランスやアメリカ、日本の軍艦が相次いで威嚇や一時占領を繰り返し、ついに朝鮮王朝は釜山、元山(ウォンサン)、仁川の三港を開いた。

 1883年に仁川が開港すると、都に最も近いこの港には海外から人や物資が急速に流入し、朝鮮近代化の先駆けとなった。開港場付近には日本や清、イギリス、ロシアの領事館が設けられ、各国の租界が形成された。 冒頭に旧日本租界と書いたのは、そのころの話だ。

 日清・日露戦争では仁川沖が戦場となり、この町に日本の軍隊が駐屯した。どちらも、朝鮮の利権を争う戦争だった。勝利した日本は、朝鮮支配を具体化してゆく。1910年の韓国併合後は日本人の人口が急増し、1914年には各国租界が撤廃された。仁川の開港場付近には、2万人もの日本人が住んだと言われる。

 1945年の終戦で日本人が引き揚げると、今度は米軍が駐屯し、やがて朝鮮戦争が始まった。マッカーサー率いる連合軍の仁川上陸作戦によって、北の勢力を後退させたことを紀念して、港を見下ろす公園にはマッカーサー将軍の銅像が立てられた。

 1970~80年代の高度経済成長期には、開港場から離れた場所に大規模な工業団地やマンション群が造成された。開港場にあった仁川市庁(この建物は、日帝時代には仁川府庁だった)が新都市に移転して、この一帯は都市開発の波から取り残された。

 現在、仁川市中区(チュング)では、近代化を象徴する石造りの銀行や郵便局などが残る地域を「開港場文化地区」に指定して、「歴史と文化の町」をテーマにした活性化に取り組んでいる。

文化が互いの心をつなげる

 仁川官洞ギャラリーをオープンして間もないころ、中区のお祭りがあった。私は旧日本租界に住む唯一の日本人として、当時の暮らしを再現する展示を行うことにした。

 ショーウィンドーに日本の着物や人形を飾っていると、見知らぬ男性が入って来て、「あんたは韓国人か、日本人か」と怒鳴った。

 私はその人を招き入れ、自分は日本人で、韓国で近代史を勉強したこと、歴史の痕跡を守ろうと考えていることを話した。男性は穏やかな表情になって、自分は解放の年(1945年)に小学1年生で、少しだけ日本語教育を受けたという話を始めた。韓国の人々の「日帝時代」へのこだわりを理解した上で、和解は可能なことを実感した。

 実は、私が張りきって準備した「旧日本租界の生活展」には、あまり人が集まらなかった。ところが戦後70年を記念した「資料で見る日帝侵略史展」には、びっくりするほどの観覧客があり、改めて韓国の人々の関心の在処を認識した。

 この小さなギャラリーを通じて、私にはやることがたくさんある。国境を超えて共感できるものを探すことが、狭間に生きる私の役目と自覚しているからだ。

 日中韓を行き来してきた私は、お互いが笑顔を交わし合える展示を企画していこうと考えている。昨年は「鶴展」を開催して、好評だった。シベリアから飛来し、どこに降りても吉鳥とされる鶴。昔話やことわざの違いもまた楽しく、かわいい鶴の姿を愛でて笑顔になる人を見て、私も嬉しかった。身近にある文化の中にこそ、互いの共感を呼ぶ要素があることを知った。

 今は「愉快なトッケビ 日中韓のオニのイメージ」展を12月10日まで開催中だ。原初のオニの姿はどの国もよく似ており、共に守護神の役割があったことを知ってもらいたい。

 オニの展示は、近所にある複数の私設博物館とも連動して開催中だ。長く韓国に住んだが、地域の町おこしに関わる喜びは、初めて知った。

 ここは仁川。「日帝時代」にこだわった私が行きついた町だ。

 

仁川官洞ギャラリー(http://www.gwandong.co.kr/

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「愉快なトッケビ 日中韓のオニのイメージ」展の
看板がかかる仁川官洞ギャラリーの入口